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もし、仮に関が原に上杉家からの派遣として直江山城守。徳川家に一泡吹かせたい真田昌幸がいたら情勢は少しは変わっていたでしょうか?

A 回答 (8件)

>もし、仮に関が原に上杉家からの派遣として直江山城守。


直江兼続は有能な政治家・行政官でしたが軍人・将官としては二流でした。
要塞化したに会津に徳川勢が突入してこなかった時点で上杉側の敗北です。
上杉勢が反転する徳川方を攻撃しても時間稼ぎになったとしても上杉勢は敗退していたでしょう。
上杉勢は最上一国にも勝てませんでした。

>徳川家に一泡吹かせたい真田昌幸がいたら情勢は少しは変わっていたでしょうか?
真田も所詮は小領主なので戦力にはなりえません。自領でゲリラ戦だったので大軍を引きつけできたのです。

関が原を変えるには
1.前田利家が生きている内に一戦交える。
2.秀頼を戦場に引き出す。
3.毛利(吉川・小早川を含む)が本気を出す。
4.秀吉が石田・大谷にそれぞれ100万石ほど与えておく。
5.大津(京極高次)が寝返らないように先手を打っておく。
6.島左近の助言通り家康を暗殺する。
7.島左近の助言通り家康を夜襲する。
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参謀としての参加だけでは何もかわらなかったんではないですかね。


ふたりがいても、意見が優先して通るかどうかですから、(みんな団子の背比べで、親方は大阪城ですからね。家康に対抗できるのは秀頼だけでしょ。) まあ、だれがみても、西軍有利な配置で、裏切りを想定しなければ、この両名も勝ちを確信していたでしょう。もし秀頼が来ていたらどうなっていたでしょうならIFぽい、また真田もこんな大軍を動かせる器量は、どうですかね、よく知った場所でのゲリラ戦クラスでしょう。兼続も官僚ですから、実戦は上手ではなく駆け引きは少々疑問が付きますしね。
戦う前に負ける合戦の見本みたいでしょ、ライオンの東軍、その前に、エサになるように、西軍を肉のカタマリのようにしていた、
信長に勝てず、秀吉にも勝てなかった家康に、手も足もでないでしょうね
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 どのくらい関が原の合戦を把握されているのでしょうか?加勢があれば変わってたか・・・とご質問になるということは、西軍は兵数で負けたとお考えなのでしょうか?



 ちょっと調べればわかることですが、真田が秀忠を足止めした為に、秀忠率いる別働隊は遅参(間に合わずに戦力にならないこと)し、その結果として・・・西軍の方が兵力は多かったです。しかし、西軍は戦闘に参加していた部隊はごく一部であり、少数の西軍が多数の東軍を押している状況でした。このまま続けば東軍は別働隊が来るまでに敗北していたでしょう。
 東軍が逆転したのは、西軍の裏切りによるものです。小早川秀秋の裏切りをキッカケに数人の武将が裏切って、攻勢をかけている西軍に打ちかかった為に西軍は敗北しました。

 これらの事実からわかるのは、戦略的には兵力を多数集めることが重要であるにも関わらず、士気の低い部隊は兵数ほどの働きはしないことです。兵力×士気=戦力とでもして、戦力の強い方が勝つと思ってよいと思います。

 要するにですが、直江や真田がいなくても裏切りがなければ、戦力の高かった西軍は勝っていただろうと思います。
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No.4さんに賛成^^



さらに、金吾です問題は。

金吾さえあの場に出さなければ、勝利は間違い無い。

小早川勢1万8千の行った来たが決定的です。

名参謀モルトケの愛弟子にして、明治陸軍を実質的に設計したメッケルは、関が原の配置を見た途端に「西軍の勝ち」と断じたのは有名な話しです。

西軍で実質的に最強だった(と私は思っていますが)立花勢1万を機内の東軍の城の攻略になどまわさず、小早川勢をそれに当て、立花勢を関が原に出せば、楽勝だったでしょう^^
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同じIFなら立花宗茂が関ヶ原に間に合ったら、というのも面白かったと思いますよ。

手元に資料がないのでうろ覚えですが、たしか手勢を率いて京都付近まで着ていたはずです。
全国的にはマイナーな武将ですが名将立花道雪の養子であり、実父はあの「玉砕」の語源にもなる苛烈な戦死をした高橋紹雲、その才能を見込まれて道雪の跡継ぎとなり、秀吉にも見込まれた人材です。あの鬼石曼子こと島津軍でさえ恐れたといいます。ついでに奥さんは戦国最強です、たぶん(むっちゃ気が強いことで有名です)。

直接の回答でなくてすいません。
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視点をどこに置くか、条件をどのようにつけるか、そうした多面的な思考って楽しいですよね。



質問文の条件も、視点によって勝ち負け両方ありますよね。

直江や真田を、「上等な兵士や人数」と見ると、どうもそれだけでは勝てないような気がします。
結局、石田三成に付いた人たちも、豊臣方として付いたけれども、石田三成は信用していない。そういう情勢では、強い兵士が何人か増えても、やっぱり負けですね。

もうひとつの見方で、「石田三成が、直江や真田を味方に付けるような、大きな信用を得た」と考えると、がぜん、豊臣方の勝利が見えるような気がします。

こんなふうに想像しました。
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歴史にifがあったら面白いですが、



関ヶ原の場合、戦術面での敗北ではなく、
政治的な敗北の要素が強いため、
それでもダメだったような気もします。

例えば島津勢などは一軍を率いて
すたこらさっさと敵中突破を強行して
逃走していますね。
あれなど、やる気がないのがみえみえで、
本気で戦闘に加わっていたら、

長宗我部勢が加わっていたら。。。。
それができなかったから、西軍は負けるべくして負けたと。。
後から外野がどうこういうのは簡単なんですが、

真田勢が関ヶ原にいたら、
徳川秀忠勢の五万が関ヶ原の戦闘に間に合っていたのでは?
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歴史にifは禁物ですが、頭の体操として


真田昌幸は上田城で秀忠率いる徳川本隊に囲まれているので関ヶ原には行けません。  また上田城に篭っていなければ行けますが、関ヶ原では秀忠の本隊と家康の別働隊との合力により西軍は、数の上で負けでしょう。
直江は、家康全軍が小山で対峙していて光秀挙兵の報により江戸に引き上げる時、押さえの隊を残してあるので、家康軍の後を追うことはできない。   そもそも、京にいた家康が上州小山に行ったのは上杉征伐が表向きの理由で、上杉軍がたとえば甲州などに居ればそこを攻めています。  したがって関ヶ原には出てこれない。
西軍に参加した武将は、岐阜より西の者だけです。
私は三成が家康に野戦を仕掛けるならば、もっと東の名古屋あたりでやれば海路があり解らなかったと思います。
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