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明治維新前、日本には、科学、論理、数学的発想が薄かった???
古代ギリシアや中世イスラムでは、科学や論理、数学的文化が栄えたように思えます。

ひるがえって日本を見たとき、科学、論理、数学的発想は明治維新まで乏しかったように思います。

戦国時代の海外技術の流入も、科学というよりは技術と割り切って利用していたように思います。

和算などもあったようですが、和算が科学に結びついていくこともなかったように思います。

日本に科学が根付いたのは、明治維新後であるように思います。

それ以前は技術はあっても、科学はなかったような……

この認識は正しいのでしょうか。

間違っているのでしょうか。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (8件)

まずは、大前提となる「科学」という言葉から定義づけしないと、何とも言えないと思いますよ。



さて、その「science」という言葉の語源ですが、ラテン語の動詞"scio"(=知る。分子形が"sciens"。名詞は"scientia")に由来するとされています。
いつ頃から使われ始めたかというと、意外と歴史は浅く概ね19世紀頃であるとされています。

一方、技術(technology)は、古典ギリシャ語の、"ΤΕΧΝΗ"(テクネー)(=「わざ」的なもの全般を指す語。ラテン語では"ars")に由来するとされています。
こちらも、今日の意味で使われるようになったのは18世紀末から19世紀の時代、概ね英国での産業革命頃からだと言われています。

ということで、「科学」と「技術」を別概念として捉えるようになったのは、「産業革命」とそれに先立つ「科学革命」の結果と言えるかと思います。
「科学革命」というのは、オリエント方面から伝わった文化(イスラム文化とシルクロードを通って伝わる中国方面の文化や知識)に刺激されることで始まります。(所謂、ルネサンス時代)
それまでは、教会(ローマ教皇庁)によって厳格な「神学」的な発想しか許されない時代であり、そうした「世界観」に引きこもっていたような時代です。
なんで「中世は暗黒時代だ」などと言われたりします。(最近ではこの説も覆りつつありますが、、、)
そして、ルネサンスという他の文化圏の刺激を受けての活動がはじまります。
その過程で、それまでの教会(主にカトリック)の神学から徐々に自由に世界認識を(言い換えれば神の真理)を追求するようになっていきました。
そうした背景の元生まれてきたのが、コペルニクスやガリレオ、ベーコンやニュートンなどの優れた哲学者です。
彼らによって、教会に規制されていた思考から、必ずしも教会に規制されない自由な「世界の真理の探究」が目指されるようになっていきました。

その後、ベーコンが提唱し後にフランス百科全書派と呼ばれる人々に受け継がれた「学問の壮大な体系化」が試みられていきます。
つまり、「科学革命」の一つの特徴は、細分化と整理とそれに伴う「専門化」が進んだことと言えます。
今では、「自然科学」「人文科学」「社会科学」などなど、さらに分ければ生物学・化学・物理学・歴史学・考古学・政治学etc,,,と多くの学問分野、所謂「科」に分けられていますが、「科学革命~産業革命」以前は必ずしもそうした分類はありませんでした。
むしろ、レオナルド・ダ・ヴィンチのようなあらゆる方面に希有な才能を示す人がおり、彼らが行っていたのが「知識の追求」です。(あえて区別するなら、「神学」「哲学」「法学」「医学」位の違いでしょうか?)

そして、この「科学革命」の第二派が「産業革命」であり、この過程で「科学」と「技術」という概念が生まれていったといえます。
というよりも、「科学者」という職が生まれたといった方が良いかもしれません。
ある意味、「科学者」の「プライド」から生まれたような言葉とも言えます。
産業革命の過程の中で、ある原理を追求し明らかにする「科学者」と、その原理を利用して金儲けする「資本家」と、その資本家のもと実践的に技術を行使する「労働者」が生まれていったとも言えます。

一方、日本では「科学」という語はどうやら12世紀ごろの中国で使われていた「科挙之学」の略語として使われていたモノを輸入して使っていたようです。
ただし、その意味するところはもっぱら「個別学問」位の意味しか無かったようです。
それが、先に示したように明治期の文明開化のなかで「science」の訳語として定着したというのが定説のようです。

「技術」の方は古くから中国や日本の文献にも見られるようです。
ただ、その意味するところはやはり現在とは違い、江戸中期頃では当時の知識人が身に付けておかねばならない最小限の教養(マナー・音楽・弓術・馬術・文字・算術etc,,,)を意味していたようです。(他にも「芸術」を意味することもあったようです。)
それが、明治初期に設置された工部省という役所(欧米先端技術を積極的に導入するための機関)が、公文書の中で「技術」を採用したようです。


と、少々長文でまとまりのない文章となってしまいましたのでこの辺で私なりの結論を述べてみます。

日本では、「科学、論理、数学的発想が薄かった」わけではなく、ただ単に今日で使われる意味において「科学(science)」や「技術(technology)」という概念や用語を用いていなかっただけでしょう。
というのも当たり前で、今日で使う意味として定着している「概念」は英語の「science」や「technology(あるいはMechanical Art)」の訳語としての「科学」や「技術」であり、その訳語が当てられたのが明治期の文明開化であるからです。
昨今では「科学技術」という概念も広く流布していることを考えれば、「科学」と「技術」を分けること自体がナンセンス(前近代的)なのかもしれません。
そう考えると、日本の長い歴史でも「科学的」な思考と合理性でもって発展した技術も多々あるわけで、それを「科学」や「技術」と呼んでいなかっただけとも言えます。
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#5です。



明治以前の日本の近代性について論じた本があります。
  『徳川時代の宗教』R. N. ベラー著、池田昭訳、岩波文庫
です。マックス・ウエーバーは彼の古典的名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で西欧文化が、科学、論理、産業革命の近代化をやってのけた根拠として、如何にプロテスタンティズムが本質的であったかを論じたのですが、このベラーの本は、マックス・ウエーバーの主張の反例として、プロテスタンティズムに無関係な江戸時代の近代性を実証的に論じております。

もう一点、

>それ以前は技術はあっても、科学はなかった

質問者さんはこの文章で何を言いたいのか良く分かりません。技術は合理的な論理がなくては発展するものではありません。質問者さんは科学と合理性とは違うことだとでも言うのですか。もしそうなら、何処がどう違うのですのですか。
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いやいや、明治維新後もどうだか。

昭和天皇は戦後「戦中の軍人は精神論ばかりに走り、科学の心を忘れてしまった」と回顧しています。東条英機首相も、在任中の演説で「物資には限度がありますが、永遠無限なるもの、それが精神力であります」とまあ確かにモノがなくて困った時代であったとはいえ「足りない分は全て精神でカバー」と乱暴なことをいっていました。
遡ってソ連軍と日本軍が戦って敗北を喫したノモンハン事変でも、敗北の原因はソ連軍が圧倒的な物量と兵力で押してきたからですが、実際には「現場の将兵が根性なかったから負けた」で片付けられてしまいました。
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西洋至上主義ですね。

西洋人以外は、日本人も、中国人も、インド人も、アラビア人も、その他諸々の人達は、世界を科学的、合理的、論理的に見ることが出来ず、その点、西洋人よりも劣った民族であったというのですね。

先ず、歴史の中で数限りなく繰り替えさえて来た歴史的事実に目を開いて下さい。古い政治形態を覆して、新しい政権を勝ち取った連中は、常にそれ以前の政治形態を糞味噌に喧伝して、自分たちの正当性を主張して来たという歴史的事実です。勿論、明治政権もその例外ではありません。彼らは、明治以前の後進性、不当性を針小膨大に宣伝しまくりました。鹿鳴館のグロテスクさは質問者さんも良くご存知だと思います。アメリカの日本占領時には、戦前の日本の政治形態を糞味噌に喧伝し、自分たちが日本人に正義と民主主義を教えれやるのだと言っておりましたね。そのアメリカで、同じ国民であるアメリカ黒人に正式に国民としての権利を白人と同じく与えた公民権法が成立したのは、日本の普通選挙法の1926年の実施に遅れること約四十年、第二次世界大戦後も20年近く経った、1964年のことでしたね。

質問者さんは、まさか工学者達を科学的な連中ではないとは言わないでしょう。工学者達の世界観の際立った特徴は、自然界を合理的に観察し、その観察結果手に入れて来た否定できない事実を確立し、さらに、それの事実を出発点として論理的に得られる事実の集積を合理的に整理し、非常に使い易い百科事典を作り上げる方法で、世界を整理して行きます。この見方は、西洋ばかりでなくあらゆる文化や文明が行って来た見方です。ですから、どの文明も大変科学的でした。

ただ、西洋が唯一違っていたことは、その整理された百科事典的な世界の認識の裏に。さらにそれを統一する統一体としての原理があるに違いないという、神懸かり的信仰を持ったことです。そんな統一体があるとは、現在に至っても未だに誰も証明してはいないのですが、それを信じて知的体系を整理してみたいという形で西洋人は今まで進んで来ました。多分この神懸かりを持っていることが、西洋を他の文明と際立って違ったものしているのだと思います。果たして、その統一体の存在を信じることが科学的なのか、あるいは、整理された百科事典を作ると言う工学者的な態度が科学的なのか、どちらなのでしょうか。

さらに、現在西洋人達が発見したと主張している大発見で、それよりも数百年も前から中国人が既に知っていたり、インド人が知っていたい、アラビア人が知っていたことは、数限りなくあります。たまたま近代、現代で西洋人が軍事的覇を握っていたからと言って、西洋人の宣伝文句に踊らされて、自分たちを卑下する必要はないと思います。質問者さんも、西洋人に洗脳されてしまった所謂日本の文化人達の言い分を真に受けるばかりでなく、虚心坦懐に日本や中国やインドの知的発展の歴史を学んで、西洋かぶれしてしまった連中の言うことを批判的に分析して見る態度を養うことをお勧め致します。
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物理学では1760年生まれの蘭学者の志築忠雄は、「求力論」を書きニュートン力学の大要を体系的に紹介し、これは日本、中国を通し初めてといわれます。

    さらに研究し宇宙起源論を論じたそうです。

化学では1797年生まれの蘭学者の宇田川榕庵が、「セイミ(化学)開宗」を書き、近代化学を紹介しました。
関心のある医者により化学が進歩しました。
古く中国より伝わった錬金術により、下地があったと言うことです。
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まぁ欧米から50年くらい遅れたという感じ。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6% …
フーリエが数学者として食えた最初らしい。これが19世紀前半。他は自分が金持ちだったり、支援者がいたり。つまり道楽です。
東大の理学部の前身である開成学校が1870年頃。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%88%90% …
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鎖国により日本の技術は大いに遅れを取りました。



特に朱子学以外を禁ずる法は尊王に結びつき幕府の寿命を縮める事になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF% …

しかし寺子屋は百姓町民を教え、
文盲率は先進諸国よりはるかに低かったと言われています。

但し、読み書きそろばんであり、
伴天連追放令により、思いの外自由な学問は成り立ちませんでした。
しかし体積(枡)や重さ(貫目)は相当に強い認識でありましょう。

鎖国により海外の本も輸入は禁じられていました。
徳川吉宗の緩和令により、ようやく天文学や数学、科学、医学の本の輸入が緩和されます。

ケプラーの法則を同時に発見したと言われる 麻田剛立。
世界初となる麻酔手術の華岡 青洲。
いずれも吉宗時代以降の人物となります。

この付近から日本の学問が大いに発達したと認識すべきでしょう。

特に軍事面、航海術では遅れを取っていました。
しかし、これは科学ではありません。

諸外国は産業革命の真っ只中にあり、
富国強兵政策及び植民地主義に走っていましたからそう思えるのだと思います。

中には、芸術とは写真に近い絵だ。こう言う方もいます。
芸術とは、いかに表現するかが大切な物です。

これが浮世絵を流出させ、日本画、漆工芸品を流出させます。
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間違っています。


江戸時代の関孝和は円周率を11桁まで出していることや和田寧の円理表(積分)などは有名ですが、土木、建築、財務、暦の計算などにある程度の数学が必要であったことや、太閤検地のころは算木を使った計算をしたとの記録もある。
れきとした科学のための数学ではないでしょうか?

江戸時代後期に伊能忠敬が大日本沿海輿地全図を1824年に完成させた。  測量技術と幾何学の知識が無いと出来ないことです。

大宝律令に、算術掛りという部署があることが記載されていることから奈良時代から算術を専門に扱う国家の組織があって暦や占星術などに使われたのだろうと思います。
天体観測は、科学です。
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