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少々ややこしい質問になってしまったのですが、どなたか少しでも「こうではないか」と思う所がございましたらご教授頂きたく宜しくお願い致します。
また、参考書籍などございましたら教えて頂ければ幸いです。
そもそも会社の経営とは何ぞや、という思想が分かっていない部分と質問がまとめきれない部分がございます。この為、冗長となり読みにくい部分もあるかとは思うのですが、何卒ご容赦下さい。

松下幸之助さんの水道哲学に代表されるように、従来の日本企業は、自己組織の利益追求だけでなく「広く、日本社会を豊かにするように」という社会奉仕の理念が打ち出されています。

私自身も水道哲学には感動しているのですが、私自身が認識している会社組織の経営とはまず自己組織の利益追求を考えるという事が基本となっているので、この社会奉仕を含めた経営というものをどう捉えれば良いのか分かりません。
もう少しストレートに言うと、純粋な企業活動に不要なのではないのかと思うのです。
(ですので、ナショナル以外の話ですが、不良機器回収活動の為に会社が潰れたという話がどうにも理解できません)。

水道哲学に感動はするが現実的には非常に難しいだろう否定の立場を取りたい、そうしたジレンマ、心のもやもやがあり、これを自分自身どうとらえれば良いのか少し悩んでいます。
※私自身は会社を経営している訳でも、経営する予定も無いのですが、素朴な疑問として頭を悩ませております。

また、擬似的な問題として企業に社会奉仕の理念があるというのは素晴らしい事だと思うが、実際にどうして、どのような経緯でその理念が企業の経営活動に取り込まれるのか、そして最終的に社会奉仕の考え(雇用を増やして従業員を幸せにするなども含め)は企業に取り込まれるべきか否かという考えとその理由を知りたいのです。

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また、水道哲学そのものへの疑問として、
「水道哲学による経営は経済原理に反していないか」
という事です。
私は現在の経済活動については、物品の需要と供給を意図的にずらず事により、企業による生産物が金銭的余剰価値を生む、という認識をしているのですが、水道哲学はその真逆を行っているのですね。
水の如く物品を溢れせしめれば、皆がその恩恵に預かれる。が、金銭的余剰価値を生みにくい。

我々は現在水道から流れる水の如く、溢れかえる電気製品のおかげで豊かであります。
ですが、それを供給する立場の企業からすれば、そうした経営方針であれば企業の経済活動は困難になるのではないかと疑問に思うのです。

感動しているだけでは利益が上がりませんし、企業の経営活動が止まれば社会奉仕などの活動が出来ず本末転倒となります。

松下電器がそうした経営方針を採った当時としては「本来は企業は純粋に経営活動として自己組織の利益を追求すべきだが、戦後は皆貧しくある種の緊急事態であるから、皆を幸せにしようというコンセプトを打って企業活動をし、経済に貢献しようじゃないか」と言っていたのではないかと想像するのです。
つまりは、戦後などはある種の緊急事態であり、例外であり、社会奉仕をする必要があって企業がそれを行っていた、では今はそれは必要なのか? という点でも疑問に思っています。

まとまりの無い質問になってしまいましたが、どなたかヒントになる部分だけでも良いので教えて頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。

A 回答 (2件)

水道理論は幸之助の自書を読めば、あなたならば理解可能と思います。


アダムスミスのいう「経済人」は、自己の利益を最大となる行動をすると、定義されているように、アングロサクソンなどのキリスト、イスラムを信仰する人は、自己の利益、組織の利益(合理性)を最優先に行動を採るので社会還元(奉仕)は、思想の中に存在しない。   したがって、王であっても焼き討ちや皆殺しという妬みから発する暴動が存在している。

わが国は江戸時代以前から、集落の相互扶助の思想があり、江戸時代の豪商などが社会還元に橋を架けたり、集会所などを提供したりしていたこと(妬みを買わない保険ともいえる)から、近代工業社会になっても、その思想が底辺に流れています。   またこのような事業は、庶民に職を与える行為で社会安定に役立っている。

例えば、大阪市の中之島公会堂をはじめ多くの橋が一個人が市民の利便のために提供しています。
これは、日本独特の思想であえていえば、日本教という宗教の考え方と思います。

この回答への補足

ano.2さんへの御礼に先に書いてしまったのですが、ヘンリーフォードは社会貢献型の経営理念を持っていたようです(だから10年前にフォードは赤字になったのかもしれません)。
日本だけでなく、アメリカでもそうした理念があるようです。
マサチューセッツ工科大学でしたか、うろおぼえですが、東部の名門大学の校訓として、「人類の進歩のために」というものがあるそうで、こんな訓示を掲げられたらそこに集まってしまいますよね。

愛を与えうる所に優秀な人間が集まり、社会が活性するという事になるように思います。

補足日時:2009/11/18 23:15
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

非常に勉強になりました。
確かええじゃないかの時には富裕層がそれを支援したそうですね。
安定した社会を保つ為の策なのですね。

ただそれだけではないと思いたい、という思いが自分自身にあります。
果たして金持ちの温情というのは安定した社会を保つだけの為にあったのか。
本物の会社観点から見た社会愛を心情としては信じたい限りですが、松下幸之助の著作を読んで研究してみたいと思います。

お礼日時:2009/11/16 22:04

>戦後などはある種の緊急事態であり、例外であり、社会奉仕をする必要があって企業がそれを行っていた



確かに戦後間もないころであれば、デザインよりは実用性という時代だったと思うので、
安価な商品を大量生産し、規模の経済を生かすことができた。

1個あたりの利益は減少しても、売り上げる個数が増えれば
トータルではプラスになるということなのでしょう。

>では今はそれは必要なのか?

「社会奉仕」というものが「人に幸せを与えること」という
のであれば、必要でしょうね。

いわゆる「水道哲学」というものは、「利益至上主義」を否定しているだけで
利益を上げることを否定しているものではないと思います。

一言で言えば、「ボッタクリな値段設定で商売をしても物は売れない。
商品に見合った値段設定で商売しないと店の評判が落ち、客は寄り付かなくなり、潰れますよ。」というところでしょうか。

あとは、住友家の家訓に「付利を追わず」というものがあります。

「楽して儲かることはない、地道に働け」という意味なのですが
世の中、競馬やパチンコの攻略法を買う人間が後を絶たないのは
何でかなぁ~と思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>確かに戦後間もないころであれば、デザインよりは実用性という時代だったと思うので、
>安価な商品を大量生産し、規模の経済を生かすことができた。
はい、当時は生活必需品が不足している状態だったのでそうだったと思うのです。

戦後は凹埋め型(不足しているものを供給する)という産業にニーズがありましたが、今現在では凸出し型(必需品の供給が行き渡った社会に更に価値を付加して販売する)という形になりましたので、そうした形では水道哲学で商売するには向いていない社会になったとも言えます。
それでは企業から世間への愛情というものが不要になったか、という所で根本的な部分を知りたいのですがAno.1さんの「日本特有の現象」というのが納得が行くように思います。
ただ、ヘンリーフォードなども会社経営の立場からの社会奉仕もやっているようでして、日本にはそうした文化があるが、日本だけではないように思います。
参考)
http://blog.goo.ne.jp/katumi_uo/e/0cdefff8c58308 …

参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/11/16 22:16

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