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どうして家がつく将軍と家がつかない将軍がいたのかというのが疑問なのですが、御三家の名付け方があったにしても。将軍になったら改名して家○と名乗るというような方法が取られなかったのはなぜかと思いました。いっぽう二代将軍秀忠というのもどこか違和感があるように思われます。 

A 回答 (3件)

1です。


秀忠の改名について大坂の陣の後に改名の話はあったと思うと書きましたが、あったとしても改名しなかった理由は秀忠の正室が淀殿の妹であるため反対されると言う理由ではなく、秀忠で将軍宣下を受けているので体裁が悪く改名しようにも出来なかったと思います。
将軍宣下後に改名した例はありません。

大阪の陣よりはむしろ将軍宣下の前に改名の話があったかも知れませ。
こちらは未だ豊臣の家臣筋であった為、不忠と非難されるので改名しなかったと思われます。
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この回答へのお礼

随分いろいろなことがあったことを教えていただき感謝いたします。

お礼日時:2009/11/26 19:38

日本には通字と言って、その家の構成員である事を示すため、


その家で代々受け継がれる字を名前に使う風習がありました。

なのでスケートの織田信成くんの「信」は織田家の通字であり、
彼が織田家の一族である事を示しています。

徳川将軍家の場合は「家」が通字で、
それは嫡男(跡取り)のみが継承する事が出来ました。

つまり家の付く名前を持つ将軍は嫡男と言う事です。
これは前将軍の息子だからと言う訳でなく、
例えば綱豊は綱吉の生前に養子となって徳川家の嫡男になったので
家宣と改名したと言う事です。

同様に家茂も家定の死の2ヶ月前に家定の養子となり、
将軍家の嫡子となり家茂と改名しています。

綱吉、吉宗などは前将軍の急死などにより、
徳川将軍家が絶えないように緊急避難的に将軍家を継いだ将軍なので、
嫡子としての扱いを受けておらず、
そのために名前に家の字が付いていないのです。

秀忠に関しては秀忠自身が幼少の頃、
秀吉に気に入られ可愛がられたので秀吉に親しみがあり、
そのため敢えて改名しなかったと言う説があります。
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この回答へのお礼

いろいろ教えていただいて大変勉強になりました。どうもありがとうございます。

お礼日時:2009/11/25 18:16

秀忠は徳川家の主君の豊臣秀吉の偏諱を貰い秀忠だと思います。


対面の際に名を与えると言われてしまったら断れません。
当然、秀吉の死後と大坂の陣の後の2回、改名の話はあったと思いますが
不忠であるとか批判を受ける恐れや正室が淀殿の妹であるため改名しなかったと思われます。
家康は今川義元の偏諱を貰い元康と名乗り義元の死後、義元の遠江を奪いあっさり家康と改名していますが・・・・・

2代以降の家の付く将軍は14代家茂を除き、将軍の嫡男か将軍に男子がいない際に跡継ぎとして養子
となり家の付く名前に改名し先代死去により将軍となったケースだと思います。
当時徳川家、他の大名も含めて将軍の嫡男以外、家の文字は使用できなかったと思われます。
6代家宣は3代の家光の弟の子で綱吉に男子がいない為、養子となり家宣となり、5代綱吉
死去により甲府徳川家より6代将軍に就任。
11代将軍家斉は10代家治に男子がいない為、一橋家より養子となり家斉と名乗り10代の死去
により将軍就任。
例外の14代の家茂は紀州藩主時代に12代の家慶から偏諱を貰い慶福と名乗り13代死去後
紀州家より将軍に就任した際に家茂に改名しています。

家の付かない将軍は将軍に世継ぎがいない状態での急死後又は急養子により将軍になったケース
だと思います。
5代綱吉は家綱の弟で家綱が病気の回復の見込みがないことから館林徳川家より急養子となり、同月家綱の
死去により将軍就任。
8代吉宗は紀州藩主時代に綱吉より偏諱を貰い吉宗と名付けられ家継急死により紀州家より将軍就任。
15代慶喜は12代将軍徳川家慶から偏諱を貰い慶喜と名乗っており14代家茂死去後、将軍就任を
拒みましたが結局一橋家より将軍就任。
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この回答へのお礼

大変興味深いお話を詳細にお聞かせいただきありがとうございます。

お礼日時:2009/11/24 19:52

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