No.4ベストアンサー
- 回答日時:
まずお釈迦様について。
何をもって悟ったというのかと言えば、これは間違いなく「縁起」ということです。縁起というのは狭義には「これあるによってかれある」と説明されるような、物事や現象の時間的な関係性を説明する言葉です。この世に絶対不変にして普遍恒常なる物も現象も存在せず、すべては関係性のなかに存在するのである、という立場を指すものです。
初期の経典ではこの「縁起」そのものがダルマ、つまり法そのものと認識されていて、例えば中阿含経という原始経典には、「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る」と示されています。
また、スッタニパータという経典には「比丘たちよ、縁起とは何か。(中略)縁起とは如来が世に出ようと出まいと定まっている『これによって生じるという関係性』であり、如来はこれを覚り、これを知ったのである」と示されています。
すなわち、お釈迦様は自分も含めたこの世界を動かす根本的な原理を、縁起という名の関係性に求めたのです。お釈迦様にとっては、この縁起こそがお覚りの中核をなすものだったのです。
しかし、この「縁起」というお覚りの内容があまり全面に打ち出されておらず、一般的にさほど認知されていないことは重要なことです。
縁起は関係性において世界を見ることであり、絶対普遍なる存在を否定することであるだけに、この「縁起」を絶対なるドグマとして掲げること自体が一個の固定的な観念に固執することであり、すなわち縁起の法を踏み外すことに他なりませんから、これを強く打ち出すことは極力はばかられたのです。
お釈迦様は十無記などといって、「魂は存在するのか」などいくつかの形而上的な質問にはイエスともノーとも回答しなかったことがよく知られていますが、これも同様に果てしない論争を避けるための、つまり縁起を身をもって実践するための方法であったと言えるでしょう。
お釈迦様在世当時はいろいろな宗教思想家の林立する時代でもあり、縁起を声高に掲げることは、この世が全て決定済みという立場の宿命論者と対決することになりますし、同時にこの世は全て偶然の為せるわざ、という立場の無因無果論者とも対立することになります。何よりもインド伝統の、永遠不滅の魂の如き存在(アートマン)を堅く信じるウパニシャッド哲学と真っ向から対立することになり、果てしない議論に悩まされることになります。この故に覚りの内容としての「縁起」はごく控えめに、慎重に説かれるにとどまったのです。
大因縁経には、「この明白な真実である縁起をもっと明らかに説くべきでないか」というアーナンダの質問に対し、お釈迦様の言葉として、「縁起のダルマははなはだ奥深くて見がたく、このダルマを覚れないがために衆生は苦しみから解脱することができないのである」と示されているくだりがあります。上に書いた事情をよく表している一節でしょう。
念の為に書けば、この縁起に替わって、「縁起に基いた事実」として積極的に説かれたのが#2のご回答にもある三法印「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の言葉です。後代にはこれが説かれている経典は本物の仏教の教えである、とされました。
重要なことは、この三法印は縁起という原理が現象として現れたもの、として説かれたことです。つまり、縁起の法則があるからこそ「諸行無常(不変のものはなく全ては変わりゆく)」のですし、縁起の法則があるからこそ「諸法無我(それ単体で成り立つものは存在しない)」のであり、さらに縁起の法則があるからこそ「涅槃寂静(無明は不変ではなく、これを滅することで覚りに達することができる)」という意味なのです。
要するに、この三法印はお覚りの内容そのものではなく、お覚りの内容が声高に主張されないからこそ、その原理に基いた明白な事実として説かれたもので、言わばお覚りを月に譬えれば、「月を指す指」として盛んに経典に採りいれられたものです。個別の事物の「あるがまま」の姿を説くことで、その奥に流れる根本原理の「縁起」を浮かび上がらせることが主眼であったので、三法印そのものをお覚りと誤ってはなりません。これは四諦についても同様です。
「正しい」という言葉はどのような宗教でも使うわけですから、それ自体は何の意味も持ちません。仏教で「正しい」というのはこの「縁起に基いてものを見る」ということを指すのです。
初期の漢訳経典ではお釈迦様を含めてこの縁起を知ることは「覚」とされる例が多く、「覚り」であって「悟り」ではありません。「覚」という言葉は梵語では「buddhi」すなわち「目が覚めること」であって、この世をあるがままに見つめた時に得られる智、つまり縁起という根本原理を知ることを指したのです。つまり理性の働きです。仏陀(buddha)とは「覚者」の意味で、まさに理性によって目が覚めた者、という意味なのです。
この「覚り」が「悟り」と書かれるのは後代になってからです。特に中国で禅宗が盛んになって以降、この「悟り」は理性よりもやや精神性に関連づけて説かれるようになってきます。禅宗は大乗仏教ではありますが、縁起を発展させた「空観」を根本に持つものであり、当然悟りは縁起の法を体得することを離れてはないのですが、ゴールとしての「悟り」がいささか強調されすぎたために却ってそれに囚われてしまう結果を生み出してしまうような悪弊も少なからずありました。
禅病などと呼ばれますが、悟りにこだわるあまり心身耗弱のようになったり、あるいは修行の中で自意識が肥大して妄想が生まれるなどの例が数え切れないほど出現しました。特に「生悟り」と言うのですが悟ってもいないのに「悟った」と思いこむ妄想化が進む例は多く、「悟った」という意識から何をしても許されるといった思い上がりが生まれたり、「悟り」を印象づけるために意識・無意識のうちにことさら奇矯な行動に出たりすることは多かったのです。
こういった例がご質問のような「悟り」とは狂気である、といったあらぬ誤解を受けるもととなったのでしょう。
ご回答ありかとう御座います。
世の中のもの、物事は一つのものではなく、いろいろ関係しながら存在して常に変化して生まれたり無くなったりしていると云うことですね
悟ると云うことは、終わりでなく、覚るが本来のことで目覚めることですね
目覚めるとは、目覚めた後、人間ならどう生きていくか重要な様な気がします
正直いって、恥ずかしいのですが貴方の回答をまだ全部理解していませのでとんちんかんなお礼になっているかもしれませんが、何回か読み返して後は自分でも調べてみたいと思います。
No.3
- 回答日時:
歴史上の人たちの悟ったものは分かりませんが、
私の身近な人で、悟りの体験をしたのでは?という人が何人かいます。
そのうちの一人(仏教徒)の話では、「もう生きていくのが苦しくてどうしようもない、なぜ生きてるのかわからない、死んでしまったほうがいっそ楽じゃないのか」という心理状況に追い込まれて、行き詰ったことがあったそうです。
その時期を経て、悩みが行くところまで行った時、ふと「もう自分はこの世に生まれてきてしまってるし、どうやっても死ねないし、死ぬまで生きるしかないのだな」と気づいたそうです。
その気づきを得たとき、自分は何か自分を超えたものに生かされているのだと、自然に感じられて、重荷から解放されたと聞きました。
これを聞いて、悟るというのは、悩みや苦しみ、疑問の果てに、自分を越えた何かの存在をリアルに感じられることかな?と思いました。
それを感じられることで、一人で抱えていた重荷から解放され、それまでとは違う世界が見えてくるのでしょう。
No.2
- 回答日時:
お釈迦様の悟ったことは「諸行無常、諸法無我」ということです。
諸行無常とは、この世の全てのものはたえず変化し消滅するということ。
諸法無我とは、すべてのものはさまざまな原因・条件によって生じたものであってそれ自体で存在しているものはない、ということ。
分かり易く言い換えると、悟りとは「正しいものの見方」が判ることであって、その結果、様々なものごとに心を煩わされなくなることです。
なお、そうなったからと言って現在において「変人」扱いされることはないでしょうね。なぜなら、自分のものの見方が他人に理解されなかったり、受け入れられなかったとしても、そのこと自体も受容できるからです。
しっかり悟っていない人は、自分の考え方の正しさに固執してそれを他人に押しつけようとしますが、それこそが煩悩であって避けるべきことであることをも悟っているからですね。
この回答への補足
ご回答ありがとう御座います。
悟りとは完全に正しいものの見方ができるようになった人のことでしょうか、それとも正しいものの見方ができるような方法を見つけた人のことでしょうか?
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