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吉良上野介はなぜ浅野内匠頭をネチネチと
苛めたのでしょう。
付け届けがなかったからですか?
それで怒りが爆発したのかもしれないですが・・・
しかし、浅野の器量不足も否めませんね・・・

A 回答 (8件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>吉良上野介はなぜ浅野内匠頭をネチネチと苛めたのでしょう。

少し長文になりますが、全体像から見てみましょう。

(1)浅野内匠頭は天和3年(1683)2月6日にも、零元天皇の勅使饗応役を仰せつかって、江戸に下向した花山院定誠や千種有能の両名の接待を無事努め上げています。

(2)従って、元禄14年(1701)の時も、従前にならって準備を進めたと考えられます。

(3)しかし、この年は、5代将軍綱吉の母桂昌院(お玉の方)へ従一位が贈呈されると思われた年で、将軍綱吉も「そそうの無きように」とのお声があった、とも言われています。そして、吉良上野介が京都から帰って(2月29日)から、院使清閑寺熈定の一行が3月10日に品川宿に着いたことを受けて、浅野氏も同日、伝奏屋敷に入りました。だが、この年の饗応には「特別な意味合い」がありましたので、2月29日から3月10日の間に吉良氏から「数々の変更」を指摘され、予算を大幅に超える事態となった、と言われています。

(4)だが、この事が「直接の原因」として、後の歌舞伎などでは取り上げられていますが、史実は「全くの不明」です。

(5)一説には、(吉良側の史料では)、
<1>吉良の拝領地三河国幡豆郡(その他にも、上野国緑野郡、碓氷郡を拝領)で「塩田開発」を真似ようとしたが、教えてもらえなかった。
<2>元禄3年(1691)12月23日に浅野は本所周辺の「火消し大名」に任命されたが、元禄11年(1698)9月6日に起きた火災での際、鍛冶橋にあった吉良邸を全焼させてしまい、吉良は浅野を嫌っており、対立が深まった。
<3>浅野家の小姓を吉良が所望したが断られた。
<4>高家肝煎の吉良に、教えを請うのに、浅野家江戸家老安井彦右衛門や藤井又左衛門らの「付け届け」をしたほうが良い、との忠告に従わず、「授業料」を払わなかった。
こうして、二人の間に対立関係が生じた。
などとも言われていますが、いずれも「確たる証拠」は残っていません。と、言うよりも見つかっていません。
なぜならば、ご存知のように、浅野内匠頭は、ただちに、奏者番田村右京太夫(陸奥一関藩主)の屋敷にお預けとなり、即日、切腹。となりましたので、浅野がどのような「遺恨」であったかが、書き残されていないためです。

(6)後世に幾つもの「推量」で書かれた本などもありますが、
例えば、
前回にならって、畳の表替えだけで良かったものが、吉良の指図で、急遽、畳全部を取り替えるよう、前日になって言われた。
とか、勅使の好みが違うので、食材を全部調達しなおした・・・。
などと、誠しやかに書かれていますが、全くの「闇」の部分です。

(7)ただ、江戸詰家老や江戸詰藩士たちは、実際に「困らせられる」ようなことがあって知っていたとは思いますが、江戸詰家老たちは「討ち入り」に参加をしなかったため、日記などがあったとしても、一躍、浅野内匠頭が「時の英雄」となったため「闇から闇へと」葬られた可能性が高いと考えます。
また、江戸詰藩士の中でも最長老の堀部金丸(弥兵衛)などの日記も残ってはいるようですが、一切、「いじめ」に関しての記述は見当たらないそうです。

(よもやま話)
(1)「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」、江戸時代中期の元禄時代に書かれたと思われる、当時の各藩の藩主や政治状況を解説した本。当時の政治状況や各藩に対する認識を示した珍しい史料として注目される一方、編著者名や製作された目的も未だ不明で、「謎の史料」とも言われる。
によると、
長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好事、切也。故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。
浅野内匠頭について、以上のような記述がされており、
「知恵」や「公正さ」があって、武士も民も豊かだった。しかし、いかんせん、「女好き」であった。そして、数え歳17歳で赤穂藩主となったため、また、筆頭家老の大石内蔵助にしても、若干25歳であったため、一番年長の大石頼母助(内蔵助の大叔父で、浅野家とも親戚)や末席家老の大野九郎兵衛知房などに政務を任せたことが書かれています。
しかし、「女好き」にもかかわらず、子息子女はできず、弟大学を養子にしています。
ただ、「土芥寇讎記」は、刃傷事件の約10年前位に書かれたものだと言われ、浅野びいきで書いたものではないことは確からしいのですが・・・。

(2)井沢元彦氏の著書「逆説の日本史・忠臣蔵はデタラメだらけ」という本によると、
<1>刃傷は「松の廊下」ではなく、白書院(公式行事用の部屋ではあるが大広間よりも少し内輪の儀式用)で、吉良が老中などとの打ち合わせを終えて出てきたところを浅野が切りつけた。従って、「松の廊下」ではなく「白書院」の前の廊下が正しい・・・と、力説しています。

しかし、「梶川氏日記」を詳細に調べた結果、(口語訳ですが)、
「御白書院(桜間)の方より、吉良殿が御白書院よりやってこられました。・・・(中略)・・・私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もあるところで、吉良殿と出会い、互いに立ったままで、私が、今日、お使いの私の時間が早くなりました。と一言二言話したところ、突然、浅野殿が・・・」
と、あり、となると、現場は「松の廊下」だ、と、中央義士会の中島康夫会長も是認しています。

この「梶川日記」は、梶川与惣兵衛の残した日記で、梶川は、いわば、饗応役の使い走りで、まず、浅野と打ち合わせをして、次に、老中との打ち合わせが終わった吉良と相談すべく、浅野の数歩先を歩いていましたが、浅野が刃傷に及んだ時、あの有名な「浅野殿、殿中でござる。殿中でごさる」と叫んで、浅野の背後から止めた人物で、その後、この褒美として、500石を加増されています。

<2>井沢氏は、「松の廊下」には、良くTVなどで見るような「大きな松」が描かれてはおらず、実際は、「松原の様子」を描いたもので、海と砂浜、松、千鳥がバランスよく描かれたものである。とも言っています。これには、1988年に東京国立博物館で江戸城本丸御殿の障壁画下絵が発見されたからだ・・・とも書いていますが、

要は、「松」が大きかろうと、小さかろうと、「松の廊下」と呼んでいたには違いないのだから・・・と、「史家」や「学者」は反論しています。
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この回答へのお礼

自称「歴史作家」と名乗るだけあって凄いです。
ありがとうございました。
今後、日本史の質問をドンドンする予定でいるので宜しくお願いします。

お礼日時:2009/12/14 19:18

領地経営ということに関していえば「器量」はありました. ただ, この浅野の家系は, どうもちょっと「キレやすい」という性質も受け継いでいたようです. 実際, 当時から「あ~ぁ, やっちゃったか....」という声はありました. ということで, 「これだけ一方的に世間が浅野側の肩を持つ」というほどではないです>#5.


とはいえ, 吉良は「武士らしくない」というのも事実. 「高家」の筆頭として礼儀指南などを担当しており, 「旗本」とはいうものの「武」で立った家ではありません. ついでにいうと京における「将軍の代理」を務めることもあるという立場上, 他の武家と比べてはるかに高い家格 (三位~四位) を与えられています. そのこともあって, 一部の武士や「庶民」からは反感を買うこともあったようです.
逆に浅野に対しては「あれで殺せないってどうよ」という声もあったりします.
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この回答へのお礼

そうですね・・・あれで殺せなかったのですから・・・
ありがとうございます。

お礼日時:2009/12/14 19:19

仮に、仮名手本忠臣蔵の松の廊下に及ぶ動機が正しいとしましょう。

公家の禄高と格式の差は十倍はあります。従って、ひじょーに金がかかったようです。といって、特別な行事にかかわっても、幕府はその面倒は見ないようです。一方、賄賂といっては聞こえがわるいのですが、教授料、指導料を払うのは、今でも常識ですよね。それを加納探幽の絵と大判数枚だったか、それ位じゃ生活はできないでしょう。
浅野の殿様だって、わざわざ、あんなところで刀を振り回すこともないでしょう。お礼かなんかで挨拶に行ったときにやればいいでしょう。それよりも、武士として殺せなかったのは情けないですよね。何で振り回さずに、刺さなかったんだって言われています。所詮、ボンボンの何もできない方だったんでしょう。となると、取り巻きが最も悪かったんでしょうね。
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この回答へのお礼

そうですね。刺してしまえばよかったのかもしれないですね・・・
頭に血が上ってしまったのでしょうか?

お礼日時:2009/12/14 19:22

吉良上野介といえば、歴史上は自分の立場を笠さに着た陰険で意地悪な人間のイメージが強いと思います。



しかし、何処の藩も参勤交代の幕府の政策により、藩の財政は逼迫して火の車でした。

そんな中では何処の領主も地元の領民の為に、自国の財政を少しでも改善して重い年貢に苦しむ民百姓のために、米以外の特産品により藩の収支を改善する事は大切な政策となっていました。

赤穂の塩はとても素晴らしい良質な塩で、何処の藩主も羨む赤穂独自の特産品でした。(その製法を盗むために忍び込む各藩の冠者はことごとく斬り捨てられたと言われています)

吉良は浅野内匠頭に対して、自藩の財政を少しでも改善して自国の民の生活を豊かにするために、赤穂の自然塩の製造方法を教えて欲しいと頼んだのです。(吉良上野介は自分の領土である三河国の幡豆郡では名君と言われた人物でした)

しかし、赤穂の良質な塩の精製方法を他の藩に真似されてしまっては、大切な藩の財源の塩の価値が落ちてしまいますので、浅野内匠頭は頑として吉良に塩の精製方法の秘術を教えなかったのです。

この浅野内匠頭の態度に腹を立てた吉良上野介は自分の立場を利用して浅野内匠頭に対する執拗な嫌がらせを始めます。

この事が様々な確執を生み吉良の必要な嫌がらせにつながり、その事が積み重なってやがて松の廊下の刃傷沙汰に発展したという説が有力です。

殿中に於いて刃傷沙汰を起こす事がどのような結果を招く事になるのかは、当時の藩主(武士)ならば誰もが心得ていた事だと思います。

にもかかわらず、殿中で刀を抜いた浅野内匠頭の行動は決して器量不足などという簡単な言葉で説明付けられる様なものでは無かったのだろうと思います。

家名断絶やお取潰しは藩主にとっては、百回続けて死ぬよりも辛い苦しみだったと思います。

それをも承知で刃傷に及んだのには、現代の私達では想像も付かない様な凄まじく陰湿な嫌がらせや、著しく名誉を汚されるような陰険な虐めが有ったのであろうと想像できます。

これだけ一方的に世間が浅野側の肩を持つのには、単なる判官びいきだけではなく民衆の同情を買うに足りるそれなりの理由が有ったのだと思います。

ただ一つ言える事は、吉良も浅野もどちらの領主も立派な領主であり、自藩の繁栄や領民の暮らしの向上を願い、一所懸命に尽力していた人物なのであろうという事です。

>しかし、浅野の器量不足も否めませんね・・・
そのような器量不足の駄目藩主のために、藩の取り潰し後も忠義を忘れずに47名もの勇士が家族との今生の別れを惜しまずに、自らの命を投げ打って主君の仇討ちを果たそうと考えると思いますか。

おそらくは家臣を思い、領民のためを思う藩政を行っていた立派な領主様であったからこそ起こった事件なのではないかと思います。
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この回答へのお礼

詳細にご回答頂きありがとうございました。

お礼日時:2009/12/14 19:24

現代に伝わる忠臣蔵の顛末は江戸時代に成立した仮名手本忠臣蔵が元に


なっており、史実が伝えられているわけではありません。吉良上野介が
浅野内匠頭をいじめたかどうかも浅野内匠頭が精神分裂症であったかどうかも
すべては憶測でしかありません。よく言われる賄賂の要求を断ったという
逸話について言えば、当時の社会では藩持ち大名の浅野氏と旗本の吉良家
では経済基盤も勢力も比べ物にならず(浅野のほうがはるかに上)、
吉良が見返りを要求したとしても習い事の先生が中堅会社の社長に
おねだりしたようなものですから、賄賂という性格にはならなかったのでは
ないでしょうか。
唯一、浅野が「遺恨あり」と発言している記録が複数あるので、藩を
つぶしてでも報復したい恨みがあったことだけは事実だと思います。
加賀百万石の祖、前田利家も遺恨を理由に織田信長子飼いの茶坊主を
城中で斬り捨てて追放の目に遭っています。武士の価値観というのは
現代人には理解し難いところがあるんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
武士の価値観を理解するのは難しいですね・・・

お礼日時:2009/12/14 19:29

赤穂藩の江戸家老が無能だったのでしょう


だから殿中でのしきたりをしっかりと教えなかったのだと思います
あるいは浅野自身が小うるさい爺をお払い箱にしてイエスマンを重用した
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/14 19:26

浅野内匠頭の指導役が吉良上野介でした。



浅野内匠頭は本当に田舎侍で何も出来ずいつも吉良上野介が恥をかき、尻拭いをしていました。
浅野内匠頭は失敗したことを復習せずまた不勉強であったそうです。

刃傷松の廊下は逆恨みした浅野内匠頭が怒り大爆発になり起こったものです。

実際の赤穂浪士の討ち入りはただの逆恨みによる犯行です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/14 19:26

フィクションがかなり入っている。


なぜ刃傷かは、浅野内匠頭の数代前に精神異常者がいたとかの発作説もあるなど歴史のなぞのひとつ。

吉良の意地悪などは、歴史の後付けでしょう。
付け届けやワイロ説なら歴史を下った田沼意次も刃傷の被害者にならないといけなくなる。
もっとも息子の意友が小姓仲間に刃傷にあっているが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/14 19:25

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