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 やっぱし おかしいと言わねばならないのぢゃないですか?
 動物の持つその本能の動きを 何とかしてまねて たとえば性なら性という思いや考えや行為をおこなうのだと言ったばあい はたしてひとは ついて行けますか?

 要するに ヒトの本能は壊れていると言えるのかも知れません。問題は では 思考やその計らいを介さない自然の衝き動かすところとそれにもとづきわれわれも動きを取るところの広い意味での自然の行為 これがいっさい無い と言えるのでしょうか?

 わたしの守備範囲はふたつに限られています。
 帰謬法による反論として もしひとに自然の力を宿した自然本性がないとしたら つまりはひとの思考と行為のすべては 大きく言って知性によるもの(=文化)のみであるとしたら その知性の持ち得る判断力は 人びとのあいだで共通でありうるとしても その共通の知性が どこまで妥当であるのか これは ひとにはまったく分からないということになりませんか?
 ときとところを違えれば 判断の基準も違ってくる。したがってその時と場の情況にすべて判断のあり方は委ねられている。つまり世の流れにうまく乗ったものが勝ちであり それが 世界のすべてであることになる。

 もう一点は ソシュールの恣意性の神話に異を唱えることができるという主題です。言語記号の恣意性は成り立たないという批判としての仮説です。
 よって――もしそうであるなら―― 恣意性としての《文化また文化のみつまり 完全な非自然》から世界は成るという仮説が崩れます。
 本能が壊れていると言えるかどうかを 微妙に 別として それでも自然の力がひとに残されているかどうか。言語記号の恣意性が崩れるなら 《文化のみ》が崩れ 自然の要素が残されていると言えることになります。
 
 いろんな角度からご見解をおおしえください。

A 回答 (12件中1~10件)

すいません、ブロジェンヌさん、g3452sgp さんが、「哲学に感動はあるか」で、呼んでいました。

答えてあげてください。とても大変そうです。これ削除していいです。全然関係ないですから。
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この回答へのお礼

 ただいま(4時ごろ) あちらに投稿したところです。

 わたしは 自然科学が苦手なんです。でも 無限についての議論を考えたことがあって それを寄せました。

 ところで ハートマインドさんは 女性の方だったのですか。ちっとも気づきませんでした。失礼をしたという意識はないと思うのですが 男性だと思って書いて来ましたので その点 ずれていたかとおそれます。もし気づかずにいる粗相があったとすれば お詫びしたいと思います。

 この際ですから いちおう言っときましょうか。ブラジュロンヌという名前のことですが。

お礼日時:2009/12/23 16:07

質問者は正攻法的な理論中心の哲学のもと、理想的な共同体理念を目指していると伺っておりました。


ですが、このたびは、そうでないことが判明したことにより、
私も大変遺憾に思います。


>いろんな角度からご見解をおおしえください。

は、結局のところ、

「ヒトは 本能の壊れた動物である というのは・・・ 」を、
「やっぱし おかしいと言わねばならないのぢゃないですか? 」と裏付ける賛同意見、
もしくは言葉遊びのために募る意見≪のみ≫
に限っていたとは、知る由もなく。


で、あれば、初めからそのようにそのように質問命題に但し書きをしないと、
≪やっぱし おかしいと言わねばならないのぢゃないのですか?≫
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この回答へのお礼

 《理想》等について考え違いをしておられる。

 わたしの理論に対して 同感・共感・反感が三分の一づついるようになればよいのです。

 同感:心を同じくする自由人スサノヲたち。
 共感:スサノヲ浮動層
 反感:お呼びでない層:アマアガリ症候群およびアマテラス予備軍症候群

お礼日時:2009/12/22 07:57

せっかちに付け足しです。



>(う) 両性の合意によって――という文化行為をつうじて―― 
>性行為におよぶことはありえないのか? 
>あり得るのならば それは 《文化の支えによってやっと》というくくりに入ると言うべきか?

だってだって、、、
よくありますけれど、
男も女も「したい」と思い、「しても良い」と思い、いざ「しようとする。
でも、男が勃起しない、とか、女が潤滑しない、、、、
何故?「合意」もあり、「欲」もあり、、、それなのに「不可能」。

1)その理由が気になる!!その理由を説明/解明したい!
2)どうやったら勃起/潤滑する?その為の手段は?

ぶらじゅろんぬ様はどう説明なさりますか?

現実として、2)
くすぐるだの、舐めるだの、と言った本来生殖に必要無い行為が、人間の性行為には多く挟み込まれています。
また、それをしない限り、本能である筈の勃起と潤滑が起こらなくなっている辺り、(生物として)変だ、と思われませんか?
生殖に必要な、男性器の女性器への挿入に必須な二つの要素が、何らかの阻害にあっている、
「不能」である、
その阻害要素は?、、、となった時に「文化」が出て来る。

この回答への補足

 そうですね。
 もし一般的な問題としておっしゃるようなことがあるのだとすれば・・・。
 まづとして
 ★ でも、男が勃起しない、とか、女が潤滑しない、、、、
 ☆ ときには 時を俟てばよろしい。互いに生活態度を充実させていけばよろしい。
 要は ヒトは もはや動物と同じように発情に従ってその欲求を満たすという行為形式のもとにはいないということです。その《ひと》に互いが成ればよろしい。それだけです。そこで 自然および文化が 塩梅よく自由にはたらくことでしょう。

 ▲ (古事記・キとミの結婚) ~~~~~~~~~~~~~~~~
  ここにその妹(いも=妻)伊邪那美の命(みこと)に問ひたまはく
   ――汝(な)が身は如何に成れる?
  答へて曰はく
   ――吾が身は成り成りて成り合はざる処(ところ)一処在り。
  ここに伊邪那岐の命 詔(の)りたまはく
   ――我が身は 成り成りて成り余れる処一処在り。故(かれ) 此の吾
    が身の成り余れる處をもちて 汝が身の成り合はざる處に刺し塞ぎて 
    国土(くに)を生み成さむと以為(おも)ふ。生むこと如何に?
   ――然(し)か善けむ。
  ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 不能問題について 《すっ飛び》を敢行します。
 ▲ (オホハツセワカタケルのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番歌)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  籠(こ)もよ み籠持ち           
  堀串(ふくし)もよ み堀串持ち       
  この丘に 菜(な)摘(つ)ます児(こ)         
  家聞かな 名告(の)らさね       

    そらみつ 大和の国は        
    おしなべて われこそ居れ       
    しきなべて われこそ座(ま)せ        

  われにこそは 告らめ          
  家をも名をも                
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))と解説されます。
 このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲら市民の生活圏の間にと言うか その上部に 三句のアマテラス公民の視点が突如つけ加えられていると知り得ます。
 ふつうのキ(男)とミ(女)のあいだの ヨコの人間のおよび性の関係があります。そこでタテの関係が 性愛の領域にも かぶさって来ていると言いますか 浸食して来ていると言いますか そういう社会の情況です。
 つまり 結論に飛びますが タテの関係は 文化が――それのみだとは言いませんが――何ごとにつけても 先導していると見られるのではないでしょうか? 金色夜叉ではありませんが 《金持ちであり社会的に有力である。それゆえ おれの嫁に来い》という思考であり明らかに文化志向です。だったら 自然の欲求からは遠ざかり あるいはそれを抑えているかと思われます。だったら 自然および自然と連動するかたちの文化の内に 性行為に及ぶことがむつかしくなる。
 という推測です。どうでしょう?

補足日時:2009/12/21 15:23
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こんにちは。


また御邪魔します。

kadowaki様の回答で「あーーそうだ」と思ったのですが、、、
性的唯幻論は「何らかの自分の疑問を説明付ける為に」読むものであって、
その為にと思って読むから意義がある、と感じるのであって、
もしも、そのひとが自分のこれ迄の人生の中で、性行為を行うにあたって、或は性的な物事に関して、違和感や疑問点を抱かなかったとすれば、唯幻論を読んでも「なんだこりゃ?で、何?」と言う事になるのかな、と。

ぶらじゅろんぬ様は、その広範囲の思考と飛び抜けた柔軟さで、そう言うものを感じなかった、のでしょうか。。。
 ご自分の性徴過程で身体の変化に戸惑う、
 性別を根拠に望まない待遇をされる、
 愛する異性との間に存在する無理解、
 相手に対する崇高にも思える自分の心と、自分の肉体の反応との乖離(と思える現象)、
 「愛に基づいて行う行為(とされる」が実際は結構グロテスクで美しくない事(笑
 
こう言った辺りに「何故?」と悩まれた事が無い、或は悩まれたけれど何らかの確信ある解答を得ているならば、唯幻論に私が此処迄こだわる理由が理解出来ない、と思われます。

つまり「性的唯幻論」は、成長の過程で解決出来ずに大人になった者が、
その悩みを解消する為に読むような類の説だと思うのです。(あーー乱暴な。。汗)
読む動機に「違和感/疑問点」があり、それらを解き明かす、と言う視点でないと無意味な読みものかも知れません。

でも、もしもぶらじゅろんぬ様が、違和感や疑問点を持たない/解決済み
でしたら、私はちょっと羨ましいなあ、と思います。^^
その状態を生み出した思考を、少しご教授頂きたいなあ、、、なんて。



>その内容は サルからヒトへの進化という見方にすべて頼って 推し測るところですよね。

ああ、、、この辺りがキリスト者の(でしたよね)ぶらじゅろんぬ様にどう受け取られるか?とは考えていたのです。
やはり、此処がクリアにならないと説全体が不整合になるでしょうか。

でも、進化でなくとも、他の動物との相違点と言う視点で解決は出来ないのでしょうか。
私は、生物は進化であっても、創造主に依って作られたものであっても、どちらでも世界の説明は「同じように」出来る/付く、と思えるのです。

創造主がおられるならば、その超越した能力で適材適所!でしょうし、
その結果として、気候や時代に見合った生物を作り出している、と考えられます。
その生物に見合った気候や時代をも作り出しているのでしょう。
「サルからヒト」でなくっても、実際に現在、ヒトと他の動物との相違点はありますし。

その相違点として、
*骨の構造が妊娠出産には不適
*出産の際に激痛を伴う
*人間が生物的には超未熟児で生まれねばならない
*直立二足歩行を可能足らしめる身体構造の無理
が含まれる、只それだけの事。
と処理出来るのは、私がキリストの教えに付いて無知だから、でしょうか。

>本能に依る行動(性行為)を、本能に依って選択を迫られる。

書き換えます。
投稿後に「あーー突っ込まれるなあ」と思ったのですが、やはり^^

本能に依る生殖行為に、「生き延びると言う本能」が相対し拮抗する。
拮抗した以上、どちらかがどちらかに屈しねば、事は収まりません。
そして、この二つの本能同士の喧嘩は、当然より強い本能である「生き延びる」に軍配が上がるでしょう。

「選択」でなく、「喧嘩」です。

いかがでしょうか?

この回答への補足

 yukkinn66 さん なかなか長丁場のようでもありますね。ご回答をありがとうございます。
 いくらでもご投稿をいただくのはありがたいと思いますよ。そして今回は 違った角度から光を当てておられます。

 ★ 性的唯幻論は「何らかの自分の疑問を説明付ける為に」読むものであって、
 ☆ でも世界観であって キリストやマルクスに代わるものだと岸田は自負しているのではないですか?

 先に進化の問題ですが これはわたしの文章を全体として捉えてください。《進化論》じたいを取り上げてうんぬんするという意図はありませんでした。舌足らずでした。
 《すでに文化としての〈選択〉が 本能で生きる段階において出て来ているではないか》という物言いのみでした。これに対して今回のお答えは
 ★ 「選択」でなく、「喧嘩」です。
 ☆ でも――すでに結論に飛びますが―― 《本能》であれば 《対立・拮抗する》とは思われません。《選択肢は一つ》そして《いちいち考えることはない》が特徴だと考えます。
 もしそういう内部対立が起こるとすれば それら全体をまとめて本能となっているのではないでしょうか?
 もう少し議論の中に分け入って考えます。もし
 ★ 本能に依る生殖行為に、「生き延びると言う本能」が相対し拮抗する。
 ☆ のならば 生殖本能を生存本能に合わせるでしょうね。ただしそういうふうに思索を差し挟むということ自体 すでに《考えと選択》を前提にしていませんか? 
 もしヒトが 本能――つまり 一つの選択肢とその際の無思考――が壊れた動物であるというのであれば  生殖のも生存のも同時に壊れたと言うべきでしょうね。ヒトにかんして 本能の壊れる過程においていくつかの段階を 事実問題として 差し挟むとすればそれは 《選択ではなく 喧嘩》を 大きく《選択》において捉えようとしていることになる。
 なぜなら 本能の領域の問題であるのならば その《喧嘩》の過程においても行方に対しても ヒトは蚊帳の外に置かれているというのがほんとうなのでしょうね。それが《本能》という世界です。

 ★ 創造主
 ☆ これは そういうおとぎ話にして 分かりやすくしただけのことです。(わたしが 進化論にこだわったかのような表現をしたのは 進化論一本ですべてことが説明づけられるのには わたしは心もとないと思っているからです。創造つまり被造物という見解を持っているのではありません)。

 ★ 愛する異性との間に存在する無理解
 ☆ これとともに生きて来ました。中学生以来ですかね。要するに 性愛論は すべて人間論におさまるという理解です。ひととして心がやわらがしめられるなら 性関係の問題も解ける(また 溶ける)というふうに思っています。あとは 海面における心理的な行き違いや葛藤のみであると思います。
 ★ その状態を生み出した思考を、少しご教授頂きたいなあ、、、なんて。
 ☆ この思考としては 《悪は存在しない》だったと言ってもいいと思います。その論証を 二三十年後にやっとおこなうという情況ではありましたが。これも 自然本性の問題ですね。

 ★ ヒトと他の動物との相違点
 ☆ これらと《文化が支えとなってやっと性行為が出来た》という説との関係が ピンと来ていないのです。これも 申し訳ないですが 繰り返し伺ってはいるのですが。

 * この質問では クリスチアニスムについていっさい 触れていません。ご考慮は無用だと存じますよ。

補足日時:2009/12/21 14:44
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もうわずらわせることはないと仰られたので、私も同様に申し上げたのですが、bragelonne様のことを指摘した上で「有徴性がある」などと「一度足りとも」申し上げたことがございません。



これは根拠が確実にあります。
よろしければ再度ご参照下さいますよう。

先の質問において、一つ現代社会を考察する上で大切な要因がありましたので、それにつき記させていただきます。
マスコミや性にかぎらず、近代以降、人間は経済的な目的に自らを従属させていく一方、人間の備えている性質の一部、つまり自由意思や合理性のみを極端に発達させてきたと考えます。
そしてこれは、殊に資本主義の助長と競争原理に大変叶ったものだったはずです。

これを是正するには、社会全体の協調的な努力が求められるでしょうし、それには、相応な最小単位による真の共同体管理や分権が実現することによってのみ、私は可能だと思います。
ですから、ご迷惑であったでしょうが、拙文を何度か投稿してまいりました。

それにつき、いかなる共同体が望ましいかと考える理論の一方、現実的にいかに人間が経済システムに縛られ、実質的な貧困以上に多くの問題に直面させられ、また、孤独感や無力感に駆り立てられているかなど、といった考察もまた相応に実際に求められるものでもあるのです。

私は「理念」と現実の採り得る行動様式とは少々別物ではないでしょうか。
例えば「恋愛」において、多くの人々は「愛しているから」「愛とはなんぞや」という自らの理念や自由意思において結婚に至ると考えます。
でも、現実的な義務や拘束力、さらには結婚への一連の流れでなんとなく逃げられずに結婚する際にも、自らさも結婚を望んでいると思いこんでしまう場合も決して少なくないはずです。
人間は理性のほかに感情も感覚も持ち合わせているのです。

最も卑近な例えで恐縮でしたでしょうか、でも実際には人間なんて、何か行動をおこす際には、外的要因や力によって明白な強制であると自覚しない限り、その多くは自分自身の決断だと思いこんでしまうものでありこれが≪一つの大きな幻想≫なのだと思います。

つまり、私たちの現実の決断のほとんどは、実際の自分の自由意思に基づくものではなく、せいぜいが孤独感、生活、自由云々の外的脅威に脅かされ、周囲に歩調を合わせているだけ、ということも十分考えられるはずなのです。

bragelonne様の「ただこの文化は 両性の話し合いと合意 こういう文化であっても何も問題はありません。」に端をなす一連のお話に関し、私は僭越ながら、たいがいの趣旨を承知致してきたつもりでおります。
拙い理解力ながら、仰りたい理念も理解したいと努めてまいりました。

ですから、先の質問において、「明晰性」「答責性」など、ご教示いただいた意味を半年弱考えて、再度投稿させていただいたわけです。
私は決して「意見を合意させたくない」などとも申し上げておりません。
ただ、毎回合意ではなく、意見の照応もあってしかるべきだと申し上げているに過ぎないのです。
おわかりいただけますでしょうか。

そしてまた、現代社会を考察することは、何らより良き人間社会を実現するための共同体構想や理論に水をかけるものではない、とも申し上げる次第です。
現実に今なお、日本のみならず世界で「女性の商品化」が存在していると思われますし、それに苦しむ人々も決して少なくはありません。
またしても卑近な例で恐縮ですが、「婚活」「セックスレス」など、大変よろしくない男女関係、夫婦関係も全く珍しくありません。
今なお胸を痛めている人々が非常に多い、これも事実なのです。

この社会的考察が「哲学的な範疇にはあたらない」とお考えになられるとお思いかもしれません。
でもこれも、人間がよりよく生きるための思索の活動と捉えれば、たった13年の生涯を終えて逝ってしまった少女の「命とはなんぞや」との思考の歩み同様に、これもまた哲学という名に値するのではないか、などと私は思っているのです。

現状の社会に幾許かの「幸せ」を見出すこと即ち被害者意識に基づくものだとしても、です。
まずは自分が充たされ確固たる自由意思が築けないことには他人も理解することなど不可能でしょうし、それをゼロ起点とした上で、徐々に理想の理念理論を築いていくという過程もまた、存在しても赦されるのではないでしょうか。

双方に共通のヒューマニズムとしての信条と活動の歩みは存在し得るはずです。
いかがでしょうか。
それとも私も何らかの共同体理論を構想なくして「私の考えを明らかにしない」と仰るのでしょうか。

なお、もう1点のみ、申し上げます。
もしも反対意見をご覧になったとしても、決してそれはbragelonne様を「攻撃」しているのではなく、単なる意見の「違い」に過ぎませんので、これに関してはほとんどお気になさらない方がよろしいかと拝察致しております。
ネット上の質疑応答ならびに掲示板形式は、非常に意思の疎通が難しいと思いますので。

以上です。

この回答への補足

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 bragelonne様のことを指摘した上で「有徴性がある」などと「一度足りとも」申し上げたことがございません。

 これは根拠が確実にあります。
 よろしければ再度ご参照下さいますよう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 証拠は自分で出すものです。ただちに反論しなかった場合にはです。

 だったらわたしが気が狂って 思いこみと決めつけとで そのように間違った解釈をしたとしておけばよいでしょう。
 このように言わせたいというのが 《おまえには有徴性がある》というたぐいの発言になります。

 わたしはふところが深いので そこまでミラー・ニューロンを受け容れてあげました。
 つぎは 何だろう?

補足日時:2009/12/22 11:37
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2009/12/22 07:53

bragelonneさん、こんにちは。



yukkinn66さんとのやり取りを外野席から拝見しながら抱いたのは、bragelonneさんが人間の性欲や性行動に対してさほど興味・関心をお持ちでもないのに、どうして「性的唯幻論」に異論を唱えていらっしゃるのかな? という疑問でした。

>いま・ここなるわたしは 生き延びる存在です。

はい、「人間とは何ぞや?」という問いに対する、「人間とは生き物である」という答えと同様、この命題はあまりにも自明すぎて、ほとんど意味をなしていないですよね。
あるいは、「本能とは何ぞや?」と問われ、「本能とは神の思し召しである」と答えたにせよ。

でも、「本能」と「性行動」との間には、

「神の思し召し」⇒「本能」⇒「?1」⇒「?2」⇒「?3」⇒「?4」⇒「?5」⇒…………⇒「性行動」

という、あまりにも人間的な、あまりにも多くのステップが介在している以上、岸田さんの「性的唯幻論」といったところで、実は、「本能」(リビドー、欲動、生の衝動等)と具体的な人間の「性行動」との間に横たわるいろんな手続きや手順等について、岸田さんなりの一解釈を《比喩》的に示したもの以上でも以下でもないと思いますよ。

>(う) 両性の合意によって――という文化行為をつうじて―― 性行為におよぶことはありえないのか? あり得るのならば それは 《文化の支えによってやっと》というくくりに入ると言うべきか?

う~ん、『性的唯幻論序説』では、「両性の合意」が「両性」のどのような意思なり、思惑なりによって実現するかに関し、bragelonneさんよりももう少し丁寧に解説されているとは感じられませんでしたか。

それだけのこと、そう、それだけのことですよ。
が、管見する限り、岸田さん以上に、「本能」と「性行動」の間に潜む多くの疑問や謎を平明に分かりやすく説明してくれる人がこれまでいなかったから、「性的唯幻論」はそれなりに注目され、評価されてきたのではないでしょうか。

>(か) あばたもえくぼと言います。そういう幻想のことを言っているのでしょうか?>でもこのような錯覚は むしろ自然の《身体=精神》的なしわざなのではないでしょうか? 本能的な錯覚でさえあるかも知れない。

う~ん、人間の「本能」がどのような手続き、手順なりを踏んで、最終的に人間固有の「性行動」に結実するのか? がbragelonneさんにとって大きな疑問なり、謎なりと感じられるようになってから、「性的唯幻論」その他の岸田さんの著書をお読みになっても、決して遅くはないのかなという気がしました。

この回答への補足

 ★ bragelonneさんが人間の性欲や性行動に対してさほど興味・関心をお持ちでもないのに
 ☆ これは 読み間違いです。性愛にかんしては 一般の人間関係の中からその性愛関係に到るのであるから その到るところまでを 哲学一般として考えておけばよい。そしてじっさい 性愛にかんしては 行為の問題ではあっても 話をする事柄であるとはあまり思っていない。こうわたしは述べたまでです。《興味や関心があるか無いか》の問題で切りこむには あまりにも読みが浅いと申し上げておきます。

 ★ >いま・ここなるわたしは 生き延びる存在です。・・・この命題はあまりにも自明すぎて、ほとんど意味をなしていないですよね。
 ☆ 意味ある命題を出してからの問題です。

 ★ あるいは、「本能とは何ぞや?」と問われ、「本能とは神の思し召しである」と答えたにせよ。
 ☆ 勝手にひとの見解をこしらえてはいけません。言ったことについて尋ねるか それともこれこれのように推測されるが それはどうか? 推測が正しければ あれそれのごとく批判することができる。どうか? こういうふうに議論をすすめなければいけません。

 ★ 本能」(リビドー、欲動、生の衝動等)と具体的な人間の「性行動」との間に横たわるいろんな手続きや手順等
 ☆ こういう切り口では わたしは 取り上げていません。自然と文化を区別するかどうか・そしてそこに本能の問題がどのように位置づけられているか です。《手続きや手順等》をいくらていねいに説明しても それは 二の次です。

 あとは ご自分の見解を明らかにしてからの問題でしょう。

補足日時:2009/12/21 13:25
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この回答へのお礼

 kadowaki さん これぢゃ だめです。説明になって――あっ ご回答をありがとうございます――いません。

 ご自分の見方・考え方を明らかにするべきです。先延ばし・先送りという日本人のもっともわるい性癖にしたがっておられる。まさかこの文化が支えとなって 日本の社会が発展してきたとお唱えになるのぢゃないでしょうね?

 ぜんぶ門前払いです。あしからず。

 * No.4の補足欄に あたらしくおぎないを書きました。少しは からんでいる内容だと思います。

お礼日時:2009/12/21 10:51

しつこく?こんにちは。


御邪魔します。
丁寧に論点を突いて頂き、ありがとうございます。

>☆ これは《〈文化のみ〉という前提に立つ世界観》を取り上げて批判しておけば 

この手段の取り方、素敵です。^^

>食欲の上にのっかる要素であって 
食欲とは別個、であるから「本能ではない」。
だから、

>《文化が自然を補強する》という要素だとは思えません。
と言うつなぎが出て来るのは、ちょっと厳密さに欠ける気がします。
。。。とは言っても、
私も岸田さんが本能と文化と分別するその厳密な線引きが、未だちゃんとはわかっておりません。

>☆ この《見出される》というとき 誰が見出すのでしょうか?

「物語論批判」から引っ張ります、
「客観と言う以上、誰か見る者が必要。
つまり普遍妥当的な客観が存在する為には普遍妥当的な観察者が必要。
でも、いない。
だから、普遍妥当的な客観と言う物は存在しない」

誰か他者と自分とを「同一視」して、同一化出来ない部分に気付く。
それを繰り返して行く中で、蓄積して行く偏見の塊、てだけかも。

それでも、たったひとつの偏った母集団からの抽出よりは偏差が少ないと言う、それだけの話かも知れませんね。
五十歩百歩の世界かも知れません。^^

>○ 自然本性とは ひとがうまれたときから――潜在的にしろ――備えている《身体および精神》にかかわる能力全般のことです。

自然本性について、ぶらじゅろんぬ様と近しい説を書いた本のご紹介を御願いしても良いでしょうか。
読んでみたいです。
あ、、、三位一体論は苦手です。。。多分無理。。。(苦笑

>《すでにおのれの〈くせ〉を持って世界を見つつ行動する〈わたし〉のこと》

人間は動物よりも弱い。
その弱さを、道具を生み出す事で補強して来た。
道具が無ければ生き延びられなかった。
生き延びられない「わたし」は、「わたし」にもなれないのではないでしょうか。

>《自然および文化》の存在

何らかの存在を見つける事が出来るのは、生きている命だけ。
もしも、世界としての、何かの意識や存在に支えられず存在する(出来る)存在のことをおっしゃっているのでしたら、
それを語るには私は存在として脆弱過ぎます。
また、「文化と本能」の論は、其処迄広範囲で無いと思われます。
結構現実的で体感的な説だと思います。

ぶらじゅろんぬ様は、守備範囲が宇宙的に広範囲です。^^
その伸び代の幅で唯幻論を読まれたら、どんな世界が生まれるかな?と興味があるのですが。。。^^

この回答への補足

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 冬休みと正月をはさんで いま図書館は大幅に貸出期間を延長していますが 借りてきた本がどれも飽きてしまい もう一度借りに行きました。ふと 『性的唯幻論序説』――新書版だったんですね――と『希望の原理』に手を伸ばしそのまま借りて来ました。ちらっと見た限りでは よくありません。

 ▲ (性的唯幻論序説 冒頭) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 人間は本能の壊れた動物であるというのがわたしの出発点である。
 (β) もちろん 性本能も壊れている。性本能が壊れているということは 人間は本能によってはいわゆる正常な性交ができないということである。本能によって男が女を求め 女が男を求めることはないということである。正常な性交ができないということは不能ということである。人間は基本的に不能なのである。
 (γ) しかし それでは人類は滅亡するので 人類文化は幻想に頼っていろいろな策を講じ 何とかある程度は不能を克服してきた。もちろん「ある程度」であってさまざまな問題を残している。
 (δ) いずれにせよ 人類においては性交をはじめとする男と女の関係のあり方 あるいは男と男 女と女の関係のあり方 男と女の性衝動あるいは性欲のあり方(性衝動あるいは性欲というものがあるかないかまで含めて)など 性にまつわるいっさいのことは本能ではなく幻想にもとづいており したがって文化の産物であって 人間の基本的不能を何とかしようとする対策またはその失敗と見ることができる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうもこういうことになりましょうか?
 1. 自然の欲求は 動物にあり ヒトにもある。

 2. 動物はこの欲求をおぼえると そのまま欲求の命じるままに従う。これを 本能という。言いかえると 動物においては 欲求に従うという道しかないのだし それをいちいち考えておこなっているのではない。

 3. さてヒトは この自然の欲求をどう処理するか。本能のごとくに(つまりほかの動物と同じように)欲求に一義的に従うことをしない。ことがある。食欲は二週間拒み続け得る。性欲は おそらくそうしようと思えば生涯にわたって拒み得る。これを 本能が壊れているというふうにも言う。
 
 ☆ これだけのことではないでしょうか? ほかにつけ加えることは 基本的な問題ではないと考えるのですが どうでしょう?

 4. 食欲を満たすときに 料理をするのは 本能という一本の道を逸れることだとは思えません。その自然の欲求に文化が添えられたというかたちです。ただしその文化が出来てそれによってやっと食欲を満たすことができる――とは考えられないでしょう。

 5. 性欲を満たす場合は どうでしょう? 
 5-1. まづ分かっていることは 動物のように 本能として性行為におよぶということはあり得ないでしょう。そのまま性欲にしたがったという行為は 《よし この性欲のままに従ってやれ》という文化を介しているでしょう。

 5-2. だとしたら 本能によるのではなく 何らかの観念を介したり物語をつくってその筋書きに沿ったりするようなかたちで・つまりは 文化を介して 性行為におよぶ。と言えそうです。(この《文化》を《幻想》と言っている)。

 5-3. では どうまとめるのがよいか? すべての性行為がこのように文化を介しているということは
 (あ) 改めて確認すれば 本能が壊れており 本能に従っておこなうものではないと語っている。けれども

 (い) 文化の支えによってやっと可能になると言えるかどうか? 言いかえると

 (う) 両性の合意によって――という文化行為をつうじて―― 性行為におよぶことはありえないのか? あり得るのならば それは 《文化の支えによってやっと》というくくりに入ると言うべきか?

 (え) この(う)の場合 別に《幻想》はないのではないでしょうか? 

 (お) ロマンチックな夢を見たりしても それなくしては性行為に及べないところの文化だとは思えないのですが?

 (か) あばたもえくぼと言います。そういう幻想のことを言っているのでしょうか? でもこのような錯覚は むしろ自然の《身体=精神》的なしわざなのではないでしょうか? 本能的な錯覚でさえあるかも知れない。

補足日時:2009/12/20 20:00
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この回答へのお礼

 ですから 3.で《本能が壊れている》と言った時点で それに代わる精神作業が介在することは含まれています。文化は介在します。幻想もありだと思います。
 ただこの文化は 両性の話し合いと合意 こういう文化であっても何も問題はありません。

 わが古事記の語るところによれば キ(男)とミ(女)が互いに褒め合って まくはい(まぐあい)に及んだとあります。わづかに 女が先に褒め言葉を言ったときは だめだったと記します。
  ▲ (古事記:イザナキとイザナミの結婚) ~~~~~~~~~
  伊邪那美の命 先づ言ふ

    阿那迩夜志 愛(上)袁登古袁【此十字以音 下效此】
    あなにやし え をとこ を。

  後 伊邪那岐の命 言ふ

    阿那迩夜志 愛(上)袁登賣袁。
    あなにやし え をとめ を。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった調子です。
 たしかに《文化を介します》 けれども 《その文化は自然とも連れ立って行われている》のであって 《その文化があってやっと実現する》とは思えないのですが どうでしょう?

 * 自然本性は 推測されたように クリスチアニスムの神学の系譜から哲学としても 捉えられた人間論だと思います。アウグスティヌスの三位一体論よりすぐれた文章に出会っていませんので なんとも致し方ないようです。

 * いま・ここなるわたしは 生き延びる存在です。

お礼日時:2009/12/20 20:13

丁寧な返信、ありがとうございます。



>《文化のみ》という前提に立つ世界観

んんーーーーー?
「文化のみ」って言っていませんよーー!
本能の断片を、断片であるが故の脆弱さ/生存の困難さ、を
文化(と言う知性の産物)で補強しているのが人間。

逆に言えば、
文化/知性も全能でなく、
文化/知性の存在価値は本能が残存している事に依って見出される。

勿論、文化/知性が膨大になり、本能に対して傲慢になってきています。
でも、所詮文化や知性は「人工のもの(幻想)」。
幻想を頼り過ぎることに依る弊害が、レイプであったり痴漢であったり、同性愛、性倒錯辺りです。

>その欲求に結局のところ従うのなら 本能であり自然です。

本能に従う為にも理由付け(文化)を必要としていると思いますが、いかがでしょうか?

>手を加えるという文化は 自然の中に包まれるかたちです。

そうですね、
自然回帰の為に文化を作り出したのに、そのことが結局自然を見え難くしてしまった、と言うのが人間の間抜けで可愛らしい所かも知れません^^

本能を本能として成立させるが為に、文化は生み出された。
性行為を生殖行為足らしめる為に、試行錯誤の産物が性倒錯です。
。。。。全ての人間は(程度の差はあれ)性倒錯者である^^(by岸田さん)

>文化――
>たとえば 男が女を商品化するという知性のはたらき――によって 
>性行為がやっと出来るというのでもないでしょう。

いいえ、
これが「文化に支えられてやっと遂行出来る」のが人間だと(by岸田さん)

性行為/生殖行為の結果が、出産と子育て、ですね。
出産は、人間は進化の過程で直立二足歩行を可能にした、その所為で、
骨の構造が妊娠出産には不適になっています。
出産の際に激痛を伴うのも、人間が生物的には超未熟児で生まれねばならないのも、直立二足歩行を可能足らしめる身体構造の無理が祟っての事。

超未熟児で生まれねばならないから、その後の重労働(育児)が生じる。

それを「知った」時、当然生物として行き延びる為に、
*妊娠の選択
*妊娠を引き起こす性行為/生殖行為の選択
を行ったと考えられます。

本能に依る行動(性行為)を、本能に依って選択を迫られる。
この段階で、本来拮抗する筈の無い「本能の対立」が、内側から?本能を破壊したのではないでしょうか?

人間は生物として、あまりにも「無理」を抱えた構造です。

>〈わたしがわたしである〉という普通の存在のあり方。。。(1)
>において生きるなら 。。。(2)
>ころすことや盗むことやむさぼることをしないであろう》。。。(3)

(1)については、
まず、人間が人間のまま「人間である」ならば、それは生物界での絶滅を意味すると思います。
だから、
(2)の(普通に)生きる、と言う事が人間には元々不可能。
(2)の命題?が崩れたので、(3)は意味をなさない。

>ひとはひとを愛すことができるであろう

まず「愛」自体、「自然の侭」ならば存在しなかったのではないか?
自然の侭/普通の生き方/本能に依る生存、は無理も歪みも必要としない「只生きる」。
目の前の刺激に対応して、それを繰り返す事が(自然の侭に)生きる事。

人間は目の前の刺激に(本能に依る行動規範で)対応するには、身体構造に無理があり過ぎる。

ぶらじゅろんぬ様のおっしゃる「自然本性」。
それは、限りなく本能に近い部分、ではあるけれど、やはり「文化/人工物」だと思われます。
生物の中での人間独自の、人間としての本能、かな、と。
そう言う意味で、全ての文化の基盤、だと。

そう設定しなければ、人間は生き延びられなかった。
本能の破壊後、最初の補強の一手が「助け合い/愛」だと思われます。

いかがでしょうか?
あーー、、、、自分の質問を放置している。。。。大汗
あまり手際が良い人間ではないもので、、、頑張ります。苦笑

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 もうここからは 読んでみないと何とも確かなことは言えないという段階になりました。
 ご説明について反応します。

 ★ んんーーーーー? / 「文化のみ」って言っていませんよーー!
 ☆ これは《〈文化のみ〉という前提に立つ世界観》を取り上げて批判しておけば そちらの
 ★ 本能の断片を、断片であるが故の脆弱さ/生存の困難さ、を / 文化(と言う知性の産物)で補強しているのが人間。
 ☆ という立ち場およびわたしの《自然および文化》の立ち場それぞれの違いが分かりやすくなるのではないかという手段でした。
 けれども
 ★ 本能の断片
 ☆ という言い方も はっきりしませんね。《断片》であっても 食欲とその処理は これに従うほかに人間にとって選択肢はないですよ。(自死をえらぶほかにはありません)。
 何をどのように食べるかが文化としてあっても これは《食欲という本能の断片であるが故の脆弱さを補強している》とは思えません。食欲は食欲として言わば独立しています。
 多様性によって食事の反復性からくる気持ちの飽きを和らげているのです。本能を補強しているとは思えません。(料理という芸術性を競うという積極的な側面もあるかも知れませんが それは食欲の上にのっかる要素であって 《文化が自然を補強する》という要素だとは思えません。むしろ文化の展開は 自然が促しているほどです)。

 ★ 文化/知性も全能でなく、 / 文化/知性の存在価値は本能が残存している事に依って見出される。
 ☆ この《見出される》というとき 誰が見出すのでしょうか? どのような能力や契機がからんでいるのでしょう? 
 もし《人が / わたしが》でしたら その《人 / わたし》の存在は 《自然》なのか《文化》なのか《自然および文化》なのか?は どうでしょう?
 ○ 自然本性とは ひとがうまれたときから――潜在的にしろ――備えている《身体および精神》にかかわる能力全般のことです。
 ○ 《記憶と知解と意志》の三つに分けます。記憶が精神=身体の秩序のはたらきを担い 良心というはたらきを持ち 意志のはたらきを この良心に即してまったき自由であることを志向するかたちに持っていく力であると見ます。知解も――それ自体は 合理性の展開として――そのように記憶と意志のはたらきに資するのを基本とします。
 ○ 《秩序作用 / 良心 / 意志の自由》と言っても 人のおのおの主観としての思考および行為の問題ですから ちょっとした《くせ》のようなものです。でもこのくせが 価値観を形成し世界観まで持つにいたる。その思想の妥当性は 良心および知解における推論の合理性にもとづきます。――これが 自然本性によって じんるいに共通の判断基準を持つことができているという意味です。
 ○ 自然本性と言い切りましたが そしてそのことに間違いはありませんが そのとき結局は同時に すでに《自然の上の精神的な観念の領域》をも形作っています。つまり思考・推論・合理性と言えば 《文化》なのです。
 ○ 以上が ひとおよび社会は《自然および文化》から成るという世界観の基本的な中味です。

 本能や欲求は 身体ないしその感性にかかわっていますが これをそうだと知覚・認識するのは 精神のはたらきです。ですから 自然および文化を それぞれ区分けしようと思えばできるでしょうが そうしてもあまり意味はないという見方でもあります。ですから
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >文化――
  >たとえば 男が女を商品化するという知性のはたらき――によって 
  >性行為がやっと出来るというのでもないでしょう。

 いいえ、
 これが「文化に支えられてやっと遂行出来る」のが人間だと(by岸田さん)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言われても ピンと来ていません。いったい何のこっちゃ?と とんちんかんでい続けています。
 ★ 本能に依る行動(性行為)を、本能に依って選択を迫られる。 / この段階で、本来拮抗する筈の無い「本能の対立」が、内側から?本能を破壊したのではないでしょうか?
 ☆ これも 申し訳ないですが 分かりません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1)〔――* 〈わたしがわたしである〉という普通の存在のあり方――〕については、
 まず、人間が人間のまま「人間である」ならば、それは生物界での絶滅を意味すると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/12/17 20:51
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この回答へのお礼

 ☆ そうではなく 《すでにおのれの〈くせ〉を持って世界を見つつ行動する〈わたし〉のこと》を言っています。単なる《人間》という認識の問題を通り過ぎています。むろん《自然および文化》の存在のことであり ほかの誰でもない《生きるわたし》のことです。
 この《生きるわたし》どうしなら 互いに交通ができる。その交通――そして色をつけて言えば 信頼関係―― これが 《愛》のことです。念のために言えば 自然と文化を分けて捉えるというやり方をしていません。

 さてどうしますかね これから。気が向いたら読んでみますが どうですかねぇ。

お礼日時:2009/12/17 20:53

おはようございます。


自然と人工あるいは、本能と文化的知性この両極は突き詰めてかんがえると、境界をどこに設ければいいのかは分かる無くなると思います。

ただ、日本猿とオランウータンのその社会構造の違いがあるように、風土によって、文化の違いができてくると思います。

ですから、共通の知性の妥当性についても風土や自然のながれであるわけで確かに妥当性は問えないと思います。
ですが、人間は進歩しますので、世界平和を願いたいとか、地球を守りたいとか人々は発達したメディアにより、広く思考ができるようになっているわけです。そして、人類にとって何が幸せなのか考えることを永遠にするわけですよね。

結局、地球が滅亡したら勝ちも負けもありませんからと考えるわけです。

この回答への補足

 この場をお借りします。

 みなさんへそして yukkinn66n さんへ
 おぎないがあります。

 ☆☆ (No.5補足欄) 本能や欲求は 身体ないしその感性にかかわっていますが これをそうだと知覚・認識するのは 精神のはたらきです。
 ☆ ここで《知覚》は 片や身体とその感性 片やその認識としての精神のはたらき これらのどちらにもかかわっていると言うべきでしょうか。身体とその感性に もちろん 第一次の知覚が起こるわけですが。

 ☆☆ (No.6お礼欄) わが古事記の語るところによれば キ(男)とミ(女)が互いに褒め合って まくはい(まぐあい)に及んだとあります。わづかに 女が先に褒め言葉を言ったときは だめだったと記します。
 ☆ 最後の一文について こう述べるべきでした。
 ○ 女が先に褒め言葉を言ったときには 《蛭子が生まれた》とあり これはおそらく倫理的によくないということらしく 次には男が先に《あなにやし えをとめを》と声をかけた その結果 よい子も生まれたと記しています。
 ☆ つまり 女が先に《ええ男やんか》と言ったときにも 性行為は出来たということです。誤解を生んだかも知れません。お詫びしておぎなっておきます。

 ★★ (No.5回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  性行為/生殖行為の結果が、出産と子育て、ですね。
  出産は、人間は進化の過程で直立二足歩行を可能にした、その所為で、
  骨の構造が妊娠出産には不適になっています。
  出産の際に激痛を伴うのも、人間が生物的には超未熟児で生まれねばならないのも、直立二足歩行を可能足らしめる身体構造の無理が祟っての事。

  超未熟児で生まれねばならないから、その後の重労働(育児)が生じる。

  それを「知った」時、当然生物として行き延びる為に、
   *妊娠の選択
   *妊娠を引き起こす性行為/生殖行為の選択
 を行ったと考えられます。

  本能に依る行動(性行為)を、本能に依って選択を迫られる。
  この段階で、本来拮抗する筈の無い「本能の対立」が、内側から?本能を破壊したのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この全体の趣旨は このたび気づいたということではいけませんが 分かりました。ただ その内容は サルからヒトへの進化という見方にすべて頼って 推し測るところですよね。そして
 ★ * 妊娠を引き起こす性行為/生殖行為の選択・・・本能に依る行動(性行為)を、本能に依って選択を迫られる。
 ☆ というとき すでに《〈選択〉という文化がある》という前提が置かれています。そのあと
 ★ 本能を破壊したのではないでしょうか?
 ☆ という論理の展開になっています。これは 進化の段階を前後させて捉えているように思うのですが どうでしょう?

 いそぎ おぎないました。

補足日時:2009/12/21 10:41
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この回答へのお礼

 あぁ ハートマインドさん こちらにもやって来てくれましたか。お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 いまNo.2へのお応えを書いたところです。われながらうまく書けていると思います。だいたいその文章でハートマインドさんにもご返事ができるのではないかと思うのですが いかがでしょう?

 この質問は 《文化のみ》という前提に立つ世界観を批判したいというねらいがあります。自然は忘れて来たんだと言っていると思います その理論は。
 《ヒトは 錯乱せる者 homo demens 》という見方を原点にしていると考えられます。自然の身と身とが(または身と身とで)ひとどうしは 分かれているのでない。そうではなく 言葉を使って交通するという文化の世界と そしてそうではなく本能で生きるという動物の世界とが 次元を異にして 分かれているのだと言おうとしているようです。
 動物は 身分けされて生きている。人は 言分けされた世界に生きている。というわけです。言葉が全体として決まったその時点で 言分けされた世界が出来 その世界とともにある。また その世界そのものなのだ 人間はというわけのようです。
 まだ不案内なところがあるかと思いますが。

お礼日時:2009/12/17 10:55

是は人間の長い間の脳の変化に伴っていると考えられます。

人間の脳は他の動物たちと同じ「もの」が備わっています。それは教えられなくとも知っている事が有るという意味になります。生まれたばかりの赤ん坊でも、乳首に吸いついて生きてゆく事を主張しています。泣いたり笑ったりしたり、おびえたり怖がっています。この事は誰も教えていない事です。人間にも昆虫や動物と同じ生きてゆく命の働きが備わっています。

是は脳に、もうすでに組み込まれているものと言えます。言い方を変えたなら、遺伝子の中に人間としての「心」を働かせるものが組み込まれているという事になります。処が人間としての自我意識には分かりにくくなっているようです。

人間の命そのものを働かせている意識は確かに存在しています。それは自我意識と一緒に何時も同じものを見ています、そうして危険が差し迫った時などは、「自我意識に代わって働いてくれます」それは自我意識にとっては「思わずに」体が動く時の事です。

自我意識が体に命令を出す機能では間に合わない時の事です。急ブレーキをかける時や、オリンピックの最高の動きが出来ているとき等です。自我意識が引っ込んでいたほうが良い活動が出来る時の事です。

人間には自我意識と、その自我意識に陰ながら情報を送っている「者」がいます。その「者」は自我意識と絶えず相談したり、交代しながら毎日が無事に過ぎています。その者は自我意識とは違う人格を持っています。その者は無意識の意識として、或いは潜在意識として存在しています。その者は自分の体でも心でも本当の意味で自由に出来る者です。

脈拍でも呼吸でも自由に出来る者です。ですが「自我意識」が出しゃばってしまって「その者」を出れなくしてしまう事が有ります。その事が体に現れた場合が自律神経失調症や原因が特定できない難治性の体の障害の事です。

「その者」が出れなくなってその障害が心に出た場合が心の障害という事になります。精神疾患や神経症という事になります。これ等の障害は原因がはっきりしています。それは心の分裂、或いは心の矛盾という事になります。

この二つの心の現れ方で、哲学的になったり、宗教的になったり、体を壊したり、心を患ったりしています。そうして人間の疑問が湧いたりしています。それらの解決方法が心の矛盾の解決という事になります。心の矛盾の解決方法が「自分自身を知る」という事です。是が「悟り」という事になります。

疑問を持っていた場合には疑問を持たせていた者の正体が分かったという事になります。全ての疑問の解消という事になります。

体を患っていた場合には、自分では体が自由にはならない事を知って、体を自由に出来る方の自分に任せるという事になります。

心を患っていた場合には、心を圧迫していた者の正体が分かったという事になります。その者と二度と仲たがいをしなくなるという意味が有ります。言い方を変えたなら「神と和解した」という事です。

それ以後は自我意識が出しゃばらなくなって「神の思し召しのままに」という事になります。自我意識が一歩引っ込んで安楽な生活になるという意味が有ります。命の働きの意思が自我意識よりも優位になって働いているという意味になります。
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この回答へのお礼

 tumaritou1 さん。
 《自我》は 文化です。その産物です。しかも 悪い産物です。もしくは 悪い文化を捉えて そのひとつの主体のようなものとして 自我を取り出して来たそれだけのものです。
 わたしがあるのみです。良い文化も悪いのも わたし〔たち〕がつくるのみです。
 わたしがわたしでありなさい。これのみです。
 汝自身を知れ とも言うぢゃないですか。

 tumaritou1 さんの理論に賛同する方もおられるでしょう。わたしのおそれるところは そのあとの経過です。あなたの理論が無くては生きていけないというところまで閉じこもるのではないか?
 安心した 不安になった 安心した また不安が起きた あぁ tumaritou1 理論があった安心だ・・・という繰り返しのことです。
 煮詰めて言うとすれば tumaritou1 理論は 病気の側に足を置いているのではないでしょうか? はたして 卒業しているのでしょうか?

 ★ 言い方を変えたなら「神と和解した」という事です。
 ☆ そうではなく 《神と和解した》という地点から出発するのは いかがでしょう? 終わりから始めるという手法です。どうでしょう?

お礼日時:2009/12/17 11:05

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