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天台宗、真言宗、日蓮正宗、などなど多くの宗派がありますが、
それらは全部仏教で、そもそもはお釈迦様が原点だと認識しています。

そもそものお釈迦様の教えとはどんな内容だったのでしょうか?


宗教のカテゴリーが見あたらなかったのでこちらに質問させて頂きました。
よろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

創価学会のものです



日蓮仏法ではほとけとは成るのではなく、開くとします。
自分から離れた特別な人格に成るのではなく、自分は自分のままその能力を最大限に引き出していくのです。

自身の中にある仏の生命を開くのです。

では、仏の生命とはなんでしょうか。

一面から言えば、なにものにも負けない境涯、どんな環境にも振り回されない境涯といえるのではないでしょうか。

そして、仏の目標は一つです。

すべての人を幸福にすることです。
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この回答へのお礼

お礼遅れました
ご回答ありがとうございました

お礼日時:2011/06/11 12:56

日蓮正宗の信徒の者です。



他の人の回答内容がかぶりますが、ご了承下さい。

私自身、仏様の境地に至った=成仏した身でもありませんし、仏教の経典をすべて読み、理解した訳でもないので、きちんとしたことは言えません。ただ、私が解る範囲で回答したいと思います。

お釈迦様の教えの目的は、一切衆生の成仏、仏様の境地に至るための教えだと思っています。

他の方の質問のお礼に「仏とは何か?」と書かれていますね。

二度目ですが、私自身、仏様の境地に至った、成仏した訳ではありまえせん。また、これが仏様という存在を解る人でもありません。

ただ、この質問を見て、回答したかったのは、私がこの宗派について、自分自身が変わり、それが仏様に近付いたから、その点において、少しでも質問者さんの参考になればと思ったからです。

仏とは何かと言えば、どんな悪人でも救う存在、どんな人でも仏様の境地に導く存在だと私は思います。

救うとは何かを言えば、大から小です。
日常の些細な悩みから、人生の悩み、生死の悩み、人の欲望と平和との悩み、生きることの苦しみなどなどです。

人間の苦しみを考えると、
迷い・無力・絶望・愚か・自身の劣・周りの環境が悪い というもの分けることができるかと思います。

生死の悩みというのは、生前、死後が解らないから、苦しむのと、解らないことにただ、恐怖を感じたり、避けたい、今の幸福感から去りたくないという思いがあるからだと思います。

私自身、昔は、恐怖を感じたり、避けたいと思うようになりましたが、言葉では伝えにくいですが、恐怖や避けたいと思うことはなくなりました。ただ、どうなるか、知りたい、悟りたいという気持ちはあります。それは、私が未だ、迷っているからです。


私が思うに、
仏様は、一切の物事の道理・摂理・法則を知り得ている、悟っている
仏様は、愚かさを滅し、賢明、時間の流れに置いて幸福と救いの道を解っている、その場、その場において、幸福と救いに繋がる適切な事柄が解っていて、実行できる
仏様は、自他供に幸福になる自分と他人を大切にしたい、できる愛の心を持っている、だから、他人との関係で傷つけることはない。
仏様は、幸福や救いの因を持ち、その因によって縁が生じ、縁によって果が生じ、常に幸福の境地にいる。
存在かと私は思っています。

なぜ、そのように思うかと言えば、
1つに私は、人の中にいることが嫌で嫌でたまりませんでした。なぜか、人の中にいては、「恐怖」を感じたのです。

恐怖は、言葉を失い、冷静さを失い、精神的追い詰められ、疲れるものです。耐えきれない恐怖は、自分のマイナスとなり、人生を暗くします。

人は、まず、恐怖などで苦しむ存在だと悟りました。他人が恐怖しないことでも、自分が恐怖すれば、それにより、苦しむ人生となる。その恐怖感をどうにかしなければ、苦しむ人生は変えられないと
そして、いつしか、その恐怖はなくなっていました。

次に、人は自らの行為によって幸福を実現することもできれば、不幸も招くということを悟りました。
世の中には、糖尿病という病気がありますが、これの原因は、カロリーの過剰摂取です。過剰摂取さえしなければ起こりません。
知らなかったから、過剰摂取して糖尿病になったのか。それなら、無知が、苦しみの原因です。
知っていて、それを止めらないかったとすれば愚かさ、悪欲の故です。
刹那的、一瞬的、自己都合的なことをすれば、不幸を招きます。

自己都合的というのは、自分の利のために、他人が犠牲になってもかまわないということをしていれば、その人との関係はおかしくなるでしょう。他人を犠牲にすることは、他人に不満・ストレスをためさせることです。

愚かさや、知らないこと、物事をきちんと考えないこと、悟らないことは、不幸の原因になると私は知りました。


次に、いくら良いことをしようと思っても、無力であれば、実現に至りません。いくらお金を稼ごうと思っても、稼ぐ力がなければ、貧しい生活しなければなりません。
稼ぐ力はいろいろありますが、きちんとした考えや能力が必要です。学校に行けばいろいろなことが学べますが、そのすべてのきちんとした考えや能力は学べないこともあります。

その場になって、その人の判断力やセンスが物を言うことがあります。私はこれによって仕事が出来なく苦しめられました。



お釈迦様の教えとは、成仏する道、仏様に近付く道を示したものだと私は、思います。

人によって、仏様との距離は違うかと思います。
だから、修行によって得られる悟りもご利益も人それぞれです。
ですが、最終的には、仏様との距離を無くし、成仏し、真に救われた境地に至りたいと思うようになるかと思います。


なぜ、たくさんの宗派があるかと言えば、仏様の御心を解る人は数少ないからと言うことになります。

私の宗派が、正しいだろうと私の中で信じることはできても、その正しさを証明することは私にはできませんし、正しいと断言することはできません。もし、断言をするなら、確証していないことを確証したと言い、嘘を言うことになります。


私は最近、強く感じるようになったことがあるのですが、それは因です。
因、縁、果、報、というものがあります。
目に見えないものが因
その因によって生じるのが縁、これが実際のアクションなどです。
そして、その縁、アクションによって生じた果、つまり、結果、
そして、結果が波及して、生じる他の結果、報、報い(むくい)とでもいいましょうか。

学業によって成仏できるなら、それは、縁によって成仏できることになります。

この宗派、掛け軸見たいなものに南無妙法蓮華経と唱える、一般人から見たら怪しい宗派ですが(私が知り得たころの感想)、そういったことをします。

その理由を長らく知ることはできませんしたが、最近、それは因を積むことだと思いました。

この宗派に入る前もけっこう人生に考えていたのですが、この宗派に入り、まじめにするようになってから、上記の恐怖や、無力、愚かさが少しですが改善されていきました。その中で悟ったことも多々ありますが、仏様の境地には程遠いと感じます。

私自身の推測の域を出ませんが、それはこの宗派の修行により、因を積んだからではないかと思います。あくまで思うだけです。証明することはできません。

上記の因は、すべて良い方向の因として用いたつもりです。
世の中には、悪い因もあるではないかと思います。
悪い因を積めば、悪い縁が生じ…となる気がします。ただの偶然と言えば、反論する意見はありません。

なぜ、このようなことを書いたのかと言えば、私と同じ宗派で修行をしている人も見ても、尊敬できる人もいれば、一般人の方が尊敬できるというような言い方は悪いですが、劣悪な人もいます。

そういった人は、悪い因が強い故に、心が変わらず、物事の考え方が浅はか、検討違いで、自ら苦しむことをしているように思えるのです。解る人から見たら、そのような行為は破たんする、誰かを苦しめるということは目に見えていますが、聞こうとしません。

私も含め、人は愚かな部分があります。その愚かな部分を知り、愚かなことをしているかもしれないと思う人と、それに気付かず、愚かな行為をする人もいます。
私自身、この宗派に入ってから、自分の愚かさに気付きました。だから、その前は、気づかずに愚かなことをやっていました。(たぶん、今もしているでしょうけど。)

宗派が分かれた理由はそこにあるかと思います。
仏様の御心が説かれているのは、法華経と言われていますが、私にはそうなのか確定することはできません。
ただ、たくさん宗派があるのは、それぞれ、御経が違うし、御経が同じでも根とするものが違います。

私が仏様の御心と感じた一文の中に
行道不行道
隨應所可度 
爲説種種法 
毎自作是念 

以何令衆生
得入無上道 
速成就佛身

訳すると仏道を修行する者と修行しない者とを知り、まさにそれぞれの救済すべき方途に従って、種々の法を説くのである。私は常に念い(思い)めぐらしている。

どのようにしたら、あらゆる衆生が無上菩提(成仏)の道へ入り、そのぞれ速やかに仏身(成仏)を成就することができるのであろうかと。

常説法教化 
無數億衆生

常に法を説いて無数億もの衆生を教化し、仏道に誘導してきた。

などがあります。
他にもありますが、書くのが大変なので辞めて置きます。

私の宗派と私自身で解る、お答できることがあればお答します。
なお、私の宗派の考えたが、私自身、最上であるのかな~とは思いますが、それを証明も確証にも至りません。故にこの教えを保証するものではありません。故にこの宗派の修行を信心と良い、信が必要です。
信は迷いを意味するかと思います。
私自身は、故にこの教えを絶対正しいと断言するものではありません。
(断言できたら、仏様ですね)

以上、仏教に関して参考になれば。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました

今まで頂いたご回答を読んできて、仏とは? 私の理解しやすい言葉で言えば、素晴らしい人間、という風に思えてきました。
その素晴らしい人間になれる様に努力(修行)する、という。

お礼日時:2010/01/09 22:36

>「ほとけ」とはなんでしょうか?





答えに書いたのですがわかりにくようなのでもう一度。

究極完全完璧が「法」であり人に訳すと「仏」です。完全完璧=仏になる方法で仏法です。わかりやすいでしょう。
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>「ほとけ」とはなんでしょうか?





答えに書いたのですがわかりにくようなのでもう一度。

究極完全完璧が「法」であり人に訳すと「仏」です。完全完璧=仏になる方法で仏法です。わかりやすいでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました

仏の言葉上の意味は分かりました
しかし、それでも仏なるものが分かりません
何が分からないのか分からないので、これ以上の事が言えませんが、仏と言われる人物とはどのような人物なのでしょうか。No8様がお会いになった織田隆弘師という方のような人を言うのでしょうか。
仏とは何かを知ってどうしたいのか、自分でもよく分かりませんが、昔からの疑問であり、未知の世界です。

良いお年を

お礼日時:2009/12/31 21:56

お釈迦様の教えを知る前に、日常的に使用している言葉で、「しゃかりきになって」、とか「おしゃかになる」という言葉を使いますよね。



「しゃかりきになって」は「お釈迦さまの神通力を使って」と言う言葉が語源です。
「おしゃかになる」は、「お釈迦様の教えが通用しなくなる」という言葉が語源です。

釈尊は、自らの入滅後の未来について、像法(ぞうぼう)、正法(しょうぼう)末法(まっぽう)という三つの時代があることを種々の経文にと説いております。一般的に正法 1000年間 、像法1,000年間、末法10,000年間 とされます。正法は釈迦の仏法が正しく伝えられて、これを修行する民衆が盛んに証りを得る時代。像法は、民衆の仏法に対する素養(機根)は正法より劣るけれども仏法を修行する姿は似ていて形式化されて伝えられ利益をもとらす時代、末法は、釈迦の仏法の利益がすべて失われてしまう時代です。今の時代は、釈迦入滅後の末法の時代となり、お釈迦様の仏法では通用しない時代となります。

釈尊は42年にわたる説法の後、「無量義経」のなかで、「四十余年には未だ真実を顕わさず」(法華経23P)と明かし、その後に説かれた「法華経方便品第二」に「正直に方便を捨ててただ無上道を説く」と宣言して法華経のみが真実の教えであることを示されています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

その末法の時代において、法華経を学ぶ、実行する、修行する意味はあるのでしょうか?

良いお年を

お礼日時:2009/12/31 21:50

昭和57年1月7日、東京の四谷の真成院住職であった織田隆弘師に拝謁いたしました。


幾度か拝謁させて頂き、翌年の昭和58年8月18日に守護仏として観音様のお印を直に頂きました。
すべてアポ無しの面会でした、仏縁というべきものなのでしょう。

隆弘師は私にとって大きな星のような存在です。
一言一句、挙手投足の全てに仏徳が感じられました。
全てが説法でした。
深い慈悲心に満ちた説法でした。

何の修行も出来ぬ身ながらも、それ以来、隆弘師と観音様に手を合わせない日はありません。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます

信仰というものが何なのか、分かりそうで分かりませんが、信じるものがあるというのはいいですね

お礼日時:2009/12/30 14:55

創価学会という教団の者です。



確かに仏教の創始者は釈尊(お釈迦様)ですね。それが今日、様々な宗派に分かれてしまっている。

キリスト教やイスラム教の創始者もそうであったのでしょうが、釈尊も、仏教を創始したのは衆生の幸福を願って、つまりは一切衆生の成仏(生きているうちに)を目指してのことであり、結局そこに帰結するといえます。

そのために、釈尊はその在世中、40年間余りにわたって様々な教えを説きました。しかし、それらはすべて衆生の機根(仏法を受け入れる能力)に応じて説かれた教えで、二乗や悪人、女人は即身成仏(凡夫がその身のままで成仏すること)できないなど、一切衆生の成仏を否定するものでした。

ところが、「四十余年未顕真実」として、自身が説いてきた教えはすべて方便である、正直に捨てなさい、と宣言し、釈尊の生涯最後の8年間に「法華経」を説きました。これこそが釈尊の出世の本懐(この世に出現した目的)の教えであり、これによって二乗も悪人も女人も、その身を改めることなく、即身成仏できることになったのです。

ところが、後の愚かな論師・人師たちは、法華経こそが釈尊の真意であることを無視し、自分の偏狭な我見(自分勝手なものの見方)で、方便として説いてきた教え(爾前経、法華経以前の教え)を、今日に譬えて言えば、まるでテレビや衣服を自分の好みのメーカーやブランドで選ぶような感覚で、「これこそが釈尊の真意だ」と勝手に選び取り、宗派を旗揚げしたりしたのです。それが、仏教各派が今日さまざまに存在している理由です。

ましてや「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事、日蓮大聖人の御言葉。以下同)です。釈尊が直接説いた形の法華経(文上の法華経)は、末法では「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」といって、その功力はなくなってしまったのです。末法で衆生を利益するのは、「但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(開目抄)である、法華経の真髄「南無妙法蓮華経」(文底の法華経)なのです。

ただし、「かう申し出だして候も・わたくしの計にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり」(上野殿御返事)であり、大聖人の「我見」ではないのです。法華経の如来神力品第21には、釈尊が滅後(末法)の弘教のために、法華経の肝要を「地涌の菩薩」に付嘱(法を託すこと)したことが説かれています。また、法華経には、「末法で法華経を広める者は、釈尊在世よりはるかな大難に遭う」と、さまざまな所で記されています。大聖人は「南無妙法蓮華経」を広めてきましたが、確かに様々な大難に遭いました。これをもって、法華経を身読した大聖人が、末法における釈尊の正統な後継であると、如実に証明されたわけです。

結局、末法今日における釈尊の真意は、「南無妙法蓮華経」ということになるといえます。

質問者様の質問趣旨からやや外れた回答になったことを、お詫びいたします。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございました

長く厳しい修行をしないと成仏できない、悪い事をすると地獄に堕ちる、今までのお話はこんな感じでしたが、
誰もが成仏できるというお話ですね。

今までの行いに問わず、誰でも成仏できるんだというお話ですと、じゃあ好き勝手やってもいいんだなと考えてしまう人が出てきそうな気がするのは。
悪い事をすでにやってしまった人が、その後にその法華経を知る場合、そのありがたさが大きそうですが、悪い事をやらずに真面目に生きている人間にとっては、あいつあんな悪事を働いたのに成仏できるのかよ、という不満を抱きそうですが。

こういう考えは、まだまだ心の修行がたりない訳なんでしょうけども。

悪い事を行うと地獄に堕ちるという脅し?の方が、ある意味の抑止力がありそうな気がしました。

今の時代、天国だの地獄だのという話はあまり効き目が無さそうではありますが。

お礼日時:2009/12/28 14:38

仏教の入門書によれば


この世界や人生のありようについて
全てが有限で、相対的で、思うがままにならない苦しみに満ちたものであり
釈迦はその苦しみを克服する道を説かれた、とあります。

全ての仏教の原点は釈迦の教えなのでしょうが
伝えられている教えの全ては伝承に基ずくものです。
直接釈迦に会えない以上、その伝承的な教えを信じる他無いのだと思いますが
伝承だけを頼りに教えを学ぶ事には限りがあるようにも思えます。

本人以外の人が受け伝えて書いた文字だけを頼りに知ろうとする事には
いささかの疑問が生じてしまうようにも感じられます。
それは、どのような人間関係においても同様ではないでしょうか。
直接に会って話してこそ相手を本当に理解する事ができるのだと思います。
釈迦という二千年以上も前の人とは人間関係を結べない以上、その教えを信じる他ないのでしょう。
しかし、教えをいくら学んでも、人間釈迦に会った事にはならない
空理空論だけで終わってしまうかもしれないですね。

釈迦と同様の人格を身に付けた人に会って話してこそ、釈迦の教えが分かるのかもしれませんね。
それは仏教を学ぶ全ての人が願っている事なのでしょうが
中々叶いませんね。
叶わないと諦めてしまうか、それとも師事する人を見つけるかは、人それぞれでしょう。
運よく師事する人に巡り会えた人は幸せかもしれません。

釈迦の教えについては書物が沢山あると思いますので、雑感をお話させていただきました、ご参考まで。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございました

お釈迦様のような人格者にお会いした事はありますでしょうか?
どのような人でしたか?

お礼日時:2009/12/27 22:56

No.2です。



>>僕の思考パターンですと、仏教じゃ誰も幸せになれないという結論になってしまいましたが、
どうなんでしょうか・・・

まさに、「他人から食べ物を布施してもらって、食生活を賄い、修行に打ち込んだ坊さんだけが極楽浄土に行ける」ってのは、「それじゃあ、お坊さんだけが修行して、極楽に行くが、汗水たらして働いて、食料や衣類とか住宅を坊さんに提供した平凡人の俺っちらが行けないのは不公平だぜ!」って思われるのは当然のことです。

でも、因果の理法(原因結果の関係)からすれば「平凡に生きたから極楽浄土に行けない」ってことは導かれませんよ。また「仏教じゃあ誰も幸せになれない」という結論にもはなりませんよ。

ただ、現代社会は生きてゆくのが厳しいので、5~6割の人はとりあえずは、「地獄行き」ってことのようです。(例えばキャバクラ・ホストクラブや結婚相談所を舞台に、恋愛サギ行為をして儲けている男女は、行き先は地獄確定だと思えます。)


それから、お坊さんは、提供された食料等への見返り?として、在家の方達の生活上の雑多な悩みとか、「愛する人や子ども(ペット)が死んでしまった!もう生きていけない!」という方へのカウンセリングとか「人生とは?」なんて哲学的な問題に、自分の得た学習成果(悟り?)から、教えるなんてサービスを提供しないといけないでしょうね。


ちなみに、あの世は「格差社会」です。悟りに応じた世界に区分けされているので、「正しい」学習や修行を行えば、それ相応の社会に行くとなっているようです。でも、「まじめに働き、他人の幸福を願って、平凡に働き、結婚して子どもを2人育てた。大きなウソもつかず、犯罪的なこともせず、でも、修行もせずに死んでしまった。」からって、地獄行きではないですね。それ相応の天国に行けることになっていますよ。

逆に、そういう平凡な人が死後に、「修行、地獄に堕ちた人を救うための地獄への突撃作戦、学習、説法行脚・・」ってのが好きな坊さんたちの集団に入ったら、気が休まらないで天国にいる気がしないと思います。やっぱり、死後も平凡な人々の中で、田んぼでも耕したり、小さなお店をやったりしてのんびり暮らすほうが幸福に感じると思いますよ。

>>最初に天国に行った人と最後の方に天国に行った人との間に不公平感もありそうです。

まあ、そういう妥協案だとありそうですね。でも、実際には、仏教の有名な僧侶とか仏教の大学教授だった方が、地獄に行き、平凡に子どもを育てた専業主婦が天国に行くなんてこともあるようです。
そして、この世でも、後から入社した人が先輩を抜いて部長になるってことも、よくある話です。
たぶん、そういうレベルで不公平感を持つようでは、「おまえさん、まだまだ心の修行が足りんよ」って評価されると思いますよ。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございました

お礼日時:2009/12/27 22:54

釈尊が示したかったのは成仏です。

成仏それだけです。成仏とは文字道理仏に成ることです。もちろん自殺することでも死ぬことでもありません。

衆生が六道輪廻して四聖=声聞、縁覚、菩薩、仏を目指さないから仏は教えを広めました=仏教。六道と四聖で十界といいます。この十界が仏教の基本になりそれを学ぶのが王道です。

神と仏の違いさえわからない人が多いですが釈尊はまず毒矢経で神や霊の話をしないとされましたが、今すべての仏教宗派はこれに反してやっていますから仏教ではないといえるでしょう。

原因と結果を縮めて因果といいますが、全てを作った創造の神は誰かが創らないと「神」という結果はありません。ですので神がいるかどうかの話は仏法ではしないのです。

このように当たり前のことを当たり前と言うのが仏法ですのです。そしてその究極完全完璧にあるものを「法」と「仏」とします。完全完璧になる方法で仏法です。わかりやすいでしょう。

すぐに完全にはなれませんので途中に目標を掲げました。方便といいます。解脱や空観、悟り、西方浄土これらは方便です。解脱しても成仏ではありませんし、空や悟りを得てもまた、完璧ではないので成仏ではありません。

また西の阿弥陀で救われるとはもう聞くだけで低い教えとわかりますね。仕事で北や東に行く人は困ってしまいます。

このように当たり前のことを聴き実行するのが仏法の基本ですが、なかなか聞くことはできても実行までできる人はいません。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。

「仏」という単語は時折耳にします。
しかし意味が分かりません。辞書を読んでも何か違うような気がしますし。

「ほとけ」とはなんでしょうか?

お礼日時:2009/12/26 11:46

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