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関が原で、家康子息・秀忠が信州・真田一族に進軍を妨害され、現着が遅れたために、家康は論功行賞を秀吉派の武将に割けざるをえず、結果、西日本には有力武家が残ったとかなんとか、、という話を聞いたことがあるのですが、この正しい説明をどなたかしていただけませんか?

つまり
秀忠の関が原遅刻により、、真の意味での家康の全国制覇が不十分になった、、、という説についての、、。

A 回答 (1件)

 中山道を進軍した方に、徳川四天王の本多隊・榊原隊等の独立行動も可能な徳川軍主力部隊が多く混じっていたとは言われています。


 彼らが関が原に着陣していれば、これら独立行動が可能な徳川主力部隊も前面に配置できたので、結果として秀吉恩顧の大名の武功を減らすことができ、秀吉恩顧の大名の加増幅を抑えることができたということだと思います。

 もっとも、当時の戦の慣例として、戦場が近い所領を持つ者が前方に立つことが多かったようです。関が原で前面に配置された武将は、福島(尾張)・田中(三河)・筒井(伊賀)・京極(信濃)等、徳川より関が原に近い大名も相当数おり、個人的には疑問に感じます。
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