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タイトルの通りです。
19世紀に国民国家に基づいてできた一国史は、近代歴史学(ランケの実証主義歴史学など)に何か影響を受けたのでしょうか。
それとも、一国史は単なる歴史を見る一つの方法でしかなかったのでしょうか。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

>一国史は近代歴史学に影響を与えたか



古代・中世・近代という3区分を始め、時代区分というのはなかなか難しく、近代を「いつからいつまで」という共通認識を持っていないと、度々話が噛み合わなくなることがよくあります。
なので、ここでは「近代=明治~昭和初期(戦後)まで」として「一国史問題」を簡潔に述べてみます。

近代以前の歴史研究では大きな違いがあります。
それは、「時間は一方向に流れ不可逆的である」「文字史料を主に重きを置く」という「実証主義」的な認識・方法論があったかどうかという点です。
近代以降はそうした研究方法と認識を持つことが「科学的・実証的」なものであるとしています。
それ以前は、あまりそうした意図を持たずにつづられた物が殆どです。
それは当然のことであり、上記のような時間認識や研究方法は明治期に西洋歴史学を取り入れた為であり、そうした意味では近代以前と以後とでは大きく異なります。
つまり、日本歴史学も良くも悪くも「ランケの実証主義歴史学など」に多大な影響を受けています。(ランケとならんで、マルクス歴史学にも大きく影響を受けています)

明治期の日本は、欧米列強に追いつけ、追い越せというのが国是となっていました。
その一つとして、「天皇を頂点とする永い伝統(=歴史)を持つ国家」を主張するために歴史編纂が行われました。
その代表的なモノとして「明治政府の修史事業」というのがあります。
この事業が行われた裏には、「西洋歴史学」に対抗すべく、西洋的な意味での「歴史(記述)」がまだ日本にない事に危機感を持った事があげられます。
そして、主に儒学系知識人が中心となり編纂されていきます。
彼らは、西洋の歴史書から学び取り、その知識を生かして「正史」を作り上げていきました。
もちろん、そうした「正史」に対して反対を唱える知識人もおり、現在ほどでないにしろ、闊達な議論がかわされていました。
とわいえ、色々と紆余曲折があり、現在は国による「正史編纂」は行われていません。
ただ、「教科書検定問題」に代表されるように、ある程度国家側も携わっていますが。

結論としては、「一国史は近代歴史学に影響を与えた」のではなく「近代歴史学のもと一国史が編纂された」となるかと思います。


>それとも、一国史は単なる歴史を見る一つの方法でしかなかったのでしょうか


「一国史」という見方は、現在の「国家」を一つの単位として、その内部だけで簡潔するような「歴史記述」です。
「内部だけで完結する」ということは、当然「日本の外の歴史」は無視されるか「日本側から観た歴史」として記述される事になります。
これは、ドイツ史、フランス史、イギリス史などの各国史も似たようなモノです。
ということで、この問いに対する回答は、

「一国史は歴史を観るときの一つの見方である。しかし、多くの場合、現在の国家・民族というアイデンティティーでもって歴史を観る(記述する)」

となるかと思います。
ではでは、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。
近代歴史学、つまりドイツでできた歴史学が基になり一国史が編纂されるようになり、それが日本に伝わるのですね。

また質問ですが、その一国史は日本にどのような影響を与えたのでしょうか。また。マルクス主義歴史学とは何でしょうか。
お時間があるときでかまいませんのでよろしくお願いします。

お礼日時:2010/01/03 00:30

ドイツ近代歴史学のなかでも主流であったプロイセン学派は、プロイセンから近代ドイツへの国家的変革を一貫した流れとして捉え、前時代の政治・文化のあり方を近代ドイツ形成の礎となったものとして再評価することに主題を置いていました。

これは平たく言えば、国民国家の形成や民族主義の高まりを受けて変わりゆくドイツ国内の政治情勢を“肯定”するために、歴史研究という立場から権威付けをしようという運動であったと見ることが出来ます。
そしてこの流れの端緒となったのがランケの個別主義的な国家史研究であり、国家文書(行政文書)を分析の材料とする政治史重視の姿勢だったのです。
その意味で、質問者様の問われている一国史観は、特にドイツ史学界においてはランケに多大な影響を受けたといえます。

もっとも、この流れを確定付けたのはランケ自身ではなく、後を担ったドロイゼンやトライチュケによるものです。
ドロイゼンはドイツ解放戦争に強い影響を受け、軍事史を中心にプロイセン・ドイツ間の政治的一貫性を説き、トライチュケはヴィルヘルム4世時代の小ドイツ主義がいかにドイツ統一を支えたかを説きました。特にトライチュケがベルリン大学の歴史学教授に就任した影響は大きく、以後のドイツ史学界が国粋主義的な一国史・政治史偏重に陥ってしまった事実は否めません。

一方で、このようなドイツ史学に批判を展開した歴史家も同時代に存在しました。フランスのミシュレは為政者の残す文書から離れて民衆についての叙述を展開し、スイスのブルクハルトはドイツ歴史主義が忘れつつあった文化・芸術といった要素を通じて国家の枠にとどまらない人間性の普遍性を描こうとし、イギリスではバックルが統計学を利用した文明研究を始めました。
同じドイツ国内においても、カール・ランプレヒトが自然地理・民衆の動きまでも含めた地域「全体」を俯瞰する社会史の構築、「普遍的」な歴史事象の類型化といった研究手法を提唱し、国家という「個性」を重視するドイツ史学界と対立して物議を醸しました(これが有名なランプレヒト論争というやつです)。
むしろ世界的(全ヨーロッパ的)にみればこちらの方が研究手法として主流で、以後もデュルケームやホイジンガ、アナール学派など、社会学の手法を活用した総括的な歴史研究が隆盛を極めます。
また、ランケと同時代においても既にヘーゲルが政治史を偏重するランケ史学の理論性の乏しさを指摘しており、後にマルクスが発展的に唯物論的歴史学を提唱することにもつながっています。

このような流れを纏めなおすと、ランケ以降の歴史学は主に3つの潮流があったことが分かります。
一つはドイツ国内で発展した、主観的な政治讃美に傾倒しがちな一国史研究。
二つめはフランスを中心に発展した、社会学的手法と歴史学的手法を併せた総括的文化研究。
三つめは統計学や経済分析に重点を置く、数量的歴史研究。
いずれもが共時的に発展し、互いに批判や融合を繰り返しながら、多様な分析手法を持つ現代歴史学へと繋がっています。
結論として、ヨーロッパ史学においては、一国史研究はランケ史学に端を発してはいるものの、それが唯一の手法としてある時期の歴史学会全体にもてはやされたのではなく、あくまでドイツ史学界においてのみ発展したひとつの手法である、と言えるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
一国史はランケが始まりとなって日本にやってきたのですね。

お礼日時:2010/01/03 00:35

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