プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

暗算するときに数字を復唱しながら計算するから言語野かな?と思ったのですが、言語っていうのはあくまでコミュニケーションのためのものですよね?
コミュニケーションの道具で思考するのは明らかに非効率的ですし、言葉で上手に説明できないなんていうのは言語で扱える情報量が言葉の枠で制限されているからだと思うます。
それにそろばんをやっていた人たちが計算を行うときには、頭の中でそろばんを実際にはじいていると聞いた事もあります。

人間は数という概念をどこで扱っているのでしょう?お願いします。

A 回答 (3件)

こんにちは。


数字は「側頭葉言語野」
数値は「頭頂葉連合野」
計算は「前頭葉連合野」
概ねこのような役付けになります。
ただ、一般に「言語野」と言う場合は頭頂葉でこれに携わる「角回」と「縁上回」の機能を含めて「感覚言語領域」としてしまうのがほとんどです。

言語といいますのはコミュニケーションのためだけにあるのではなく、これには「表象」というたいへん重要な役割があります。「言語表象」といいますのは物や出来事を記銘し、それぞれを個別の観念として扱うことです。我々はこれによって物事を区別し、考えたり記憶に残したりするわけですが、これを「言語思考」といい、人間にこれができなければサルと同じです。
質問者さんは太陽が西に傾き、空や雲が赤く染まった状態を何と説明しますか。これは「夕焼け」ですね。このように、我々が見たもの聞いたことをそのまま扱おうとするならばそれは膨大な情報量になってしまいます。従いまして、実は言語思考といいますのは極めて効率の良いアルゴリズムということになるのであります。また、言語表象を行うことにより、我々人間には「愛」や「死」といった形のない概念でも具体的な対象として認識することが可能となります。

チンパンジーでも数は覚えられますから、言語野がなければダメということは決してありません。例えば、ボールが二個とボールが三個ではどちらが多いかといったことは視覚情報と前頭連合野だけで判断することができますので、これにわざわざ言語を使う必要はありません。ですが、各々の状態を「2」と「3」など数字に対応させるならば我々はボールを並べなくても数値の比較を行うことができます。
このように、我々が扱う「数字」といいますのは「数値という状態」を言語によって表象化したものです。従いまして、数字というのがそもそも言語である以上、それは言語野で扱われることになります。

頭頂葉連合野「縁上回」といいますのは聴覚言語の認知を行う場所と考えられています。ですから、最初に頭頂連合野が「数値」と申し上げましたのは、それは、ここでは「数字の意味を識別する作業」が行われているということであり、後で述べますが、我々の脳は数値を直接のデーターとして扱っているというわけでは決してありません。
側頭葉「聴覚野」に入力された音声情報は「聴覚言語」として「感覚言語野」から頭頂葉「縁上回」に送られ、ここで「言葉なのか数字なのか」が識別されます。では、後頭葉視覚野の「視覚言語」は頭頂葉「角回」で一旦音読され、音声言語とされた後に「縁上回」へ入力されます。
我々は経験上、何か文章を読んだとしましても、必ずや音読しなければならないという意識はありません。ですが、実際には視覚言語は脳内で「角回―縁上回」という音読ルートを通っています。これがどうなのかは私も知りませんが、この音読情報といいますのは我々が言葉を話すための「運動言語野」に送られる出力情報です。ならば、我々が何か思考を行う場合、入力側の感覚言語野だけではなく、出力側の機能も使った方が遥かに答えを出しやすいというのに首を傾げる必要は一切ありません。取り敢えず、質問者さんが暗算をなさるときの復唱はこのルートで行われています。

コンピューターは「数値」というものを直接扱います。私はコンピューターには詳しくありませんので、この表現が正しいかどうかは分りませんが、では、我々の脳はいったいどうやって計算を行うのでしょうか。
最初に述べました通り、計算は大脳皮質「前頭連合野」で行われると考えられます。そして、視覚連合野、聴覚連合野、記憶情報、このような「複数の認知結果」がここで統合され、論理的な比較の行われることを「思考」と言います。
我々の脳は「2+3=5」「4×3=12」といった計算を、
「言語化した数値を規則に従って組み合わせる」
という方法で行っています。
では、この「数学の規則」といいますのは学校の授業で丸暗記したものです。果たして、少なくとも我々の脳内にはコンピューターのように数値を基に演算を行う神経回路とういうのは存在しません。ならば、我々の脳がこの規則を使う限り、数値といいますのは言語化されていなければ計算は不可能なのであります。そして計算とは、それは前頭連合野で行われる「言語数字を用いた論理的な思考」ということになります。
このように、我々は教えられた規則を基に計算を行います。このため、「3×3=7」と覚えてしまいますと脳の計算結果は「7」となり、このようなひとがコンビニでバイトをしますと、必ずやお釣りを出し間違えることになります。

視覚機能といいますのは「空間認識」に適しており、
聴覚機能といいますのは「時間認識」に適しています。
「2+3=5」「4×3=12」といった基本的な計算は、原因と結果が時間軸上に並びますので聴覚言語が適しています。また、「2010」とった桁数の数字も聴覚の方が覚えやすいです。
これに対しまして、二桁や三桁の足し算などを行う場合、我々はそれを目蓋の裏に思い描きます。これは、視覚情報が空間認識に適しているからです。
では、そろばんの達人といいますのは視覚情報を使っており、これは言語化することができません。ですがこの場合、「計算の規則」というものが既にそろばんの方にありますので、これを論理化する必要は全くないのであります。従いまして、頭の中で手続きさえ間違いなければ何桁の計算でも可能であり、言語処理されるのは読み上げ問題と答えだけで良いというわけです。

我々は小学校のとき、徹底的に「九九」を覚えさせられました。これはほとんど全てが聴覚記憶であり、既に脳内では音読の成された情報です。ですから、我々が脳内でこの記憶を使うというのは、それはほぼ復唱に同一と考えて構わないと思います。そして、この復唱といいますのは「運動言語出力」であり、この情報処理は既に大脳皮質を離れ、熟練機能として「小脳」の方に移行されているのではないかと考えられています。
小脳といいますのは「運動記憶」を学習する中枢であり、大脳皮質から下される運動命令を全自動で補正してくれます。歩き方や自転車の乗り方といったものは、この小脳に学習された「熟練運動」であり、大脳皮質がいちいち命令を出さなくとも我々は難なくそれを実行することができます。
では、九九というのは脳内で行われる言語活動であり、それは既に熟練運動と化していると考えられます。そして、このように大脳皮質での論理的な思考を行わずに即座に経験的な結果が選択されてしまうことを「直感」と言い、それには「小脳の熟練学習機能」が深く関わっています。
ですから、果たして「九九」といいますのは我々が身体で覚えさせられた記憶ということになり、そして、自転車の乗り方と同様に、このようなものは生涯に渡って忘れることはないのであります。
    • good
    • 0

人間の脳には、コンピュータや算盤はありません。


つまり、計算はあまり得意でありません。

それでは、計算はどこでやっているかといえば
言語野+前頭葉連合野です。

前頭葉が発達しているので、苦手なことはコンピュータを
作って、補うところが、特徴です。
    • good
    • 0

「脳のどこで」でも人、いや学術的に捉えれば、「個体」によって違ってて、その集合で「統計的なグループ分け」になるんじゃないでしょうか?


大多数の人間は「非効率な『いち、にぃ、さん、しぃ・・』」で、脳の活動野もそれに応対する箇所しょうが
訓練次第で「4(常人が瞬時でわかる上限とされます、確か)」を大きく超えるのあるでしょうし、サバン症候群の数学特化タイプが常人を同じわけは、ないでしょう。
映画・レインマンのマッチの数の、や「巷説百物語り」の「小豆問屋」-だったかな?の「枡に盛られた粒数」などを当てる、とか

「日本人の脳」は諸外国では「雑音」とされる「虫の鳴き声」を「左脳で捉えて」「雑音」ではない「情緒」を感じ、
訓練された「「音楽家」は「音楽」を「感じる」のでなく、「分析」すると本で読んだことがあるです。(脳の活動も非音楽家とは違う)
山田正紀・著には「現象機械(イリュージョン)」という本があり、それを扱ったSFです
(読めば、結論への材料にもなるでしょうか?)

前述のサバンでなくても、未開の部族は数を「量」として捉え西洋数学での「数の数え方」を知らなくても(例えば5或いは10以上は全て「沢山」で「かたずける」なのに400を超える家畜の、「ただ一体の消失」を把握することもあるそうですよ。

同一個体でも訓練次第で処理活動野が「部署転換」されうるかも知れませんが(実験の有無は検索で出るかも知れませんが、未確認で回答、です。)
大多数の人間は「いち、にぃ、さん、し、ごぉ・・・」の、
不確実ですが「言語野」だったかと読んだ記憶があります。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!