プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 高校の日本史では、
南北朝が分裂していた期間(両統が、皇位の正統が自分にあることを主張)は、1336年に北朝の光明天皇(在位1336~1348)が即位してから、
義満の呼びかけにより1392年に合体するまでとされています。
他方、同じく高校の日本史では、
北朝の光厳天皇(在位1331~1333年)と南朝の後醍醐天皇(第96代;在位1318~1339年)の在位がダブっていると教えられます。
これは、どう解釈したらいいのでしょうか?

 1331~1333年の間は、
もはや、大覚寺統と持明院統の両統迭立は成立していないように思われます。
退位してから再び(別の名前の)天皇になられている場合もありますので、
後醍醐天皇の在位が、1318~1331年及び1333~1338年となっていれば、1336年から南北朝の分裂とする説明も納得がいくのですが。
(後醍醐天皇が、1333~1338年の間も同名の「後醍醐天皇」であることが問題なのでしょうか?)

A 回答 (3件)

補足への回答です。



【A】
弘文天皇は明治になってから即位したことを認められ、歴代天皇に追加された天皇です。
ですのでそれ以前の系図だと「弘文天皇」という天皇はいません。あくまで「大友皇子」扱いです。
一方光厳天皇ですが、南朝視点で見れば「歴代天皇には数えない」、北朝視点で見れば「第97代天皇」になります。
どちらにせよ当事者としては、自分達の頂く天皇以外は天皇だとは思ってないので、「北朝第○代」という数え方は後世の視点ということです。

【B】
北朝の天皇を「北朝第○代」として皇統譜に数えないのは、南朝正統論に由来した数え方です。
これで明治時代にはかなりもめたらしく、事態を憂慮した明治天皇が明治44年に「南朝を正統とする」旨を決定しました。
南朝正統論(もしくは南北朝正閏論)で少し調べてみると面白いと思います。明治あたりの色々なエピソードが沢山出てきますので…
    • good
    • 0

光厳天皇は1331年に後醍醐天皇が京を出てしまったため、持明院側が勝手に退位待遇として即位した天皇です。


後醍醐は一度は負けて隠岐に流罪になりましたが、脱出し持明院側のパトロンである鎌倉幕府を滅ぼしてしまったため、光厳天皇の即位は「無かったこと」にされてしまいました。

もし足利尊氏が後醍醐と仲違いしなければ、光厳天皇は歴代天皇として数えられない存在になったと思います。
壬申の乱で負けた弘文天皇のように、本当は即位したけれど勝った方の都合で「無かったこと」にされた天皇になっていたはずです。
当時も光厳天皇は退位後、忘れられた存在に等しかったらしく、尊氏が担ぎ出したときは「ほこりをかぶったご本尊を持ち出した」と言われたほどです。

二人の仲違いにより、光明天皇が即位し、光明天皇を即位するためには「無かったこと」になっていた光厳天皇の即位を「あったこと」にしなければならなかったのです。
なので、実は即位してたけれど無効化されていた光厳天皇の即位を有効とした1336年を以て南北朝の分裂と見なしています。
(まぁ光厳天皇即位を以て南北朝分裂とする説もありますけれど)

ということで、この時期の天皇位は光厳天皇即位を有効と見るか無効と見るかで変わります。
光厳天皇の即位を有効とする視点=「北朝」から見ると、
1318~1331年 後醍醐天皇治世
1331~1333年 光厳天皇治世
1333~1336年 空位
1336~1348年 光明天皇治世

一方、光厳天皇の即位を無効とする視点=「南朝」は、
1318~1339年 後醍醐天皇治世

北朝から見れば後醍醐は1331年に退位してそれっきり、南朝から見れば後醍醐は譲位したことは一度もないということになります。

この回答への補足

 ご丁寧な回答、ありがとうございます。
感覚としては納得できるのですが、
やはり、形式的な疑問が残ります。

 ご回答を整理・抜粋すると、
1.光厳天皇は歴代天皇として数えられている、
2.壬申の乱で負けた弘文天皇は、「無かったこと」にされた天皇、
3.実は即位してたけれど無効化されていた光厳天皇の即位を有効とした1336年を以て南北朝の分裂と見なしている、
となると思います。

【A】まず、2.について、
弘文天皇は、日本史の教科書における系図で大友皇子(弘文)と記載されていますが、
しっかり第39代と明記してあります。
他方、1.について、
教科書の本文には即位の事実及び在位(後醍醐天皇の在位は1318~1339年でダブっている)が1331~1333年と記されているものの、
第○代との記載はなく、北朝の「初代」(光明天皇は初代ではなく、第2代の扱い)になっているだけです。

【B】また、その後、北朝が長きに亘り続いたため、
1.及び3.が有効になっていると思うのですが、
やはり、光厳天皇は現在の皇統譜では、1~125代に含まれていません。
これは、明治維新が絡んでいるのか、
それともそれ以前からそうなっているのでしょうか?

補足日時:2010/01/02 00:19
    • good
    • 1

お説の通りで後醍醐天皇がずっと自分が正統と言っていたのが問題なのです。


北朝方に皇位を譲らなかったのです。

この回答への補足

 1331年の場合、後醍醐天皇は翌年隠岐に流されるほどだったので、
光厳天皇(在位1331~1333年)を正統とし第97代とすることに反対する者はいなかったのではないかと、邪推するところですが、
学校では、そうは教えていません。

 1331年を分裂とせず、1336年を分裂のターニング・ポイントとする理由を知りたいと思っています。

補足日時:2010/01/01 20:28
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!