美術や音楽は進歩していますか。
美術や音楽は進歩していますか。
今の時代、ダビンチやベートーベンの時代よりも進歩している(上である)と言えますか。
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JI時艱方向へ時艱候補うヘrENDERる\設計図それは造詣それは造形\そして怨憎もとい音像文様けすたしょN\ポ\ナXスラSSひゅ\・・・布団の中かの叫びこれもかしこ・・・なっトとnUTにbOLTっち・・・・・・Hぁぁあっ\ぽんぽぽん・・・とり・・・たたんたん・・・|・・・fORMaります・・・XいくすクルスたんとあしC・・・流体ダンプぷ相対論と量子論ナ・・・・ここにiNTER-cONNECT---いんたーちゃんじ・・・じゃんくしょん・・・ディス+(パッチャ|トリビュータ)・・・あさいな・・・ろけぇた・・・aLLOCATEた・・・さろげた・・・・つのに下駄にダム・・・マトリクス・・・写・・・射・・・やぶさめ・・・たおやめ・・・・けさがけ・・・よだれかけ・・・・|////UHHAうっは・・・勝手にロォマ字になるの困るのん\・・・/棒も歩けば犬にあたる・・・南無阿弥陀仏|っと・・さあ早期教育されてない人の毒電波じゃぁありませぬ。。。いっとき互換で。。。。ぱち、。。コンコン。。。おれは。わた。。。おえWH...WATA。。。。わたくしたちは。。。記号の帝国から卒業・・・というわけで|まつだせいこ・征服・・きくちももこ・・卒業・・・おざきゆたか・・・さいとうゆき・・・きさん・・・木木木・・・もりさんありがとう・・・車の杜。。。都住めば・・・ト_終止dOMINANTO>tONIC||
こんにちは。
確かに、行き詰まり感はあるかもしれません。
模倣、コラージュの文化がそれを象徴しているかのようです。
先人の偉大さを越えられない感のアートが、現状の芸術だとするとそうとも言えますが、しかし、歴史の上でも回帰や懐古の芸術は存在する訳ですし、温故知新を実践した上でしか、結局進歩はなく、回帰してしまうとするとやはり人間はそれを目指してやまない。
いまや、科学も政治もメディアも芸術との境界がどこにあるのかさえわからない。そういう多様性という意味では進歩しているのかとも考えますが。
:cyototu さん
適用限界を越えた理論の拡張になるわけですね。非常によく分かりました。cyototu さんのような先生がいらっしゃれば、高校時代もう少し物理が好きになっていたかもしれません・・もとい、物理を選択したかもしれません。(文系選択なので、全くやっていません)
落ちこぼれ文系だったので、悔しくて、高校時代はブルーバックスばかり読んでいました。そのつぎはぎだらけの知識が、スッとつながった気がしました。
これからも、こちらの掲示板で、私のような迷える羊を導いてやってくださいw。
この問題についての、私の方からの回答は、その全部を書こうとすればとても書ききれません。
簡単に本質的なところを書きますが、
自動車とか飛行機なら どんどん、私たちの一生という枠を超えて文明の歴史の中にその技術が積み重なるようにして、進歩してきて生まれてきたわけです。
私は、子どもの頃何度も重い肺炎で死の床をはいずりましたが、もしぎりぎり助かっていなかったら私の一生はそこで終わっていました。
ちょうど自動車や飛行機の存在がわかる程度の物心はついていた時期でした。
がわたしのおじいさんは、自転車を買ったそうですが、そうしたら村中の人がその自転車を見にやって来たそうです。
科学技術の進歩は まるで加速度的ですね^^。
ダビンチの頃も、天才は飛行原理は掴んでいたわけですが、おそらく今の流体力学はまだ知らなかったでしょう。 とても今のような重たい飛行機が空を飛ぶようなところまで計算できなかったと思います。
かどうかは、わたしは、ちょうど分数を習う頃死の床をさまよっていましたので、理化学系は弱くわからないのですが、 私によく解かることは、人にも同じ生物としての一生という生涯がある点で、そのへんがクリアーなのです。
ですので、芸術という世界を一人一人の感性の世界から発するものと捕らえる時、 すべての芸術において、その肝心のその表現の想いとか魂とかの部分はすべて、 その個人の最初の大自然や人との触れ合いに関って いちいち 誕生時から始め直すようにして存在しているという面が はっきりと見えてしまうのです。
音楽では、楽器の進歩はあるでしょう。 音符の記述の進歩はオーケストラをも生み出しました。 が、例えばピアノを引く場合の(そうそう 肺炎での死の床を境にわたしは指の力を失っていますのでピアノは弾けません。 あまり適切な例でないでしょが解かりやすいと思うので書いてみます)技術の基本は同じで先生から習う形で代々引き継がれますが、 その音楽をとらえ感じ、そこにみずからの想いをのせ本物の演奏に仕立て上げてゆく部分は 個人の人生の触れ合いや経験や思考の差によってその進化が決まってくるわけです。
ご質問は
ダビンチは画家、ベートーベンは作曲家としてとらえたところでの、今の時代との比較にあるのでしょうが、 もう少し、その前に、 上記の説明の続きを書かせていただきます。
じつは 上記の点で、最も技術の歴史と関らない芸術の分野は、 歌と踊りと絵の本質の世界なのです。 他の表現芸術世界では演劇関連の表象の直感という技術が昔から直感的な役づくりの世界なのですが、これも現代では技術的な発展をしています。
えっと 思うかもしれませんが、 その三つのジャンルの本質は 歌なら歌唱法とか踊りならなた体操とか、絵なら筆やエアブラシとかの進化にもかかわらず、生活から生まれる想いの深さ(感動の深さ)が声となり、動きの表情となり、絵のタッチとなっているのは変わりないからです。
解かりやすいのが、 その想いの海が やがて人の胸という浜辺に打ち寄せるべくうねり始める時それが音楽のリズムやメロディーに溶け込み 節回しとなりこぶしともなり、ドライブ感にもなりあふれて崩れてうねりは波とくずれ、 そうしていざ歌となる のが基本の歌の世界。 でもこの三つのジャンルは本質的には同じなのです。 想いの大きさ深みから 心の海から
1つ1つの命から又新たに又新たに生まれ続け、そうして技術の進歩にも寄与してきた世界です。
このあたりで、大事なことは、ここにあります。
私たちが 真に人間的に成長すれば ダビンチやベートーベンのような天才をも そこにおいて抜かすことができ、 またそこからは新たな技術的進化をも生みえるというポジティブな姿勢を、そこに持てるかどうかです。
美術や音楽全体の進歩は、この情報化社会が そのへんを改めていかにしっかりとらえるかにかかっていると思います。
ダビンチやベートーベンは天才です。 がそのへんをしっかり捕らえればいつの時代にも彼らに負けない新たな創造は可能なのです。 技術だけでなく芸術においてもです。
そこを私は この時代の若い人たちに知ってもらいたいと想うのです。
溢れる想いがここにはあるのですが、 理解していただけますでしょうか。
(若い頃、ベートーベンの田園で人前で踊ったことのある今は63歳の老人より)
時代自体は こうして過ぎ去ってゆくのですが^^。
またまた#16です。#24さんのコメントに関して、話を深める意味で、またコメントさせて頂きます。
>いずれにせよ、ニュートン力学がアインシュタインによって否定されたように、
についてです。
他の学問分野には今までの理論を否定する形で新しい理論が出てくることも在り得るでしょうが、精密科学としての物理学ではその発展は今までの理論の拡張であって、決して、否定ではありません。そのことについて説明します。
ガリレオからニュートン辺りにかけて、物理学は所謂精密科学と呼ばれる段階に昇華しました。そして、その後の発展は、それ以前の理論が「否定」されて新しい理論が出て来たと言うわけではなく、それ以前の理論の適用限界を超えて拡張されて来たと言うのが適切な表現です。実際、相対性理論では、物体の速さが光の速さに比べて極端に小さい極限で、言い方を変えると、物体の速さに比べて光の速さが圧倒的に大きいとみなせる場合にはニュートン力学に帰着するように拡張された理論です。また、大変エネルギーの小さいミクロな世界では、エネルギーが不連続に変化していることが発見され、それを契機に量子力学が発見されましたが、これも、我々が問題にするエネルギーの大きさが、その不連続なエネルギーのギャップ間隔より大変大きな極限では、量子力学は正確にニュートン力学に帰着するように拡張された理論です。また、アインシュタインの特殊相対性理論もその適用限界を超えたところでも使えるように一般相対性理論に拡張されましたが、特殊相対性理論の適用可能な状況に対しては、一般相対性理論は、特殊相対性理論に完全に一致するように出来ています。
精密科学の精密科学たる所以は、それが適用できる範囲内ではそれが正しいことを誰にも否定できないように論理が構築されていることにあります。ニュートン力学には確かに適用限界が在ります。それに対して、相対性理論も量子力学もその限界を超えた状況にも使えるように出来ていますが、ニュートン力学の適用限界内ではそれらの理論がニュートン力学の結果と完全に一致するように出来ているのです。したがって、相対性理論も量子力学もニュートン力学の拡張であって否定ではないのです。
量子力学の黎明期に活躍したレオン・ローゼンフェルドと言う著名な物理学者は、「もし、ある理論の適用限界が知られていないならば、我々はその理論を理解したと言うことが出来ない。ところで我々は、量子力学の適用限界を知っているのだろうか」という趣旨のことを述べています。このように、我々がある理論の適用限界を知ったと言うことは、決してその理論を否定したのではなく、反対に、その理論に対する深い理解に到達したと言うことです。
人類はそのうちに相対性理論や量子力学の適用限界を突き止め、その限界を超えて適用できる新しい理論を発見するでしょう。さもなかったら、ローゼンフェルドの言うように、我々は相対性理論も量子力学も理解をしたとは言えない状態に留まることになってしまいます。しかし、その新しい理論が正しいと認められるためには、今までの理論が適用できる範囲では、その新しい理論が必ず、今までの理論と一致する結果を導き出せることが必要条件なのです。相対性理論も量子力学もニュートン力学の適用限界内の現象に対してその必要条件を満たしているからこそ、物理学者はそれらの理論を信用しているのです。
したがって、物理学では今までの理論を否定するのではなくて、拡張することによって発展が成されて来たのですし、これからもそのように発展して行くでしょう。
>果てして芸術の、今日的課題は何なんでしょう?
哲学の発展では「否定」があるのかどうか私には判りませんが、芸術に関しては、やはり今までの形態を否定するのではなく、今までの表現法の拡張や、全く新しい予想外な方向への分岐や、あるいは全く新しい側面を付け加えるという形で進化して行くのではないでしょうか。
蛇足ですが、書物の深みに関してフィクションよりもノンフィクションの方が遥かに深いということがしばしば言われています。何故なら、フィクションは所詮誰かの頭の中で作り上げられた事柄ですので、少なくともその作者には、次に何が起こるか予測可能なことが書いてあります。一方、ノンフィクションは、その人の経験が書かれているので、その中には、その著者の頭で前もって予測が出来るような事柄を遥かに超えた、しばしば、とんでもなく予想外の出来事が書いてあります。私も長年研究生活を送って来ましたが、自分にとってこれは凄いや、今回は大分良い仕事ができたな、と思えるような結果が得られるのは、ほとんどの場合、想定外の副産物の結果を得たときです。前もって、その結果が予測できるようなことで、重要だと思える結果を出すことは滅多にないです。芸術の発展も、前もって予測のつかないところに偉大な発展があるのではないでしょうか。
こんばんは
>cyototu さん
お返事ありがとうございます。ダーウィンの進化論の位置づけが、余りよくわかっていなかったので、参考になりました。(適者生存と言いながら、アメーバのようなものが、死に絶えないで残っているのはなぜだ・・、などという論議も最近は聞かれるようですが)
アメリカはアメリカで特殊な世界のようですね・・・少し前のニューズウィークで、アメリカの学者さんが、自由か自由でないか、宗教的か宗教的でないか、という視点で、世界各国を分類していました。確かにアメリカは、自由の位置に位置づけられたのですが、宗教的か宗教的でないかでは、ほぼ、イランイラクと同じくらい宗教的だと位置づけられていました。(自由の度合いでは、ちょうど線対称になっていましたが)まあ、そういった意味では特殊な国のようです。
いずれにせよ、ニュートン力学がアインシュタインによって否定されたように、古典哲学もニーチェによって否定されたようですね。果てして芸術の、今日的課題は何なんでしょう?
というわけで、すべての話は振り出しに戻ったりするのかもしれませんが・・・
スレ主さんには 論議の場を提供していただき 感謝しております
勉強の機会を与えてくださいました 失礼いたしました。
こんにちは。
昨年末に「医学と芸術展」(森美術館)に子供と行ってまいりました。
ダ・ヴィンチの『頭蓋骨の習作』、円山応挙『波上白骨座禅図』から、ジル・バルビエの『老人ホーム』、パトリシア・ピッチニーニの『ゲーム・ボーイズ・アドヴァンス』など、
ルネサンスより現代に至るまでの、人間の身体構造の探究と死生観、老い、生命、そして人間が生きるとは何か、
などということが命題の企画展です。
『頭蓋骨の習作』(1489年)
http://www.artgene.net/event2.php?EID=3163&area= …
『波上白骨座禅図』(18世紀)
http://museum.daijyoji.or.jp/enlargement/03-02/d …
『老人ホーム』(2002年)
(アメリカのヒーローたちx老いとは何か)
http://www.documentsdartistes.org/artistes/barbi …
『ゲーム・ボーイズ・アドヴァンス』(2002年)
(クローン技術により生まれたこどもたち)
http://www.roslynoxley9.com.au/artists/31/Patric …
また、当時最先端の医学工芸品や解剖書(例えば鉄製関節模型)といった類のものが芸術的な域に達しているために、今では一種の美的価値観を付帯しているものも多々ありました。
『鉄製関節模型』(1570-1700年)
http://www.fujitv.co.jp/event/art-net/go/929_lar …
>美術や音楽は進歩していますか。
>今の時代、ダビンチやベートーベンの時代よりも進歩している(上である)と言えますか。
質問者様の「美術」の捉え方にもよるのかもしれませんし、何をもってして「上である」とみなすのかがいまいちわかりませんが、
人間の営む医学(科学)の≪日進月歩≫に伴い、工芸品そして美術品といった芸術もまた、
その時代に要請された形で寄り添い、そして共に≪進歩≫してきた面もたしかに存在するのだなあと、あらためて気付かされた次第です。
でも、もしかすると、医学や芸術においても≪反歩≫な面も見出せるかもしれなかったりして?!
なので、百聞は一見にしかず、よろしかったら是非どうぞ^^
#16です。
>ところが、現在はこの世の中には、絶対的なものは存在しない。そこにあるのは、時代の変化に対応していく「進化」が有るという考え方のようです。という考え方でよろしいのでしょうか?>16番さん
はい、私もそのように理解しています。世界の本質は何かという問いに対して、「永遠」「絶対」「普遍」「在る」に相対する捉え方として、「変化」「諸行無常」「個性」「成る」があると思っております。進歩の概念は必然に基軸を置く前者に属し、進化の概念は偶然を基軸を置く後者に属していると考えます。
キリスト原理主義の国であるアメリカではなぜ未だに進化論が受け入れられていないのかは、私の論じて来た主張の傍証になっていると考えています。
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