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愛って何でしょうか?

■蚊に刺されたことのない人間に「虫刺されの痒み」を説明するような感じで、回答をお願いします。

私は発達障害という生まれつきの傾向を持っています。
そのため、例えば以下のようなことが、分かりません。

・感謝(ありがとう!)
・謙虚(そんなことないですぅ)
・謝罪(ごめんね、すみません)
・挨拶(こんにちは、今年もヨロシク!)

ひょっとしたら、これらの根底にあるものが「愛」なのではないかと思いお尋ねします。

愛されたという経験も、愛したという経験もありません。
26年間結婚していましたが、出会いから別れ(死別)に至るまで、愛というものを意識したことがありませんでした。

世の中には「愛」という言葉が溢れています。
それらは、愛なんて、誰でも分かるのが当然という感じですし、説明も要らないくらい当然のことと扱われてるように感じます。

でも、私にはまったく分かりません。

無私の愛、無償の愛とか、愛は見返りを求めない、とか言いますね。
そりゃあそうだと、私だって思います。
無私じゃないのは自惚れだったり、見返り求めりゃ打算だったりするでしょう。
それくらいのロジックは理解します。

また、愛を育むとか、愛が生まれるとかも言いますね。
(愛というものを)育んだり、生んだりする「方法」があるのでしょうか。それは学んだり、鍛えたりできますか?

根本に迫る回答も、もちろんOKですが
以下の項目についての「部分的回答」でも結構です。

あなたは、愛を・・・
(1)どうやって知り(生まれつき?親からの情報・影響?)
(2)どのように身につけ(家族の中で?学校の人間関係の中で?)
(3)どんな場面で表現・発揮するか(相手は誰でも?それとも何かの基準で選んでから?)
(4)愛を知るために心がけたこと、努力したことはあったか

よろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

愛という言葉は、簡単に言うと「こよなくいとおしく思う」ということではないでしょうか?対象は人や動物や物や国やなんでもあてはまると思います。

もっと簡単にいうと「めちゃくちゃ好き」ということではないでしょうか。世の中では、なにかに対してものすごく好きだと思うとき、愛という言葉を使うようです。
自分が「これ、めちゃくちゃ好きだなあ」と思ったらそれは愛しているということだと思います。だから世の中に愛という言葉があふれているのではないかと…。それが対人の場合(性別問わず)もやはり「めちゃくちゃ好き」「こよなくいとおしい」という気持ちだと思います。その気持ちを知ったり、身につけたのはいつかはわかりません。逆にその気持ちを「これが愛というものなのか?」と自問自答したりもしました。誰かを好きになるのに努力とか、心がけたとかはなく、「なぜ好きなのか」と言われても、説明できない事だらけです。ひとつ言えるのは、無償の愛というのは、相手の気持ちはどうあれ、自分の一方的な「めちゃくちゃ好き」という気持ちだな、と。理屈抜きで「とにかく好き」ということかなと。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

頂いた回答を読ませていただきながら、正直ショックを隠せません。

54年の人生を振り返って、とことん「好きだった人」は誰だったかを思い出そうとしました。対象が人でも動物でも、物でも、です。

見つからなかったのです。本当です。大げさに言っているのではありません。

映画でも、テレビドラマでも、恋愛における愛や、親子の愛などが映画1本につき何種類も描かれていると思います。それだけ、一般的で、誰でも愛の送り手、受け手としての主人公になれるものと思っていました。

でも、どうやら私には無理なようです。
途方に暮れています。

補足日時:2010/01/10 01:17
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#6です。


申し訳ない。これ以上、上手く言えそうにありません(´・ω・`)
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#6です。


質問者様の補足で言っておられることが基本的に正しいと思いますよ。

また、私の場合ですが
例えば・・・誰かに馬鹿にされたとします。
それを聞いても別に怒りも込み上げて来ませんが「馬鹿にされた」→「怒るべき事柄だ」
と判断し、ノルアドレナリン(私も詳しいわけではありませんので間違ってるかも)を分泌するように意識し、感情をあらわにする・・
という一連の行動を起こします。

また本題の愛についてですが、「これが愛だ」と感じることはありません。
先にも述べたように本を読んで得た知識やその他の経験則から「これが愛じゃないか?」と判断し、自己の中で「これを愛とする」と決めた。
そんな感じです( ・ω・)

この回答への補足

回答ありがとうございます。

「知識やその他の経験則から」愛というものを判断するのは結構ですしご自由ですが、やはり、それでは私にとっては理解できません。

例えば「会うとドキドキする」「会いたくなる」「今どうしているか気になる」(例はテキトーです)などから「これが愛である」と回答者様が判断して、決めたということを、もしお聞きしたとしても、なぜ「それを愛と判断するのか」が分からなければ第三者である私には分かりません。

補足日時:2010/01/11 14:55
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#6です。


恋愛中は(終わった後でも)彼女のことをこれ以上無く好きで命がけですが、同時にこの想いは
脳内の分泌物によるものだと認識しています。
つまり、「今、幻想を見ている」と自覚しつつそれを楽しんでいるのが私の恋愛で在り
愛ですね( ・ω・)b

この回答への補足

再度の回答ありがとうございます。

今回は、いわゆる脳内ホルモンによるご説明と思います。

詳しくはありませんが、脳内ホルモンにはアドレナリン、ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリン等々、人間の気分を左右する多くの物質が確認されていますね。

脳内ホルモンにしろ、ニューロン間の神経伝達の仕組みにしろ、そういう次元の話に還元してしまうと、人間の知性や理性のよる思考や探索および努力を放棄したことにならないでしょうか。

例えば、「あっ痛いっ!」と思ったとき、私たちはその理由を探り、その結果、(例えば)足の上に落ちたガラスのコップに思い至るワケですが、その時に「脳内の神経伝達物質が痛覚を認識したからダ」などとは思いませんよね。

愛が脳の働きに関係しているのは多分間違いのないことだと、私も思うのですが、それだけでは、何の説明にもならないような気がするのです。

そして、こういう質問を投げかけている私自身の脳の内部では普通と異なって「特定の脳内物質なり、ニューロンの形なりが、愛を感じるのには不向きなフォーメーションだった」とすると、逆にあっけなく、すべてに説明が付くかもしれません。大変、残念なことではありますが。

補足日時:2010/01/10 01:15
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好きになるということは過去にありましたか?


あなたはあなたの伴侶が好きではなかったのでしょうか?
そして死んだ時も「コップが割れた」ていどの感情でしたか?
愛の前段階として好きになるという感情が必要でしょう。
敵を愛するとか、無私の愛とかはその後の話です。
逆に質問ですが「憎悪」という感情も理解できないですよね?

この回答への補足

回答ありがとうございます。

失礼ながら、回答者様のご回答内容に、私は敵意のようなものを感じざるを得ません。ですので、ご回答中のご質問へのお答えは控えさせて頂きます。

言葉が足りなかったかもしれませんが、私は「愛」というものを否定しようなどとは思っていません。

なお、憎悪や嫌悪、怒りの感情はすごく良く分かります。

補足日時:2010/01/08 23:27
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この回答へのお礼

回答を何度も読み返して、私が少し誤解していたことに気付きました。

回答者様は、
「愛」の前段階として「好きになる」という感情が必要とおっしゃっているのですね。
一般にしばしば言われる「汝の敵を愛せ」や「無私の愛」などの前に、必ず通る道が「好きになる」感情であると。

つい家内の話になって、感情的になってしまいました。

私について言えば「好きになったこと」は星の数ほどあります。今でもです。
しかし、その「好き」が、性欲を原動力としていたことも多々あり、多くの打算(損得だけでなく、自分が優位にたつことで傷つくことを避けるなど)によって感情が左右されていたので胸を張って「好きだった!」と言えるようなものはまったくありません。

別れた、失ったときに、それまで持っていた感情が「恋愛感情」なのか「依存心」だったのかを見分ける方法があるそうです。失って悲しければ「恋愛感情」、失って不安になったり怖くなったら「依存心」なのだそうです。私は、一昨年家内を自死で亡くし、その直後「怖く」なり、うつになりました。この説によれば「依存心」で結ばれていたわけで、愛はなかったと思います。出会いから26年間一貫してそうでした。ちなみに「割れたコップ」には依存していない(いくらでも買い替え可能な)ので、精神的なショックは1年くらい続きました。

愛と同じで、その前段となる「好き」になる感情も、無私という姿勢が必要なのでしょうか。それは、どこから出てくるのでしょうか。胸を張って「好きだー!」と言えますか。

お礼日時:2010/01/09 01:11

お互いの生活の中での常識やマナーとか知恵や金などを自分やお互いのために使う、


そういうもの全般を愛と呼んでいるんじゃないの
法があるから最低限の生活が守られているわけだけれども、
それより少しでも潤いのある豊かな生活がしたいとの思いから、
+αとして愛を蓄積していくというかんじかな

1)最初に愛を感じたのは松田聖子の曲かな
2)頭の中で。
3)常に愛情はあります……自分にも他人にも。
4)一日3冊の読書とか芸術鑑賞とか海外旅行とかかな……
  ♪世界中の愛を集めて~という氷室の歌が昔あったな~~

この回答への補足

回答ありがとうございます。

「愛」というものが
常識、マナー、ルール等に近いものであるならば、そもそも「愛」と呼ぶのは混乱を招きませんか?

潤いのある豊かな生活に必要なのが「愛」であるというお考えは理解しました。しかし、同一条件(潤いのある豊かな生活)で必要なものとして「資金」もそうでしょうし、お互いに支えあう覚悟もそうでしょうし、相手を傷つけない気遣いもそうでしょう。そういった無限の営為の中のどこに、どのような形で「愛」があるのでしょうか。

補足日時:2010/01/08 23:31
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愛に見返りが必要ないのは愛というものが自利利他の感情だからです。


例に従っておいしいものを他人にあげるとしましょう。
すると自分は損をするわけですから、代わりに何かをもらう、とかお礼を言ってもらうとか相手に期待するものがあるわけですね。
しかし、これを愛に基づいて行う場合はこのこと自体を損に感じないどころか、相手が喜んでくれると想像するだけで何かをもらったかのような幸福感を得ることが出来るわけです。
言葉で説明できないものは習慣と体感によって継承されます。
人に何かしてもらったらお礼を言いましょう、と子供に教えておくとします。最初は教わったから始めたこの行為に喜びという感情が伴うことはいろんな場面でそれを実践して体感することで分かるものです。
だから結果として愛の感じ方、定義は人それぞれとなってしまい、説明がつかないものだからやたらと使われてしまう傾向があるのではないでしょうか。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

なぜ「愛」に見返りが不要なのかのご説明と理解しました。
愛が何かを別にすれば、納得できるご説明ですが、そもそも、なぜ「損をしてまで、相手に尽くす」のでしょうか。

「愛」を与えたときの「幸福感」が、「習慣」と「体感」によって継承されるのですね。
では、愛を与えたことによって誰でも「幸福感」を得られるのでしょうか。

自利利他は直感的にその通りと思いますし、もしもそのように思えたならイイなぁと思います。でも、それくらい難しいこととも思え、これだけ多くの人が最澄の言葉にふさわしいような感覚を意識しているのか疑問です。

補足日時:2010/01/08 23:13
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(1)どうやって知り(生まれつき?親からの情報・影響?)


愛とは幻想です。知る由もありません。
(2)どのように身につけ(家族の中で?学校の人間関係の中で?)
?と同じです
(3)どんな場面で表現・発揮するか(相手は誰でも?それとも何かの基準で選んでから?)
恋人と居るときに「愛してる」と言います
(4)愛を知るために心がけたこと、努力したことはあったか
小池一夫原作の漫画をたくさん読みました

この回答への補足

回答ありがとうございます。

一般論になりますが、幻想は描いている本人には「幻想」には見えず、現実であると認識されるものと思います。その意味で、「愛とは幻想」とおっしゃるのは、第三者的な感想と受け止めました。例えば、過去に「愛」だと信じていたものが、今はその幻想が破れてしまい、「あぁ、あの時、愛だと思っていたのは、実は幻想に過ぎなかったんだ」と回想しているイメージです。「幻想」という言葉では何も説明できないのではないか?というのが私の感想です。

にも拘わらず、恋人さんには「愛してる」とおっしゃるのですね。それは「幻想だけど」という前置きを知らせた上で、ということでしょうか。それとも、過去のお話なのでしょうか。そもそも愛を発揮・表現するというのは「愛してるよ」と言葉で言うことなのでしょうか。

補足日時:2010/01/08 23:42
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愛とは理解し、許し、受け入れることだといいます。


そして私は、自分自身を理解し、許し、受け入れると
より楽に生きられることを学びました。
つまり自分で自分を愛することをしたのです。

そしてそれから、誰かと分かりあいたいと思いました。
なので他人に近づき、コミュニケーションを取りました。
自分のことを分かってくれる人がいると、
もっと楽しく生きられることを知りました。

それから、自然環境や音楽や文化を美しいと思いました。
これら美しいものを守り伝えたいと思いました。
そのために、子供たちにはすこやかに育ってほしいと思いました。

愛するもの、美しいものを守りたい。なぜか。
それはもはや相手が、対象が、切っても切れない
自分の心の一部だからだと思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

ご自分なりに、愛というものを捉え、求め、実践し、そのことによってさまざまな世界に広がっていったというご体験を紹介頂いたと理解しました。

で、それは何か?
お答えの中にあるヒントは「自分を理解する・許す・受け入れる」ことと思いました。そして、それを実践すると「楽に生きられる」ことを発見され、それを自分で自分を「愛する」ことだと理解されたのですね。
そして、自分だけでなく、他人も同じように考えると、さらに楽に生きられるようになった。さらに進んで、自然環境や音楽、文化にまで広がっていった。もう、自然環境も自分自身も一体化している。

イメージはとても美しい感じなのですが、具体性に欠けると感じます。
誰でも、自分を理解し、許さないと「愛」とは無縁なのでしょうか。私は自分を理解できていませんし、「理解した!」ということが、どんなことなのかも想像がつきません。自分を知っていると自認している人には誇大妄想や自己愛が少ないとは思いますが、回答者様は以前は自己愛的だったりしたのでしょうか。(すべて憶測です。敵意はありません。)

補足日時:2010/01/08 23:52
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 我が家に来た、かわいらしい「うさぎ」さん。

手のひらに乗るくらいの、小さな、小さな命。かわいらしくて仕方ありません。

 少し大きくなり、私の後をよちよちついてきます。出かけるときも、いかないで行かないで、と必死でついてくる。この小さな命を、大切にしたい。守りたい。幸せにしたい。


 これが愛だと思ってます。心から、いとおしいと思う気持ち。小さな、小さな命に、愛するということを教えてもらいました。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

■追加で質問です。
もし、その「うさぎ」さんが、可愛くなかったら、「愛」は生じますか?
例えば、ゴキブリを10倍くらいにした姿で、羽をばたつかせて、なついてきたら、どうでしょう。愛せますか?

「依存心」として、可愛い者への「執着」とか「愛着」なら、私にも分かります。

補足日時:2010/01/08 20:55
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