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憲法などでドイツを規範にしていたようですが、
ドイツが当時の世界最先端、世界最強の国だったとは思えません。

発展の度合いは違うにしろ、アメリカ、日本のような“後追い型”の国だったのではないでしょうか?
なぜ、ドイツから学ぼうとしたのでしょうか?
戦後、シンガポールなどの“後追い型”の国が同じ“後追い型”で発展した日本を参考にしたようなものでしょうか?

歴史には疎いので私の認識が間違ってるかもしれません。
おてわやらかにお願いします。

A 回答 (4件)

憲法を含む国の政体に関しては、イギリス型ではなくドイツ型を選択しています。

それは、天皇と国民の立ち位置、上意下達式の富国強兵策の推進に都合がよかったからで、質問者さまの認識のとおりだと思います。ただ、皇室(天皇)は明治帝にしろ昭和帝にしろイギリス型の立憲君主を目指していたと思われるところは不思議ではあります。

その他の近代化に関しては、必ずしもドイツ規範とばかりはいえません。その当時の最先端と言われているものを国策として進めています。医学はドイツ式です。最近までカルテ(これ自体ドイツ語)はドイツ語で書かれていました。陸軍は当初はフランス式でしたが、譜仏戦争でフランスがプロシア(後のドイツ)に負けたのを受けてドイツ式に改められました。日清戦争での軍服と日露戦争での軍服が違うのはそれが理由です。ちなみに、乃木大将だけは何故かフランス式の軍服のままですが、、、

海軍はイギリス式であるのは有名です。音楽は当初はイタリア式でした。ドレミはその名残です。その後、ドイツ式となりCDEが使用され、日本語のイロハとあわせて、ごちゃごちゃな音楽教育が今でも行われています^^;
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この回答へのお礼

みなさんありがとうございました

お礼日時:2010/01/21 20:02

天皇を権力の中心に据えた国家体制を作るという意識があって, そのために「強い皇帝」がいるドイツを参考にした, って話を聞いたことが

ある.
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後追い型であったことに加えて、次のようなこともあったのではないでしょうか。



・ドイツも国家統一の過程にあった、または直後であった
・皇帝がいた
・普仏戦争に勝利した
・「発展」が著しかった

素人のたわごとですのでそのつもりで。
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私は、「岩倉使節団」が明治国家の「かたち」を決めた、と思います。


ひよっこの日本国使節団は、各国で歓迎はされましたが、対等に話し合えたわけではありません。
しかし、ドイツは違いました。
当時の宰相ビスマルクは、使節団に「当今、世界は表面上仲良しだが、内面では強弱相凌ぎ、大が小を侮るというのが実情である」と直言しています。
この言葉こそ岩倉や伊藤の胸をうったと思っています。

岩倉使節団 ビスマルクと会見
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/200 …

ドイツは、国家統一の面でも、産業革命の面でも英仏に後れをとり、オーストリア、ロシア、フランスという大国に囲まれて、その干渉の危険にさらされながら、ついにドイツとして統一をはたし、英仏などの大国と優に匹敵しうるだけの国家にしたてあげました。

“後追い型”の国であるドイツを見習ったという認識を私ももっています。
私は、この本で勉強しました。
泉三郎『堂々たる日本人 知られざる岩倉使節団』
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAI96798/
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