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キリスト教は人生に絶望しても死ねない弱いヤツがすがる宗教なんですよね
キリスト教は、人生に絶望しても死ねない弱いやつ、ろくでもない人生でもそれでも生にしがみついているから、ありもしない架空の「神」だの「天国」だのに「逃げ場」を作って、ちまちませこい生きかたをしている矮小な人たちの崇拝するものですよね。
どうみてもそれ以外考えられないのですが。

そこには「憐れみ」「惨めなお慰み」「欺瞞」。しか感じません。
現世から逃避するための妄想世界に救いを求めるだけのまったくもって理解し難い宗教ですね。
イエスの教えとは全く真逆の教義をつくりあげ支配してきた根本悪。でしかないです。
どう思いますか?

A 回答 (5件)

キリスト教に限らず、一神教は大概そうですよね?


日本古来からの主流でもある念仏系も、「死んだら仏」「極楽浄土」と
いうものがあります。現世利益最優先っていうのは、非常に少ないですね。

ただ、信者の中には、その辺りの矛盾を理解しているものもいますし、
思想がどうあれ、結果的に善となる行動を選択している人間まで否定する
気にはなりません。日本の場合は、思想・宗教の全てに対してアレルギーが
あります。ある種の思想体系を保ち、自己を律する生き方を是とできる
ほど成長できていないのでしょう。「利己」と「利他」は必ずしも排他的
ではないが、個人主義を貫くとどうしてもそうなってしまいます。

「情けは人のためならず」ですね。
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そんなことはありません。



私はクリスチャンですが、キリスト教は全世界のすべての人が信じて欲しいと思っています。

正確に言うと信じて欲しいのは「キリスト教」という宗教ではなく、「福音」です。

私は福音が真理だと信じています。真理はひとつしかありません。真理以外のものは真理ではありません。

私が信じている真理についてお話します。

福音とは何かというと、聖書ではすべての人間は罪人であるといっています。

この罪というのは人を殺すとか物を盗むとか警察に捕まるような罪だけではなく心の中であの人なんて死んでしまえばいいとかいなくなればいいと思ったりする心の中で思ったり考えたりする悪いことをすべて含みます。うそをいうこともそうです。そういう基準からすれは私たち人間はすべて罪人です。

押し付けているのではなく、人間を創造した神がそう言っておられるのです。

天地万物を造った神は愛であり義なるお方です。

神の愛はその罪人である人間を天国へ連れて行きたいと思っていますが、神の義は人間の罪を罰し地獄へ投げ入れなければなりません。なぜなら罪を罪として罰しなければ神の義は満足できないのです。

だから、神は自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ十字架にかけて死なせることによって全人類のすべての罪の刑罰を身代わりに負わせて死なせ3日後に復活させることによって信じる人の罪を完全に赦してしまわれたのです。

これが人間の救いです。信じるものを救うと宣言しているのに、信じることなしに地獄へ行ったとしてもそれはその人の責任です。

神は人間を愛して救いの道を用意してくれたのです。これ以上のすばらしい愛はありません。

これが福音です。

教会は、この福音を真理として信じてあかしし、伝えています。
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「キリスト教は人生に絶望しても死ねない弱いヤツがすがる宗教」


大した絶望もした事のない人達の論理でしょうね。
それはそれでとても幸せな事ですから、善い事です。

絶望の縁に立っても生きるための命綱ですが、平和ボケが進んでしまって、本来の意義を失ってしまったのです。
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>現世から逃避するための妄想世界に救いを求めるだけのまったくもって理解し難い宗教ですね。



新世紀エヴァンゲリオンでは、科学者が裏死海文書に書かれた科学的実験を実際やっていくというものですが、キリスト教はプラトンの残した文書を実際実験としてやっていったもの。

キリスト教の設計図は、紀元前400年頃にギリシャ方面で活躍した哲学者プラトンの文章なんです。

2000年ほどずっと実験をやってきたわけです。
確かに犯罪に対する抑止力になっている。
(プラトンの思想は 犯罪を抑制する効果が期待できる)


で、、、
キリスト教の売りは、哀れみとか 惨めなお慰め とかじゃないです。

売りは  <奇蹟>  なんです。 


日本語に「へそが茶を沸かすわ」という表現ありますよね。
「馬鹿馬鹿しい」という意味で使ってますよね。
これを日本語表現に疎い人が英語に直訳してしまったら、、、、
本来の意味が伝わらず、日本人はサイキックだと思われてしまう。


「目が見えない人をイエスが治した」
この話を聞いた人が、奇蹟を信じてキリスト教徒になったとする。

その人に、「奇蹟なんてなかった、これはヘブライ語的表現であり、目が見えないというヘブライ語のイデオムは、分別がつかない人という意味。イエスがその人に知識を与え、ものごとが区別できるようにしてやったという意味。」と言ったら、がっかりするでしょうね。


で、、、、、どうしましょう。
この人 自らの起こる奇蹟を信じてずっと生きてきたとします。
投資した年月が長いほど、虚無感にとらわれますよね。

その人がUFOや宇宙人や超能力者や異世界人や雪男やネッシーやサンタクロースは実在して欲しい と強く願い気質だった場合、知識を与えてもそれはゴミでしかない つまり 現実の知識は価値が無いことにしちゃうと思うんです。


迷妄の闇に溺れているこの人に、現実側から知識という輪を投げても、掴むんでくれないので、救いようが無いわけです。

この人を本当に好きなら、迷妄の闇に飛び込んで助けようとするでしょうが、ミイラ取りがミイラになる危険が大。
だから、こっちの世界にとどまりつつ、闇に輪を投げ込むしかないわけです。
蜘蛛の糸みたく。 

イエスの教えはすべて旧約聖書からとられており、旧約聖書の教えをディアスポラしていた多くのヘブライ人に自分たちの固有のアイデンティティーを呼び起こさせようとした活動なわけです。
ギリシャ方面だけでも、本国ユデアの8倍ものユダヤ人が住んでいた。つまりヘブライ語を理解しない人向けにギリシャ語(ゴイネー)で書かれた。
翻訳が、直訳だったから、奇蹟話であるかのようになってしまった。



哀れみや慰めは何故必要なのかは旧約聖書にはっきりと書かれています。
これは「情けは人のためならず」と同じ理論。


で、神だとか天国だとか逃げ場を作るってのは、要するに子供がやるせない現実からしばし逃避するために、漫画やファンタジーの世界に行ってしまうのと同じ作用をもたらすと思う。

でも、いつか現実に帰ってこなければ。 
だって我々は現実を生きているのであって、空想の世界の住民ではないのだから。

で、この空想の世界に浸って返ってこない大人子供たちをどうやって、現実の世界に連れ戻すか。

奇蹟の人、アニー・サリバン。
彼女はヘレン・ケラーにじかに水を触らせ、現実の水を知ってもらった。
(ヘレン・ケラーは容器に入った状態の水を水だと思っていたそうです。)

現実 信者が何に入ったものを現実だと思っているのか、わかりませんが、空想の世界の中で味わっている現実は現実そのものではない。
では、どうやって生の現実を信者たちに知ってもらうのか。
現実を生きればいいわけです。

ただ、本人はどれが現実かどれが現実とは違うのか、目が見えないゆえにわからないわけです。
目が開くためには知識が不可欠だと思う。


ところが、、、一般の人がわかることが、目が見えないためにわかりようがないわけで、知識を与えてもゴミとして捨ててしまう。
そのような人は、結局プラトンの言うように強者の奴隷になって利用されるしか能が無いわけです。

残念ですが、ある意味 プラトンの言うことは正しい。
そのような分別がつかない者が犯罪を犯すことを防止するためには、強者の言うことを信じさせた方がいい。
犯罪抑止のためなら、嘘も方便なわけです。
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表現は辛辣ですが、宗教というもの、キホン全てがそうなんじゃないでしょうか。

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