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戦国史上最も有名な戦いの一つとして今も昔も熱く語られている(第四次)川中島の戦いですが、真の戦闘の様相はどの様なものだったのでしょうか?

最近の学説では、"越後軍の妻女山布陣"も"啄木鳥の戦法"も"信玄と謙信の一騎打ち"も"車懸かりの陣形"も無かったというのが有力です。
単なるローカルな国境紛争に過ぎなかったのでしょうか?

本当の戦いの経過はどのようなもので、双方にどういった結果をもたらしたのか、どなたか詳しい方教えて下さい。

A 回答 (5件)

一般的には謙信が撤退する途中に武田の一部隊と鉢合わせして、壮絶な遭遇線が発生したというものだと思います。


ただいまいちわからないのが、武田軍が中途半端な規模でなにしに川中島に出たかですよね?
一般的には川中島の北側の稲の収穫が目的かと思いますが、それにしては規模が大きく大物の武将もいるので、霧に紛れて善光寺近辺にいる兵站部隊に強襲を仕掛けたのではないかとみています。
一部の部隊が善光寺に向かい、本体は妻女山と善光寺の間に割って入り抑えとなる、そのはずが上杉の撤退が先になり通り過ぎた後に武田本隊が到着して、通り過ぎたことを知って慌てて追いかけた、こんな形ではないかと思っています。

それが形からキツツキ戦法の創作が起きたのではないでしょうか?


とりあえず武田の一部部隊がつっついた位で上杉軍が逃げだすわけありませんので、キツツキ戦法は論理的に成り立ちません。そんなことしたところでつっついた側が撃退されます。
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通れる道、これすら勘違いがありますよね。

軍馬が横に並んで進める箇所は当時、日本国中にそうはないでしょう。道路は商業流通にとっては大事なインフラですが、隣の国と交戦状態で敵兵の移動を有利にする道路の整備はないでしょう。戦国は体外、隣の国とは仲が悪いですから、道はありません。道がありませんので、おのずと通れるところは限られますので突発的な遭遇戦になることが多い。
謙信は1561年の3月に関東出兵の折、北条を攻めながら、大々的に鎌倉で関東管領就任式をしています。
帰国はその年の5月、休む間もなく、8月に川中島へと出兵していますね。後詰として荷駄隊と5000の兵を善光寺に残して、妻女山に陣取りましたね。
武田の北進に対しては、刺し違えるぞとの恫喝に似た、戦略的な配置です、が。表向きはね、もうひとつアルバイトとしては、西側の穀物地帯の黄金に垂れる稲穂の略奪でしょう。
信玄は数で押し込んでいくタイプで、決戦は避けます。にらみ合いが好きで、その場所から先に逃げたものが負けなんだと考える大将ですから。謙信は米を取れるだけとって、待たしてある荷駄隊へ、深夜密かに
鞭声シクシクとして、(上杉の軍法は合戦時、一人に3食分を朝に用意します。ですから相手は、炊飯の煙で夜討ちとか、読めないようにしています。)
大体この第四次川中島は突発的遭遇戦としては、武田の武将級の戦死者が多かったので、後世の劇場型に変色されたとおもわれますね。信玄は相手が逃げるなら深追いはさせません。簡単に野戦で無傷で勝つなんてことありえないから、できれば 知らぬ間に撤退(逃げていった)していたことになればベストな性質。
啄木鳥そんなことありえるはずないでしょうね。槍下は槍上には勝てないものですよ。啄木鳥のようにつつかれてもつついた方が全滅です。信濃の冬は早いでしょう。兵を無傷で米をいっぱいもって妻子のもとに
帰るべく、深夜の撤兵が乱戦になってしまったというところではないかと。
戦国100年はまた飢饉の歴史でもありますから。関東で年を越したりしたのも、現地での食い扶持の確保ですよ。謙信は謙信なりに、この飢餓の対処法を義というものに隠して、戦国を生きて言ったのではないかと
その過程のひとつでしょう。
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>異説 川中島の合戦



次の本を読まれることを薦めます。

書名= 「真説・川中島合戦―封印された戦国最大の白兵戦」
著者= 三池 純正
出版社=洋泉社
価格= 777円

参考URL:http://www.cbook24.com/shop/item/9784896917529
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私が読んだある学者の説だと、当初の目的は単なるローカルな国境紛争とみてよいようです。


この合戦もお互いにいつもの調子でにらみ合いだけして終わるだろうとおもっていたのですが、案に相違して、上杉軍の本隊と武田軍の一部の間で遭遇戦になってしまい、それが大規模な合戦に発展したそうです。そのため遭遇戦当初は圧倒的に上杉軍が優位に戦局を進め山本勘助、武田典厩、室住虎光、初鹿野源五郎などの歴戦の勇将を討ち取りました。事態の急変を知った武田本隊が救援に駆けつけて戦局が逆転し、上杉方は政虎の影武者をしていたといわれる荒川長実、志田義時などを失い武田軍に押し切られる形で上杉軍が兵を引いて双方痛みわけとなったようです。


武田軍は押し切る形で上杉軍と痛みわけしたので上杉軍の陣中にある村上氏や小笠原氏の御家再興は失敗し、上杉方の北信濃経略は大幅に後退しました。
その一方で人的被害の面でいえば上杉方の方が死傷者数が多いものの、部将で戦死したのは2人だけ。
武田方は信玄が一番信頼を寄せていた武田家No.2の典厩、武田一族の長老の室住虎光、武田家の情報戦略室長だった山本勘助、武勇の誉れ高い初鹿野源五郎と錚々たるメンバーを一挙に喪失してしまいました。
信越国境がほぼ武田と上杉間で確定したという戦果は得たものの、典厩の死はその後の武田家の衰亡の遠因にもなったといわれています。またこの合戦によって武田家の北進政策が限界にきたため、今川家との同盟を解消し南下政策に変更したともいわれています。
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本当の戦いがどうであったのかを決着付ける資料はありませんが、状況証拠を積み重ねていくと、武田軍も上杉軍もその後すぐに大兵力を動員しているので通説ほどの大合戦ではなかったようです。


しかしながら武田側は弟信繁や室住(諸角)豊後守が戦死しているのは間違いないようなので、そこそこに大きな衝突はあったと思われます。

謙信としては絶対的に自信を持っている野戦に持ち込んで決戦を意図していたのではないでしょうか。また、二次的な目標としては海津城の攻略というのもあったと思います。
一方、信玄としてはとにかく決戦を回避しようとしていたと思われます。信玄としては海津城が確保されれば戦略的に勝利と思っていたでしょう。既に信玄は北上して領土を広げる戦略を取るには謙信は手に余る相手だと認識していたはずなので、現状維持でOKとしていたでしょう。

そこから想像されるに、謙信はある程度武田軍を出し抜いて信繁や諸角豊後守を血祭りにはあげたものの、意図した決戦には至らず、また海津城の攻略も敵わずに撤退したのでしょう。
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この回答へのお礼

回答頂きまして有難う御座います。

最近の調査では謙信率いる越軍(1万余?)が陣取った場所は武田陣中奥深くの妻女山ではなく、犀川、千曲川の遥か北方の西条山という小山で遺構も幾つか見つかっているそうです。
だとすると謙信は通説のような危険で大胆な作戦を採っていないし、海津城は思いの外要害堅固であったのかもしれません。
戦の経過を想像するに、甲越両軍はそれぞれ海津城と西条山を拠点として小兵を繰り出し小競り合いを繰り広げていたのでしょうか?

確かに通説程の大合戦ではないし、信玄・謙信両名将の知恵と経験を結集した名人戦としては色褪せてしまうのかも知れませんね。

お礼日時:2010/01/31 00:02

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