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 聖徳太子にまつわる俗説で、

>ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。
(wikipediaより引用)

 というのがありますが、「これは各地方に散在していた先住民や大陸からの移民などの各言語を理解していた、という意味だ」という説を最近耳にして、なるほどと思いました。
 もしこの説を推し進めるとすると、当時聖徳太子が聞き分けたという言語はどんな言語なんでしょうね?
 熊襲、隼人、蝦夷みたいな周辺の民族は固有の言語があったのでしょうか?古代中国語・古代朝鮮語なども日本で話されていたんでしょうか?
 個人的な見解でもいいのでご意見を伺いたく思います。よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

 人の言葉表現とその内容、意志、感情などは多様であり、ずれも在り、且つ、受け取り方もたようでありましょう。


 確かに知的厳密な考証に堪える実在の確認は未だないかもしれない人ですが、聖徳太子は千差万様の人の訴えを理解受け取り、対応できたという事でしょうね。
 隼人はともかく、国栖や蝦夷、或いは熊襲などがお話にきたとは思えませんね。
 まぁ立場とお仕事に関連する方の日本の言葉ではないですか?
 どこでどんな方にお会いになっても、聡明にきちんと対応したことのエピソード・伝説だと存じます。
 ご期待の内容に為りませんが、ロマンを以ってご一緒に更なるご回答をお待ちしましょう。
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聖徳太子の実在性やその伝説に関しては省きます。


聖徳太子より5~60年後の人物として、大化の改新の中大兄皇子(天智天皇)がいますが、この人の逸話として百済人と直接話せたといわれています。
天智帝とその母である皇極・斉明天皇は百済との関係を重視し、百済の滅亡により移住してきた百済人を多く登用していたといわれ、この事に反感をもった旧来の勢力が大海人皇子を支持して壬申の乱を勝たせたともいわれています。
韓国では皇極・斉明女帝の母親(または祖母)が朝鮮半島から政略婚で嫁いだ姫だった、と教科書にも書いてあるそうで日本の皇室は朝鮮から枝分かれしたものだと言いたいようです。
これは多分に恣意的な解釈なので、相手にする必要はありませんが、6~7世紀の大和王権が特に百済と密接な関係にあったらしいことは事実のようです。
当時の朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の3つに分裂しており、言葉も違う殆んど外国同士といっていい状態だったそうです。(なので分裂していた、というより統一前という方が正しい表現でしょうが)
当時の日本語(というより近畿地方の大和王権の中で通用していた言語)も今とは全く違うものだったと考えられ、百済との共通性があったのではと考えられます。
いわゆる任那日本府が日本の植民地や権益を代弁する機関であったというより、言語・文化を共通する地域として存在したと考えれば、分かり易くなるのではないでしょうか。
百済の滅亡と壬申の乱により大和王権も大きく変質していって、現在の私たちが知る大和王朝になり、今の日本につながる文化や言語が育まれていったと考えられます。
いわゆる記紀はその後の8世紀に作られた史書であって、古代史を正しく伝えているのか疑わしいことから聖徳太子が何語を話していたかは分からないのです。

以上、古代史マニアの見解でした。
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音韻学では、ハ行は上代からPA~FA~HAと発音が変化していたと考えられており、聖徳太子当たりの時代だと、PAからFAに移行する時期でしょう。


また、上代日本語と上代朝鮮語(現代朝鮮語とはかなり違う)の関係は深いとされています。

なお、国内で方言が強化固定されたのは、江戸時代の封建制による移動制限の影響が大きいというのが一般的で、それ以前についてはもっと流動的で地域差も小さかったのではないかと考えられているようです。

ただ、アイヌなどの先住民族集団は独自の言語を持っているし、後の山窩や金山衆といった孤立社会集団も独自の言葉を持っていたようですから、流動性の低い地域では独自の言葉が発達していた可能性もあります。
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こんにちは。


普通に考えれば、請願するのは日本人(つまりは政権の支配下の土地)でしょうから、各地の方言でしょう。
今でも東京の人に熊本弁を聞けとか言われても無理でしょう。
つまりは、支配下の土地を巡回するなり、まあ、水戸黄門漫遊記じゃないけど、そういうタイプの支配者だった事を誇示する説話の一つでしょう。
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ご質問者の疑問は、おそらく専門家でも明確な回答を出せないと思います、われわれも同じですけど、話し言葉と文章は違いますから。


以前母親に「テフテフが飛んでいる」なんぞと話したかと聞いたら「蝶々が飛んでいる」と話し言葉では発音していたと言いますから、古代の文章もおそらく当時の人がどう話したかは不明でしょう。
ただ、中国語や朝鮮語はいわゆる「知識人」と呼ばれる人、貴族や僧侶は理解できたと思います。
空海が遣唐使で中国に渡ったとき、きわめて短期間に中国の高僧から学問を取得しましたが、たぶん僧侶は中国語を学んでおり、発音などがたどたどしいだけで、日常会話では全く不自由しなかったと思います。
厩戸皇子も皇子という身分であれば、当時最先端のテクノロジーを身につけた中国人の学者から教えを受けていますし、朝鮮の使節などとも会う機会は多いと思うので、諸外国の言語に精通していたと考えるのが自然でしょう。
日本の各地の人々も、かつてはアイヌとか琉球、薩摩などは独自の言語文化を持っていましたから、英語とフランス語くらいの差はあったのかも知れません。
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蝦夷が大和民族だったのか、アイヌ民族だったのかも現在まで不明ですし


隼人、くまそ、くず、などの各民族にまつわる資料もほとんど残っていません。
蝦夷は別として、隼人、くまそ、くずが山岳民族で完全に大和民族と別な存在だったかもわかっていません。

ただ、蝦夷がアイヌ民族だとするとアイヌ民族には固有の言葉がありますよ。
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聖徳太子は存在すら確認されていません。

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