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ここ最近、この時期になると必ず教師の「国歌不起立」が報道されますが、彼らの意図が全く理解できません。しかし、今年、来年と子の卒業を控える親としては、実際遭遇する可能性すらありますので、事前に彼らの思惑が知りたいと思っています。

何故、ここ最近になって、この動きが活発化したのでしょうか?
また、この行動の意味・目的は?お分かりの方がいれば教えて頂きたいです。

(正直、君が代斉唱など卒業セレモニーの一環としか思えず、現段階では、「誰が蛍の光が終了の時の歌と決めたんだ!オレは認めんゾ!」と言ってるクレーマーと同列にしか思えません。また集団行動を教える教師として明らかに不適格ではないか?とも思ってしまいます。)

A 回答 (41件中1~10件)

生徒や保護者が規律や斉唱を拒む権利は保障されています。

言論と思想の自由がありますので、意見表明、態度表明の一環に過ぎません。

しかし教員は話しが別です。公務員には憲法と法律に従う義務がありますし、勧告や通達を無視することは許されません。
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すこし、思想的な事からそれた所からの考えを申し上げさせてください。



私は、国歌、国旗に対しての考え方は個々人のポリシーがあっても良いと思いますし、
それに準じた行動を取る自由も当然あると思います。
ただ、国歌斉唱時に不起立であったり、国歌を歌わない事によって、
非難、または処分を受けることを不当と考えている方には、
自由と言う言葉を穿き違えないほうが良いし、あまり社会や組織を舐めないほうが良い
と言う風に申し上げたいなと思います。

組織がきめたルールに反して、自らの自由を主張し、その組織やルールに対する
不順、不敬を表明する以上は、当然組織そのものやその思想に順ずる人達からの非難、
および、属する組織の持つ権利に準じた処分、処罰は当然受けます。
そこまで含めての「自由」です。
勘違いしてはいけないのは、自由はただではないと言う事です。
一方的に与えられて、ノーリスクで行使できるものと思われているのだとすれば、
それは「自由」と「勝手」を履き違えていると言わざるを得ません。
自由は戦って手に入れるものです。
例えば、国家や組織に反する主張をした瞬間に、特殊警察に捕らえられて
一生強制収容所の中だと言うなら、そこに自由は無いでしょう。
それに対し、我々には自分の主義主張をもって戦う権利が与えられています。
それを「自由」と言うのです。
ここで私が申し上げている戦いと言うのは決してアグレッシブなだけの意味ではない、
動もあり、静もあり、攻めることもあれば耐え忍ぶ事もある、そういう戦いです。
別にケンカしろと言う意味ではないので悪しからず。

そして、ミクロ、マクロを含めてどんな組織、集団においてもいえることですが、
例えば会社組織において、
自分の属する組織の定めた大筋、ルールに反する主張を公にしようという人間は
懐に辞表を入れて臨むものです。
例えばプロスポーツの選手が、チームや監督の方針に異を唱えれば、
試合に出してもらえなくなることもあるでしょう。
例えばオーケストラにおいて、指揮に従わない演奏をすれば
パートを外される事もあるでしょう。
これらは不当な事でしょうか?
違います。
ありとあらゆる組織は、個々人がそれぞれに与えられた役割をルールに沿って果たす事によって、
恒常性を保っているのです。
好き勝手にに振舞って見える人も「好き勝手にやれ」という役割を与えられているのです。
その決まり事を「自らの主義主張」を根拠に破ろうと言うのであれば、
組織から処罰を受ける事など当たり前です。
それは権利を侵害する事でも、思想を不当に糾弾する事でもありません。
自己の主張に基づいて組織に不利益を与える人間が、制裁を受ける事など当たり前なのです。
私自身の考えとしては、国歌や国旗に対して敬意を払う事はなんらおかしな事とは思いません。
ですが、例えば「あらゆる式典において国旗の掲揚および国歌の斉唱を実施しない」と取り決めた
リベラルな学校において、一人式典中に日の丸を掲げて国歌斉唱をした職員がいて、
その方が懲戒処分を受けた、と言う話を聞いても
私は「そりゃ、そうだろう」と思います。

自らの自由を行使すると言うのであれば、それについてくるリスクを甘んじて受け入れるという
明確な覚悟が必要です。

重ねて申し上げますが、自由と勝手は違います。
自らの主張を行使する事によって、非難を受け、制裁を受けても、
自分の考えを変わらず持ち続け、そして主張する事が憲法によって許されています。
それが、「自由」なのです。
決してナチスのゲシュタポのようなのがやってきて、教育と言う名の拷問を受けさせられる事も
処刑される事もありません。

以上を踏まえて質問に答えさせていただきます。
思想のあり方を問わず、自らの主義主張を押し通すために
自分の属する組織、およびそれが主催する式典やそれに関連する人達に影響を及ぼす事を
躊躇しない者がいるのだとすれば、
私はそれを非常に無作法で無粋な行動原理を持つ個人であると認識しますし、
それは思惑や目的以前の事であると考えます。
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建国の意欲も能力も無い意識の低い朝鮮人に、国は自らの力で築くもの、騙し取っても続かず滅ぶと・・


朝鮮人に世の中の厳しさをきちんと教えてやるべきだろう。。
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簡単じゃないの ?


式典で自分の国の国旗を見ながら自分の国の歌を歌う。
“立て”と言われるから“面倒くせえな”と思いつつ立って歌うが、よく考えると立った方が声が自然に出て楽に歌えた。
ただそれだけ・・別段苦痛も無いただの行事・・ほんの数分で終ってしまうのに式を中止させる。
生徒を卒業させない行為は教育が商売の人間がやる事としてナンセンス。

なんでこんな簡単な事に戦争まで持ち出して好んで混乱させるのかと言えば、、それも簡単。
終ってしまっている戦争の怨みつらみを現代の人間の卒業式を利用して手っ取り早くうっぷん晴らししようとする卑しく女々しい行為。
言う相手が違うのだ。 相手は日本政府か現在80歳代以上の人間に言うのが筋、、だからこれはバカのやる八つ当たりだ。

自分の国の歌を歌うのに何も違和感は無い。
そこに違和感を持つ根本原因は日本人じゃないからだ。 朝鮮人だからだ。
少なくともそう言う原因を教育の場に置く事は、好き好んで混乱の種や爆弾を抱えながら放置する異常な行為だ。

 バカな事はもう止めよう。 朝鮮系民族を日本の教壇に立たせる事は国家的自殺行為だ。
今 眼前の日本の政治や経済および人災による惨状を見て分からないのかニッポン人。。
女々しく八つ当たりを繰返す幼稚な朝鮮人自身の為にもならない一種の拷問だ。
この際朝鮮人教員を全て解雇して、妄想妄言から開放してやれ。
朝鮮人は脳に真っ赤なキムチが染み込んでいるから、終っている戦争を理由に日本を貰い受ける権利を主張している。
劣性遺伝子と言うものは、実に稚拙で奇妙な妄想と妄言を発するものだ。
ちょいと国家の何たるかを考えるに、大笑い。
 日本人を守るべき一国家として、、それは出来ない。
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>何故、ここ最近になって、この動きが活発化したのでしょうか?



いえ。これでも教師の行動は抑えめなのです。
十数年前、国旗国歌が社会問題化したことがありました。

行政が強く乗り出してくるまでは各校長の裁量によって国旗掲揚、国歌斉唱が行われていました。
(学習指導要領にはきちんと国旗国歌については触れていますが、強制性はあまりありませんでした)
しかし、教師の多くはそれに反発。

日の丸を掲げるか、掲げないか。
君が代を歌うか。歌わないか。

卒業式、入学式のシーズンになる度に上へ下への大騒ぎです。
教師の反発に遭い、国旗掲揚国歌斉唱が出来ない校長もいれば断行した校長もいました。
しかし、教師は国歌斉唱を回避できないと知るや卒業式そのものの妨害活動に出たのです。

以下、実際に報道された妨害行動の数々です。

■国歌演奏の最中に卒業式を退席
最もポピュラーな妨害行動だったと思います。
国歌演奏の最中だけ教師と生徒が連れだって退席。終わる頃に戻ってきます。教師は生徒の自主性だと言いますが、もちろん教師の扇動によるものです

■国歌演奏そのものを妨害
君が代が流れると、生徒などが足や手を鳴らして演奏が聞こえないようにします。
当時の報道によると、保護者席から叱責が飛んでも我関せずだったそうです。教師と生徒で練習でもしたんでしょうかね?

■卒業式そのものを欠席
君が代がある卒業式への出席拒否です。


これらは一部ですが、あの手この手で国旗掲揚、国歌斉唱を妨害しました。
卒業式入学式問題では、国立二小の国旗引きずり降ろしと所沢高校の入学式拒否と世羅高校の校長自殺が有名どころかもしれません。
まぁ、彼らは自分たちだけでなく生徒を巻き込んで国旗国歌を妨害したわけです。
特に世羅高校の校長自殺と所沢高校問題は後の行政に強く影響を与えたと言われ、「法的根拠が日の丸君が代にはない」と騒いでいた教師に対し「それならば」と国旗国歌法が出来ました。
この頃から、次第に行政が教育現場に強く介入していくことになります。
特に東京都は石原氏が都知事になってからは東京教育委員会も活発化し、今まで好き放題やっていた教師たちを厳しく管理することになりました。

国旗国歌法が成立し行政介入後もしばらくは教師は大騒ぎしていましたが、行政の介入が厳しく懲罰をちらつかせると、今までのような生徒を巻き込んでの反対運動が出来なくなり、今では細々と活動するのみになったというわけです。(不起立など)

なので「何故活発になったのか?」ではなく、彼らは十数年前大騒ぎしていた教師連中の「生き残り」と考えた方が良いのではないでしょうか?、

行動の意味は反抗期みたいなものじゃないですかね。
子供の頃に親や教師、言わば「権力者」に対する無条件の反発ってありませんでしたか?
やれって言われて素直にやりたくない、言わば第二次性徴期にあたる「反抗期」です。
多くは成長していく過程で、それらの反発を飲み込み「大人」になっていくのですが、中には大人になりきれない人達もいるのです。
彼らは権力者に命令されると脊髄反射で反発してしまうのです。
でもおかしなことに普段彼らは逆に「権力者」として生徒に強制命令をしているのですが、そのことに全く気付いていませんね。


長くなりましたが、とにかく職務命令にはきちんと従うべきだと思います。
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大変勉強になりました。


私も気になっていたことでしたが、質問者さんのわかり易い質問から、とても大きな背景を知ることができました。

回答にはならないかもしれませんが、お礼のつもりで書かせていただきます。

これから私も子供の卒業式を経験することになりますが、そのときは誰が主役なのかを考えたいと思います。
途中の回答にもありましたが、主役の卒業生達がいやな思いをすることだけは避けたいですね。
質問者さんの言うとおり、「立って歌ってるフリ」でもして、気持ちよく送り出してもらいたいものだと思います。

「歌わない」という意見は重要だと思うので、それは違うところで十分に話し合ってもらいたいです。
別の機会に「先生方の主張の場」を設けてもらい、意見を聞きたいです。

卒業式は、結婚式や葬式の様に、主役のために、人々が集まるものだと思います。
卒業生が自分の主張で歌わないならともかく、その先生方にはもう少し社会勉強をしてもらいたいですね。

今回勉強させていただきましたが、「君が代」の「君」が諸説あるならば、子供の卒業式には私なりの「君」を想って歌ってみます。
「天使にラブソングを」という映画で、「I Will Follow Him~」とポップスを聖歌隊が歌っていました。
少し歌詞も変わっていましたが、あの場所で、あの人たちが歌うことによって、男女の恋愛の歌から、神を想う歌になっています。

質問者さんの「天皇=平和の象徴」という文字をみて嬉しく感じました。
反省することは大切だけれど、陛下をみて平和を感じる日本にしたのは、あなたたちだ。
それに関しては、えばっていいぞオジサン達!と思いました。
しかし、「日の丸」「君が代」「天皇」の元にたくさんの命が散っていったことは子供に伝えていこうと考えています。

「君が代」が歌われなくなってしまったら、この歌を歌いながら亡くなっていった方々に、申し訳ありません。
この質問読んでよかったなー。
私は歌いますよ。
「君」は「平和を願う皆の心」。
千代に八千代に続いて欲しいです。
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この質問自体がネトウヨ(「ネット右翼」の略語です、念のため)による「釣り」かどうかは不明ですが、一般論として国旗や国歌に関する事実を示しておきたいと思います。



(1) 学校における国旗掲揚や国歌斉唱をムヤミに強調しているのは、教委などのうちの一部右翼だけ。
 日の丸、君が代などへの賛否は元々両論あったし、教員たちの間でも(当然だが)意見は割れていた。それらを入学式や卒業式などの式典で採用するかどうかについても、教育現場の姿勢は一枚岩ではなかったし、それを特に不思議に感じる風潮も無かった。
 それを教員への人事権や懲戒権まで発動して強制しようとしたのは現場ではなく、むしろ現場を知らずに机上の空論を振りかざす一部の政治家や教委などの仕業に過ぎない。

(2) 真の愛国心と、国歌や国旗へのフェティシスティックな執着心とは、似て非なる別物。
 浅墓な教科書改ざんなどせず、国史を事実そのままに教え、表も裏も、良いところも悪いところも縦横に知り尽くして初めて、その国が好きか嫌いかを正しく判断できよう、というもの。
 自分たちの過去の良い面だけを教え、悪いところは教科書から削除しようなどという姑息な国を誰が好きになれると言うのか?
 逆にもし日本が、現代のドイツと同様、自分たちの過去の悪行も含め歴史的事実を全て臆する事無く開示したら、国民はおそらく一人残らずこの国を真に敬愛することだろう。
 国を愛するという事は、言うは易く行うは難し。歌や旗などを表面的に偶像崇拝する事ではなく、まずその国の全てを学ぶ、という不断の努力が必要な大事業なのだ、という事実を忘れてはならない。

(3) 「君が代」は国歌として適切か?
 先ず歌詞については、丸谷才一『裏声で歌へ君が代』を参照されたい。
 次に音楽的に見ると、この曲が邦楽器による伴奏に適さないのが気になる。
(学校での国歌斉唱に賛成の皆さん、学校でこの曲をピアノなどの洋楽器でなく純然たる和楽器で伴奏しているのを一度たりとも耳にされたことがありますか?)

最後に、質問文の中で気になる点を2つほど。

まず、単なる「セレモニーの一環」なら、なんで強制したり全員参加したりしないといけないの?
大して重要でもなさそうな事だったら、それに敢えて参加しない教師たちの悪口を言うほうこそ、無意味な「クレーマー」ですよね?

それから、「集団行動を教える」ことは、全体主義的に全員が同一行動を取れ、と強制することとは意味が全然違いますよ。
もし「集団行動=強制」と思っているヒト(ラー)がいるとしたら、そういう大人に育てられる子供こそ世界一可哀想な被害者だと思います。
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教師をしている方の意見読みました。



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を読んだこと、見たことはありますか?

どうして争いが起きるのか、その根源にまでわたって考えたことはありますか?
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No.32さんにほんの少し異議ありというところでしょうか。



愛国心を持つのはいいことですし、というか故郷を思う気持ちやご先祖を敬う気持ちは、
人間にとって自然なことです。しかし、現在、若者を中心とした偏狭なナショナリズム
の差別的発言はネットの世界で少し目に余るものがありますし、サブカルチャーとしても
地位をきづきつつあります。時代の流れで、需要があって供給があるのだから、いいの
だろうけど、度を超すとマイノリティーへの人権問題や近隣アジアの外交問題をこじら
せかねません。

左よりの発言が精神障害だと決めつけるのはどうなのでしょうか。その方は、そちらの
目線からの解釈をそれなりに勉強されていると思いましたが。

近代史っていうのは子供には少しタブーなところもあったけど、大人の喧嘩の両者の
言い分は、案外刺激的じゃないかな。

セレモニーは子供に仕切らせてみるとか、いい経験になる気がするけど不謹慎でしょうか。
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一教師として大変申し訳なく思います。


私自身は日の丸、君が代に対して敬意を払っておりますが、そうでない方も周りには大勢います。
本来であれば税金で生活させて頂いている我々教師は例え自分の主義主張はどうあれ、公の場(ここでは卒業式)において、それを優先させるべきではないのです。
社会に出ると(学校内でも)ルールがあって、それがどんなに意に沿わない事でも守らなければならない(学校での生徒であれば髪型や服装、持ち物など)
それを教えるのも教師の勤めです。勉強だけを教えるのが学校ではありません。そういう立場である教師がこんなことではどうしようもないと常々遺憾に思っております。
ましてや卒業式といえば可愛い教え子達の晴れ舞台です。気持ちよく送り出してやりたいではないですか。
そんな当たり前の事が出来ない者がいる。これは戦争の傷跡なのかもしれません。
これまでに賛成反対双方の意見を読んですでに理解していると思いますが、片方の心が病んでいる事にお気づきでしょう。
日本は戦中戦後の経緯でそう言う人間が増えてしまったのです。病気ですので、あまり責めないであげてください。
とは言え、卒業式でゴタゴタがあると子供の心に傷を付けてしまいますので困りものです。
なるべくこういう教師が減ることを願っておりますが、私のような新米教師は声を大にして主張出来ないのが現状です。不甲斐ないことで大変申し訳ないとしか言いようがありませんが、今後、私なりに努力していく所存です。
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