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「なぜ人を殺してはいけないのか」といった
問題が倫理学の問題でたまに問われるようですが
この問題は政治哲学の問題ではないかと私は思ってます。

永井均という哲学者は
ニーチェを使って、人を殺すこともやむを得ない旨を
巷で論じてます。

しかし、私からすれば
永井均のニーチェ解釈は誤りではないかと
考えます。

その理由はそもそも
その問題は政治哲学において問われるべきだと
考えるからです。

ニーチェは「アンチ・キリスト」において
以下のように述べます。

「善とは何か
 人間において権力の感情と
 権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。
 悪とは何か
 弱さから生ずるすべてのもの。」

そして、ニーチェは遺稿集において
友人宛に自己の思想とスピノザの思想との類似を
論じています。

そして、スピノザも
ニーチェと同様に喜び=善、悲しみ=悪と
考えます。

しかし
このように考えれば
当然、2者間の権利・利益の調整上
問題が生じます。

そこで、スピノザは
社会契約説を採用することを通じて
殺人の禁止を採用します。

一方、ニーチェは社会契約説を採用せず
位階秩序を採用する旨を「力への意志」で論じています。

とするならば
「なぜ人を殺してはいけないか」といった問題は
そもそも倫理学の問題ではなく政治哲学の問題であると
言えるのではないでしょうか?

永井均はニーチェを利用し
殺人の是認を論じてますが、私の眼から見て
永井の解釈はどう考えても誤解にしか思えません。

確か前に読んだ書によれば
ルサンチマン理論を使って殺人の肯定を論じていたように
思えます。

もしそうだとしても
力への意志は支配欲を含まない以上
永井均の解釈は誤りであると私は考えますが
その点についてはどう思いますか?

皆さんのご意見をお聞かせください。

A 回答 (3件)

 《人を殺してはいけない》という学問はありません。



 善と悪の定義も存在しない、と思います。

 善悪は個人の意地によって、自由自在に変化するものであり、
 個人の善悪を、他人に押し付ける事こそ、悪なのです。

 人を殺す、という定義も存在しません。

 心臓の死か、魂の死か、脳の死か、心の死か。

 どれを殺したら、他殺になるのか?

 その論議は果てしなく、限りのない論議です。

 だからこそ、学問になりうる。

 死が学問になりうるのですね。

 善悪を語ることが、学問になるのですね。

 答えが見えないからこそ。
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政治?は何を作ってますか、


そう、法律を作れる唯一の国家機関です。

法律は、ただ単に法律を作る訳じゃない。
その根底に何かが必要です。
国というモノを形作るには、そこに暮らしている人間の価値観が反映されます。
倫理や哲学は政治以前に存在する訳です。

人が集まってグループが出来れば、そこにはグループの掟ができていきますよね?。
道徳観や倫理観や哲学などが相まったモノですからね。

サル山のサルたちにも共通するでしょう。
狼の群れにも共通するでしょう。
オットセイにもね。
しかし、人間だけが何故か人を殺してしまう。
さて、何故なのでしょうか?。

何故に、人間だけがチカラを見せつけて人を殺す人が出てくるのは?。
人間以外の動物なら殺すまでに至りませんよね。

さて、哲学的に思考が成ってきたかも知れないから横に逸れるとして、
倫理は哲学じゃない、社会道徳だそうですね。

そう、グループに共通する思考というかグループの規範になる心の柱ですね。
『人を殺してはいけない』
それは、人間というグループが昔から続く約束事じゃないのかな?。
親しい人が死んだら?、悲しくなる。
とても悲しい状態は悲しい事も忘れている。
老衰で大往生を遂げて逝ったとしても悲しみは悲しみです。

そう、『人を殺してはいけない』は感情のひとつに在るのでしょう。

しかし、人間は人を殺す人がいます。
もしかしたら、大昔には人類は2つの生物が再び交じり合った結果誕生したのではないか?。
いや、3つの生物かも知れないし・・・。
で、人の祖先が増えると世界各地で人口密度が高まる。
人の祖先Aと人の祖先Bが出会うまでには、時間は掛からなかったのかも知れない。

人間は遺伝子が遠いと匂いか何かで5感や第6感で感じ取るのか。
で、出会った雄雌がする事といったら?。
子孫を残す。
しかし、出会い方を間違えれば戦いに成る。
まっ、混血がなされて溶け込んでいく訳だね。
なので、異なる先祖の価値観が深層意識下へ綿綿と引き継がれているのでしょうかね?。
その中に、『人を殺しても良い』という価値観が含まれているのか?。

そんなこんなで結局は哲学に戻って来る訳だ。
権力を持って人を支配したいと想う心は支配欲だよね?。
支配される側にはなりたくないと想う心も働くからね。
そして命を賭けた戦いが生じる。
ただそれだけでしょう。
欲に突き動かされているから『人を殺したい』と想う事になるのだろうけど。
『何故、人を殺してはいけない』と問う心は現実と理想との間に出来た感情なのでしょう。

なので、政治が口を挟める余地は無い。
各個人の脳にアクセスできる方法や手段は今のところは無いからね。
SF作品なら、脳と繋がったコンピュータやネットワークから、
脳を書き換える事が出来るでしょうけどね。
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倫理学と政治哲学、両方じゃないですか?


『人を殺してもよい』国になったら、「気に入らないから」
「ムカついたから」なんて理由でも殺人OKとなりますね。

殺された人の家族は何を思い、どうするのでしょう。
『人を殺してもよい』だったら「復讐してやる」と行動する人も
当然いるでしょう。とことん追いかける人も出てくるかも知れません。
それで、その人の人としての人生はどうでしょうか?
人として、幸福でしょうか? 復讐を遂げれば満足でしょうか?

それに、いつ何処で殺し合いが始まってもおかしくないと思いませんか?
これでは無法地帯とおなじです。国が潰れてしまいます。
『人を殺してもよい』国なんて、安心して暮らせないでしょ。

革命がおきると思います。革命と言えば聞こえはいいですが、
暴動です。国民が暴徒になってしまう可能性があると思います。
だから、倫理学と政治哲学、両方の問題だと思います。
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