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東アジアでは、歴史を通し、軍事的・文化的に拡大する中華帝国の影響で、周辺の国や民族が次々に飲み込まれて行きました。その過程で、現在で言うところの少数民族が生まれしたし、時代が下るにつれ、中央から離れた地点でも、少数民族が漢化しいて行きました。明・清期になると、広東省のような中華圏でいえば辺境の地においても、多数派が自らを中国人だといました。(・・以上が、私が中国史の授業や本で学んだことのまとめです。これを前提に質問いたします)

中国の政治・文化の中心地からそれほど遠くない位置になる朝鮮半島においても、当然に冊封態勢に組み込まれ、多くの影響を影響を受け続けてきたです。しかし、(封鎖・従属の程度、その様態については、政治的民族的感情により争いがありますが、それは本件では無関係なので、置いておきます)一部の時代を除けば、完全に中国に取り込まれることはなく、一応は別の民族・文化として存在を保ち、現在でも(北朝鮮ですら)中国一部にはなっておりません。周辺民族の歴史と比較すれば、半島全体が「中華人民共和国朝鮮自治州」となる歴史展開になっても、それほど不思議ではないと思われます。

中国がどんどん拡大し、ほとんどの民族が取り込まれて行く中で、中国からあれだけ近い朝鮮半島の人々が(文化的・政治的に冊封されつつも)一応の独立を保てたのはなぜでしょうか?

A 回答 (9件)

1.漢時代以後、中国が朝鮮半島を直接支配していた時代が短い事と、またそれにより漢民族の流入が少なかった事。



2.北方民族の国家が朝鮮半島と漢民族の国家の間に存在した時代がかなりあり、緩衝地帯となった事。

3.中国のその時々の事情により朝鮮半島に力を入れられなかった事。

上記の点から自立した独立国家が朝鮮半島に長年存在できました。


漢の時代に朝鮮半島には漢の支配機構である楽浪郡、帯方郡が成立し、朝鮮半島のある程度はその支配下にあったわけですが、次の晋の時代の戦乱期、晋が滅びを迎えた時に楽浪郡と帯方郡は高句麗などに攻め滅ぼされてしまいます。

そして五胡十六国時代という中国が分裂した時代が到来し、各国は中華の覇権をめぐって戦争にあけくれます。朝鮮半島の支配どころではなくなります。こうした分裂時代が約300年も続きます。
この時、朝鮮半島のお隣、遼東半島に鮮卑の建てた前燕という国ができ高句麗と戦ったりします。
後に高句麗は朝鮮半島北部から遼東半島と満州の一部にもその支配地を広げています。

結局、晋の滅亡後の中国の分裂時代は隋によりようやく再統一されます。
隋と高句麗は冊封関係に入りますが、高句麗の嬰陽王は、他国と結ぼうとし、怒った隋に三度攻められますが、戦いに勝利します。
そのうち隋が滅び唐が建国されます。
その後、高句麗は唐と朝鮮半島南部の新羅に攻められ滅びます。
唐は朝鮮半島の支配を強めようとしますが、今度は新羅が立ち塞がります。
この頃、唐は吐番との戦争で敗北するなど深刻な問題が別にあり、結局支配していた朝鮮の地域すら新羅に委ねます。唐が朝鮮半島の旧高句麗の地を支配したのは8年に過ぎませんでした。
つまり、隋と唐の時代、両国は朝鮮半島の支配に失敗しています。

唐が滅ぶとまた中国は分裂の時代になり、後に宋が統一しますが、北辺は北方の契丹族が建国した遼となります。この時代、朝鮮半島はこの遼とお隣になり遼と高麗は何度も戦います。
そのうち遼は女真族の金に倒され、高麗のお隣はこの金になりますが、金は高麗よりも宋との戦いに力を入れました。
この金も蒙古(元)に倒され、高麗は蒙古と戦い敗北し、蒙古の支配を受けますが、高麗の王家は存続を許され傀儡政権のような形になり存続します。
ただそれも約100年ほどの事で、元が衰退すると高麗は元に叛旗を翻し独立を取り戻しました。

元を倒したのは明で、明は元の後継である北元や北方民族のオイラート、タタールなどとの戦いに忙しい状態でした。朝鮮半島は高麗から李氏朝鮮の時代になっていますが、やはり北方の民族と戦っています。
李氏朝鮮と明軍は連合して女真族と戦ったりもしています。
明も李氏朝鮮もやはり外敵として北方の民族が問題であったようです。
この後、明は女真族の清にとって変わられ、李氏朝鮮もその支配下になりました。

このように、必ずしも統一された中国の大帝国が必ず朝鮮半島のお隣に存在したというわけではなく、それなりの勢力を持った国が間にいたり、高句麗のように朝鮮半島から飛び出てかなりの勢力を保持していた国が存在したり、中国も内部分裂や外敵の存在により、朝鮮半島にまで支配を及ぼせないという期間がかなりありました。だから取り込まれませんでした。

なお広東省など華南の地に住む人々が自らを中国人というのは至極当然だと思います。古来、中原での戦乱を避けるために多くの人々が華南の地に逃れ住みました。また、北方の民族が華北を支配したため、漢人の政権の国が華南の地にできた事もすくなくありません。それだけ古くから支配が進んでいましたから。

なお明・清時代に広東省が中華の辺境というのは個人的にはどうかなと思います。
唐の時代に都護府という組織が辺境と異民族支配のために置かれていますが、南を担当する安南都護府が設置されたのは679年の事であり、その場所は広東省より南の現在のベトナムのハノイです。

この回答への補足

ありがとうございます。中国と朝鮮半島とその周辺国家の関係を時代をおってまとめていただき、少し理解が進みました。

> なお広東省など華南の地に住む人々が自らを中国人というのは至極当然だと思います。古来、中原での戦乱を避けるために多くの人々が華南の地に逃れ住みました。

たしかに、従来の「正統的」歴史理解は、華南の地域には中原からたくさんの人が南下して流れ込んみ、これが南部の中国人の基礎を作ったというものだと思います。

私があのような書き方をしたのは、(私はかなりの勉強不足ではありますが)、南部のこの地域は、中華王朝の版図に入り支配を受けていたという意味では相当に古い時代から中国の一部ではあり、中国語を喋る人間が統治階級には存在していたけれども、実際の庶民、農民の多数派が中国文化を受け入れ漢化したのは、明、場所によっては清であること(まだ完全な漢化を拒む少数民族はたくさんいます)、民衆レベルの中国文化を理解する上で、このことの重要性が近年の研究でますます明らかになってきていることが、私が受けた授業や文献で、強調されていたからです。

そこから出発し、様々な地方に住む民族的には違う人間(漢民族は政治・文化の概念であって、そのような生物学的民族は存在しない、とよくいわれます)が、そうやってゆっくり中国に取り込まれていったのなら、なぜ朝鮮は?と疑問に思ったのでした。

明清期まで、庶民レベルでは漢化しなかったということが、争いようのない事実として専門家に広く受けいられているのかは、私は知るよしもありませんが。

補足日時:2010/03/05 23:54
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雲南は当時銀が盛んに算出されて、それがあって洪武帝が直接統治にこだわったと聞きますが。



あとなにげに四川省の奥地も、穀倉地帯だったり交易ルートだったりしますよ。
ペルシャ湾→インド洋→ベンガル湾→ビルマ→雲南→成都
海のシルクロードと言う表現もあったりします。

この回答への補足

なるほど。経済合理性の観点からは、確かに地域差は大きそうですね。ありがとうございます。

補足日時:2010/03/05 02:13
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元・清といった異民族国家は、中華圏本土を直接統治、他の蛮地は間接統治が基本ですので、そもそも直接統治の意図が無かったのでは?



実際直接統治しても利益が上がらないですよ。
西は交易路だったり、安南は銀だったり、なにか意味があるから直接統治するわけで、ただの貧乏国なら冊封しておけば十分だったんですよ。

この回答への補足

ありがとうございます。
確かに、わざわざ直接統治しても経済的にペイしない可能性もあるかとは思うんですが、現在「中華圏本土」とされている場所も、過去には(場所によってごく近年まで)朝鮮と同じように、完全な中華圏ではなかった土地も多いようです。そうすると、例えば、雲南は大理国が滅ぼされ次第に「中華圏本土」と見なされるようになったのに、なぜ朝鮮は従属してはいるものの完全な「中華圏本土」と見なされるまでにはいたらなかったか、という質問に帰着すると思います。

補足日時:2010/03/04 17:36
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 もう御考察済みやもしれませんが、タイ、ベトナム、琉球なども清国に朝貢していたのでそういう国々の歴史と比較されるのもおもしろいかもしれません。


 よくわかりませんが、歴史上の大きな出来事が起こったその時その時にさまざまな要因が出て来ていたのではないかと思います。

・ 明は15世紀初、ベトナムを一時期直接支配下に置きますがベトナムのゲリラ的大抵抗に会ってこれを放棄し、ベトナム黎朝が興っています。シロウト考えですが、あんまり反抗される所はめんどくさい、軍事的損害を受けるよりも属国化して日頃はおいしい思いだけする方が良いと思ったか?
・ 紀元前の古くは、漢が置いて統治していた4郡が絶え間ない抵抗に会い次々と滅ぼされています。最後に残った楽浪郡(魏志倭人伝でおなじみのところ)も高句麗の攻撃を受け続け、滅ぼされました。⇒直轄統治が終わる。直轄統治が失敗?
・ 中国と今の北朝鮮の間にアムノッカンという大きな河がありますが、あの河の存在も要因の一つではないかと思います。
  随は高麗を攻める時、この河を渡ろうと何度も大変な犠牲を払っています。そして結局攻めきれず大敗し高句麗侵攻をあきらめます。高句麗への遠征は隋の弱体化の一因になったようです。
  アムノッカンの上流部は水深が浅く、今でも北朝鮮からの脱北者が歩いて中国へ逃げると言いますのでそちらから攻めればよいのでは?ところが朝鮮半島の北東部は山岳地帯なのです。攻めにくいです。
  では朝鮮半島南部などに平地(一番南の地域なんかは平野で、今も大穀倉地帯です)があるので、船で直接そちらへ上陸したらよい。でも船で行って上陸して戦うのはなかなか大変です。日本も海に囲まれた島国なので本当に助かって来ました。
  でも、百済の支配層である百済王家は歴史書によると中国東北部から南下して領土を獲得して最初の国を建てたということになっていますし、その気になれば滅ぼしたあと完全に中国の国土にしてしまうことも出来るでしょう。
  また、1636年清を宗主国と認めず、明への忠誠を誓い続けている李氏朝鮮を服属させるために清が軍を送った時(丙子胡乱)は、瀋陽から漢城(現ソウル)の王宮まで2週間で来ています。
  このとき朝鮮王は王宮を逃げ出しますが負けて、王自ら地面にひれ伏して降伏の儀式を行ないました。この時も中国は朝鮮を自国の領土として直接統治することをしませんでした。ま、清が降伏条件として朝鮮に突きつけ認めさせた内容はかなり清に有利です。「丙子胡乱」でお調べになると出てくると思います。勝ったのだから当たり前と言えば当たり前ですが。あんまり東の国にかかわっていて西の方が危なくなっては困る、と思ったか?清がまだ出来て間もない国でしたから。
・ 軍隊は馬を連れて武器をはじめたくさんの物資と共に進んで行かなければなりませんが、朝鮮にはまともな道が無かったようです。秀吉軍にやられた李朝の王様が明に助けを求めて明が朝鮮に援軍を送りましたが、明の将が「道らしい道が朝鮮には無い」「けものみちみたいな道しか無い。なんでこんなけもの道を我ら大明国の軍隊が進まねばならぬのだ!」と憤慨しています。
  まともな道が李朝末まで無かったことは、李朝末に朝鮮を旅した欧米人も著わしています。六曹通りという王宮の前の大通り(今のソウル中心部の世宗路という通り)だけはとんでもなく大きい道だが、他はどこも恐ろしく細くて汚い道しか無い、と書いています。
  幹線道路の整備が行なわれなかったことが、かえって攻めにくかった一因になったかもしれません。
・ 元(げん)は高麗を30年間攻め続け、ようやく降伏させました。降伏させるだけでも相当てこずったわけです。直接統治する労力を注ぐよりも、臣下として取り込んで、高麗王は元の皇女と結婚させ親戚にさせ、反抗しないように監視する官庁を設置しそこに元の官僚陣を送り込み、朝貢品をたくさん献上するようにさせるほうが楽だと思ったのでは?
  (ちなみに~の話ですが、高麗と李氏朝鮮では朝貢品として女性を(「貢女」という)毎年2000~3000人中国へ送りました。特に高麗では貢女選抜のために結婚都監、寡婦処女推考別監という官庁まで作りました。)(送り込まれた元の官僚の中には、そのまま高麗で子孫を残し一生を送った人もいます。)
・ 軍事的には前記のように、隋と戦って何度も追い払ったり、元との戦いに30年間ふんばったり、けっこう強かったようです。しかし李朝末の軍事力はまことに弱々しいものでした。日本が進出する以前に既に国家経済が破綻に近く、日本が進出して行った頃には王宮を守る兵士に払う禄も無い程でした。(当然のことながら、王宮を守る兵士が反乱を起こしました。)
・ 李氏朝鮮末には朝鮮国内に王朝を倒して理想国家を作ろうという大反乱(甲午農民反乱)も起き、鎮圧出来なかった李氏朝鮮王(高宗)からの要請で清が軍隊を派遣します(清の北洋艦隊は仁川に入港します)。そして清はこの期にがぜんと朝鮮の政治に積極的に介入し出します。清は欧米列強に領土を侵食されている最中でしたから朝鮮半島を、ここまで取るんじゃないぞっと言いたかったのかもしれません。
  ですのでその後「中華人民共和国朝鮮自治州」になってた可能性はあったと思います。日本が介入しなくても、ロシアがさまざまな工作をしつつ軍隊も駐屯させていましたので、ロシアと中国が衝突していたでしょう。その結果次第で「中華人民・・・・州」も有り得たでしょう。でも朝鮮に乗り込んでいた袁世凱の評判が朝鮮では悪かったので、さぁ直接統治はどうだったでしょう。先人たちの知恵(?)に習って属国扱いのままだったかもしれません。

この回答への補足

ありがとうございます。これはかなり説得的かも知れません。
ちょっと調べて考えてみます。

補足日時:2010/03/04 17:40
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高句麗以前と李氏朝鮮の民族は違うので、同一には扱えませんので、


この質問での朝鮮=李氏朝鮮としてお答えします。

李氏朝鮮は建国当時から、明国に柵封されていましたが、実質属国(奴隷)でした。その地位は、柵封諸国の中でも、最低ランク(琉球以下)でした
李氏朝鮮が形式上でも独立できていたのは、侵略して統治のコストを払い続けてまで、領土とする程の価値はなく、属国として搾り取る方が効率が良かったからです。それ程に遅れた貧しい国だったということです。
朝鮮通信使の紀行文でも、大阪・名古屋・京都などの、日本の都市の立派さや、住民の身なりの良さを見て、ソウルの貧しさを嘆いています。


他にも、朝鮮が属国であったことは、
日清戦争時の清は宣戦布告の文書において、

「朝鮮は我が大清国の属藩として二百余年、貢を歳に修めていることは国の内外で知るところである。」

と帰してあることからもわかりますし、李氏朝鮮最古の国旗には、「大清国属」と記してあります。
更にその後、講和条約で、日本が清国に朝鮮の「独立」を認めさせています。そして国名は大韓帝国になりました。(略せば同じ韓国ですが、大韓民国ではありません。)

日露戦争は、朝鮮の愚さに諸外国が巻き込まれた戦争です。
韓国は、その属国の歴史から、常に強い者の顔色を伺い、強い方について、その威を借りようとする性質が染み付いてしまい、自主自立の精神はありませんでした。
その為、独立後も自立できず、日本が三国干渉で弱みを見せれば、ロシアを引き込んで、親日派と泥沼の政争を繰り広げ、国王がロシア大使館に逃げ込んで、そこ政治を行うなど、独立国家としては考えられないような、恥辱的な事態も起こっています。
日露戦争後も、この振る舞いは直らず、保護国の身でハーグ密使事件を起こし、伊藤博文を激怒させています。

以上の経緯から、韓国内でも自力で独立を維持するのは不可能として、日本との併合が考えられ、支持も得られていました。
日本でも同様の意見が出てましたが、意見は賛否にわかれていました。
安全保障上は、併合が一番でしたが、韓国はそれを躊躇わせるほどに貧しかったからです。
当時朝鮮を訪れた欧米人も、その貧しさと不潔さに驚嘆しています。

しかし、伊藤博文がテロで暗殺されたのを機会に、日本はこれ以上放置できずに併合に踏み切ります。
「朝鮮半島はなぜ一応の独立を保てたか?」の回答画像5
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これは良い質問ですね。



日露戦争前夜。
大韓民国の一部は大きくロシア寄りになり、日本の大陸進出の足場が揺らぎ始めたのです。

日本は三国干渉の結果、遼東半島を返却。
台湾島と澎湖諸島だけとなります。

大韓民国は日本寄りになると確信していましたが、
三国干渉の結果、ロシア寄りの政権が樹立してしまいます。

日露戦争と韓国併合は時間の問題でした。
朝鮮を巧く使おうと言う思想から、取られる前に取れに変わります。

こう言った植民地主義、帝国主義以外は思いの他強い国家であったようです。

延べ数回に渡る隋の大軍隊を撃破し、隋滅亡の原因を作ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5% …

日本も白村江の戦いでは大敗北しました。
蝦夷と朝鮮との連携を恐れた天皇は、大規模な蝦夷地征伐を行います。

また、高麗茶碗などの技術は日本より優れ、朝鮮征伐で連行した技術者から製法を学びます。

江戸時代は、朝鮮通信使が来るとお祭り騒ぎで極めて友好的でした。
ただ、朝鮮征伐以降、
日本と中国との関係は完全に修復されておらず民間貿易を行います。

こう言った大国の狭間で
時に巧く、時に強く、時に友好的に振舞っていましたが、

近代化に乗り遅れ、時代の波に飲まれた感じがします。

この回答への補足

ありがとうございます。
つまり、朝鮮半島は、大国に振り回されることが多いけれども、朝鮮半島は自律して中国の侵略を食い止めるだけの、最低限の(軍事的・経済的)力は備えていたという事でしょうか。そうすると、中国周辺の他民族(例えば雲南など)はそういう力がなかったということになりそうですね。たしかに、何らかの中央集権的な政府のようなものを作っていた民族はそれほど多くないようですね。

補足日時:2010/03/03 21:34
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地理的に半島だから。



近代以前においては軍事行動とは徒歩による移動とその兵の食料の確保が最大の課題となります。
徒歩による移動と関係ない戦略をとれたモンゴルだからあれだけの領土を占領できましたが、そうでない場合、移動路と食料の確保ができるかどうかと言うのが決定的な要因になります。
秦の始皇帝が統一後何をやったかというと道路の整備です。
隋の煬帝が統一後何をやったかというと大運河の整備です。

日本史で言えば、承久の変では、三路に別れて進軍しています。三路に分かれないと京に大軍を持っていけないからです。

どんなに大軍を準備出来ても、半島の付け根に隘路があっては、そこで守られてば進軍不可能になります。

ほんの最近です、前線で一気に侵攻するようになったのは。
ナポレオンは一本道。ヒトラーは前線。
日本軍の中国戦線でも、まだ前線を一斉に・・・という攻撃はできていません。

この回答への補足

ありがとうございます。半島という地理的な要素は大きいかと私も想像しました。山東半島やリャオトン半島から船で侵攻できる気もしますが、確かに、船を使ったの戦争で中華帝国が成功したことは歴史上それほどないのかも知れません。ということは、この見解では、中華帝国としては半島へ勢力を伸ばしたいのが本音だが、地理的要員のせいで難しいので、放置されたということですね。

補足日時:2010/03/03 21:29
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いやそもそも、長安洛陽南京といった首都から見ると、十分遠いかと思いますけど。


しかも北方異民族と北で接するだけに、万里の長城を北朝鮮まで伸ばしても、防衛経費がかさむだけでおいしいことないし。

この回答への補足

ありがとうございます。
確かに、首都が南部にあったときはそうですが、清代などは北京に政府がありました。満州地域は、以前は女真族などのツングース系が多数派でしたが、(半島よりも中心地から遠い遠いにもかかわらず)清朝後期には、満州地域全体が漢化されました。(もちろん、満州族がそこからきて王朝を作ったという経緯は関係あるでしょうが。)清朝は、中国の数ある王朝の中でも、軍事的拡張に熱心なほうとされ、現在の新疆ウイグル自治州などの西部地域にまで版図を拡大しました。朝鮮半島は比較的近いにもかかわらず、なぜ放置されたのでしょうか?

補足日時:2010/03/03 21:23
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 言葉でしょう。

書き言葉ではなくて、話し言葉です。

 書く方は、日本もそうでしたが、古典中国語を書くことが、日本でも朝鮮半島でも、公式の言語であり、男性が書く時は期待される言葉でした。日本では、漢字文学に対する女性が書いた仮名文学で、日本語が書いた形で残りましたが、そのような例は少ないにしても、朝鮮半島独自の話し言葉が、厳として存在したことは事実です。

 もちろん歴史を遡れば、朝鮮半島に二つ以上の言語が共存した時があります。高句麗系、沃沮語、さんずいに歳と書いた言語、韓系の新羅語、百済語、など、群語割拠の時代があります。

 「一応の」独立には、その前提として朝鮮半島の統一が必要であり、その下敷きに必要だったのは、新羅語を話す集団による、半島制覇が必要だった訳です。これには中国の外的な援助、具体的には、唐と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を、白村江の河口で、徹底的に壊滅させた、いわゆる「白村江の戦い」あるいは「白村江の大敗」(663年8月28日)があります。

 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%99%BD%E6%9D%91 …

 ですから、こうして統一国家の基盤が出来、新羅語が、朝鮮半島の唯一の言語として君臨した、これが一応の独立の始まりでしょう。政治的には大きく異なる北朝鮮と韓国を結びつけているのも、共通の言語だと思います。

この回答への補足

ありがとうございます。
たしかに、言葉はアイデンティティー形成において極めて大きな役割を果たすと思います。しかし、中国内の少数民族や周辺の民族たちも、全て独自の言葉を持っているようですので、独自の言葉の存在は、朝鮮半島特有の事情ではないようにも思われますが、いかがでしょうか。

補足日時:2010/03/03 21:20
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