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“死”ということは、どういうことだと思いますか。

私は、“まったく無になること”だと思ってます。


でも、そう考えると、
“死ぬこと”って、すごくもったいないことですよね。

今までつちかってきた、全てが
“無”になるんですよ?

すごくもったいないことだと思います。

急に命が惜しくなってきました。
そう考えると、
自殺も思いとどまれそうな気がします。

みなさん、私の考え、
どうですか?

A 回答 (16件中1~10件)

あなたのおっしゃるとおり、死ぬことは無になることだと思います。



実は今月、兄が急死しました。
今でも全く信じられません。

実家に帰ったらただそこに兄が横たわっていました。
触ると冷たくなっていました。
しかしその冷たさは既に、ドライアイスの冷たさでした。
そこにあるのは、兄ではなく、ただ肉体が残っているだけでした。
自分が一体なにを見ているのか全く理解できませんでした。

大きな兄が、たくさんの人に抱えられ棺に入ったときも、命を感じませんでした。
命のないずっしりとした重み。

そして火葬され、灰になった兄。もう形として存在しない。
写真でしか思い出すことができない人。
小さな骨壷に入ってしまい、蓋を閉めたら、葬式は終わり、親族は帰る。

兄がいない世界は、それでも流れ続ける無情さ。
でも、
生きる私たちは悲しむことができる。生きているから。

今まで運よく、よく生きてこれたなあと、自分の命の不思議さを感じた出来事でした。

どんなことがあっても、生きているだけで素晴らしい。
ほんとにそのとおりです。

死んだら何もないのです。
何も持ってゆけないし、泣くことも苦しむこともできない。

いつも、生きることを諦めてはいけないと思います。
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宗教勉強中です。



死んだら終わり。
今はそうだと思っています。

死について知りたいなら手塚治虫のブッダという漫画をごらんになっては?
生きとし生けるものが繋がってるという説に繋がります。
私も明らかではないですがそうじゃないかと思っていますがまだ確定できていません。
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自殺をお考えなんですか?


思いとどまれそうなら良い考えじゃないですか?

自殺の善し悪しを言っているのではなくて、
確実に誰かが悲しむか迷惑しますからね。

悲しんでくれる人なんか一人もいないような、
そんな人もいるのかも知れないけれど、
少なくとも誰か最低一人は迷惑しますね。

いい迷惑だ、って気分悪い思いは誰でもする。

そんなの気にしないよ、とか、
ぜんぜん構わないね、っていう人は、
倫理的にはよろしくない、と思うけど、

なんかうまく説明出来ないけど、
パワーを感じますね。

それが、もったいない。

これだけ人の迷惑を顧みない世の中にあって、
他人の顔色を伺い言われることにビクビクして、
視線を気にして神経すり減らしストレスを溜め込み、
あげくはヘルス通いの人がどんなに多いことか。

ああ、私もヘルスで癒されたくなってきた。
つかの間の無の境地を求めて。
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それを哲学としてもつと


「原因の結果はでない」
が肯定されてしまいますね。

死んでしまえば
いくら悪い事をしても結果はでない。(悪行への逃げ道)
いくら善い事をしても結果はでない。(無気力に陥る危険性)

苦しみがなくなるのだからと
自殺も肯定されてしまいます
殺人も肯定されてしまいます

むしろいいことと捉える輩も出てくるでしょう。

死ねば無になる、苦しみがなくなるという考え方にはこのような危険性があるように感じます。


これらの幸福を壊す穴を塞ぐか、塞げないならほかの考え方を探す必要がありそうです。

生きるとはなんなのか
幸福幸せとは

を考えると何か言い考えが浮かぶかもしれません。

個人的にはパーリ語の仏典はお勧めです。
スマナサーラ長老の書籍はお勧めです。


何か参考になれば幸いです。
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私の知人は、肉体から魂が離脱して、眠っている自身の肉体を眺めおろした後、別の部屋へ移動した経験を話してくれました。


この他にも、このような実体験話は多大にあります。
つまり、死んでも肉体から霊魂が抜け出して存在し続ける、ということです。
そして、魂とは主として心そのものですから、主として心の認識に応じた世界へ行くことになるわけです。
死んだら無になると思っていたのに、死んでも意識がある、ということが理解できずに迷う事例も相当あるそうです。
また、人生を通じて善なる心に傾いていれば善なる世界へ行きますが、その逆もあるわけです。(懺悔等を通して天国へ行くことは可能ではあります。)
自殺も(大変な状況であっただろうことは推測はできますが)基本的には責任放棄的な面や苦しい心情のまま、という点等からみても、通常は大変な状態でしょう。(救いも全く無いとは言いませんが)
以上のような霊的人生観を知っているかいないかだけでも、相当な違いがあることだけはご理解頂けることを切に望みます。
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本人にとっては、無になること、で間違いないでしょう。

本音では、誰だって理屈ぬきに、生きていたいはずですよ。しかし、人間は生きていますから、時の苦しみに負けてしまうこともあります。死ぬことは大変でもありますけど、簡単でもあります。
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創価学会の者です。



人間の生命は永遠です。死ねばすべてが無に帰するというものではありません。そういう考えは「断見」といいます。死ねばその姿は目には見えなくなる。だから無に帰するように見えるが、生命そのものは厳然と継続し続けているのです。

死後の生命は、大宇宙の生命に溶け込みます。そして、何らかの縁があれば、再び生きた姿、目に見える姿となってこの世に現れる。これを永遠に繰り返す。これが仏法の生死観です。

ともあれ、いくら命を惜んだところで、死を恐れたところで、死は誰にでも平等に訪れます。回避はできません。であるならば、どうすれば幸福な生死の流転を続けることができるか、それを追求するしかありません。

それには、宗教哲学が欠かせません。この宇宙の万物を運行させている根源の力を自分へと引き出し、それにより幸福な生死の繰り返しを続けることができる。生死の苦悩を解決できる。そういう哲学です。(特定の宗教の宣伝がましく恐縮ですが、それは日蓮仏法です)

この哲学さえあれば、死は徒に恐れたり、忌み嫌ったりするものではなく、次の生への荘厳な出発という、積極的な意義を見い出すことができるのです。
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死は避けられないものです。


誰にも必ず訪れる時がきます。
避けられなければ受け入れるしかありません。

自分の死が自分にとってどのようなものか、ではなく
自分と近い関わりのある人にとって、どのようなものか・・・と考えるようになってきてしまいました。
年のせいですね。
身辺の整理をつけて、きれいに他界できたら幸せと思います。
後始末を先に考えて、自分の事はその後でいいように思います。

自分が無になったらなったでいいではないですか。
無になろうと、なるまいと
死んでからの事は、死んでからでいいんじゃないですか
どうしても分からない事は分からないと諦めるしかないでしょう。

貴重な一日を大切に生きてゆく事です。
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 死について考えることはあるのでしょうが 質疑応答で話題にするという感覚は分かりません。



 死んでいる人たちにその話は任せておけばよいのではないでしょうか?
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 孔子のことばと伝えられる論語を現代の私たちが解釈して孔子が伝えようとした内容になるかどうか分りませんが、質問者と同様の質問を弟子がしたとき、“未だ生をしらず、いずくんぞ死をしらんや”だったかな、答えました。


 しかし孔子の出自と長い遍歴では巫祝・巫覡を基盤としていますね。孔子が不可視のことやこの死について関心がなかったわけでありませんね。
 しかし憤を発して食を忘れ、老いの到らんとするを知らずと答えてやれなんていう科白は、生の追求もしないものが何で死などを云々するんか、という一蹴ですね。
 しかし釈迦などのヒンドゥは輪廻転生をいうばかりか、全ての記録・記憶はブラフマの中にある、というのです。
 この認識を孔子も老子もなくて、思索や探求はできないですね。まともに口にするか、表現するかは別に。無論聖書にもいくつも出てきますね。
 西洋の近代知的論理の哲学は、取り上げていないようですね。 
 そういう場面からは回答が難しいのでしょうね。

 私はこのご質問をされる質問者がご自分という存在の開始と終了をどう認識できているのか、一応指摘したいと存じます。
 まぁどこから来てどこに行くのかなんていい方をする人もいるようですが、そんな問題ではないのですね。
 質問はもっと自己の探求が欲しいということですよね。
 オカルトでは無論解決はできませんし、西洋哲学や科学では対象にもしてくれないでしょうね。信仰なんてなんの薬にもなりませんね。
 この問題の追求ではありませんが、私はハタのヨガから、今Self-Realization Fellowshipというラージャのヨガにきて、40年少しです。
 ハタは20代半ばから15年くらいでしたが、熱心にやったらラージャにきてしまった。
 なくなるものは最初からない。存在するものは消滅しない。
 実体がないものは存在ではない。肉体存在は存在ではない。映像、影だということです。
 貴方や存在の本質は消滅しない。培ったものもそれが本質存在に基盤があるなら消滅はしない。
 本質存在に基盤がなく、強いインパクトの者はその人に強制的力として付き纏う。
 というような知認で自分を強制する非自己を脱ぐ、本質で生きるということです。
 
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