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『豊臣秀吉は天下統一を果たした。
その後秀吉の野心は尽きることなく、世界征服をもくろみ、まず
朝鮮に兵を送った。』

誇大妄想にとりつかれた秀吉は、発狂状態だったと言われています。
しかし、歴史研究者によると、秀吉が海外に兵を送ったの目的は、
増やしすぎた兵たちの仕事を作るため、そして褒賞として与える土地が
日本にはもう無いため、やむなく海外にそれを求めたという説があります。

なるほど。そう考えると納得のいく理屈です。
しかし、ここでひとつ疑問があります。
「秀吉の死後、急に朝鮮から兵を撤退したのは何故でしょう?」

秀吉が死んでしまえば、「もうこんな無茶な命令を聞く必要ない」と
側近が判断したのであれば、やはり朝鮮出兵は秀吉の独断による部分が
大きいと言えるでしょう。
朝鮮出兵に対して、秀吉の頭の中で合理的な目的があったにせよ、それは
周囲に理解しえないものだとすれば、やはり秀吉個人の誇大妄想と言えます。

秀吉死後、その家臣たちが朝鮮出兵を諦めたのは何故?
秀吉は狂っていたのでしょうか?

A 回答 (10件)

私は、皆様と少し意見が違います。



現在の私たちが、周囲の武将が反対しているにも関わらず、秀吉がとち狂ったように朝鮮への出兵を決行したと思ってしまうのは、その朝鮮出兵の事が書かれた古文書などの影響による者ですが、それらの文献はほとんど江戸時代に書かれたものです。
つまり、敗戦した後に書かれているのです。
失敗したプロジェクトに対して、「僕ははじめっから成功しないと思ってたんだよね」なんて、あとになって言うのは、今の企業にだってよくある事です。
失敗したプロジェクトの全責任は、それを推進したトップにあるものですし、まして、その先代に代わってトップとなった人なら、先代の失敗を、これでもか!と、悪く書くに決まってますからね。
そして、「自分は、うまくいきっこないと、はなから思ってた」とも付け加えるんです。
おそらく、当時は、秀吉も他の武将も勝つと思って戦いに挑んでます。
当時は、四国にも九州にも橋は架かってませんから、秀吉は、そのどちらにも渡海して平定していますし、当時は現在のように、日本が一つの国という認識はなく(この感覚は江戸時代でもそうです)、独立国家の集合体のような形でしたから、四国や九州の延長線上に、大陸があった可能性も否定できません。
さらに、四国の長宗我部に対しても、九州の島津に対しても、根絶やしにしてぶっ潰すという方法ではなく、その土地のトップを傘下に加えるという方法で平定しています。
それが、秀吉のやり方です。
その方法なら、相手が広大な土地を持つ大国でも、可能性はあったかも知れません。
秀吉は、この朝鮮出兵の時、揃って京都を出陣する隊列の一番先頭を前田利家隊に進ませます。
その次は徳川家康隊、3番目が伊達政宗隊・・・これらの隊列が京都の群衆に見送られて出陣しますが、これは、ひとえに国内に対して、前田家や徳川家などの強大ば家柄の武将が、秀吉の傘下に入っている事を強調するためですが、逆に、前田利家や徳川家康を、実際には渡海させる事はありませんでした。
実際に、朝鮮半島で先頭になって戦ったのは、羽柴秀勝や小早川秀秋・宇喜多秀家などの親族に近い武将や、加藤清正や福島正則と言った子飼の家臣です。
なぜなら、もし勝ったら恩賞を与えなくてはいけないからです。
勝利のあかつき、親族が子飼の武将に大量の恩賞が与えられ、利家や家康のような、豊臣家をおびやかすような者には、一文たりとも恩賞を与えなくてすむからだと思います。
なお出兵理由については、質問者さんが書かれている、すでに国内には功績があっても与えられる領地がなくなってきていた事に加え、大航海時代に突入して、ヨーロッパからのアジア侵略が現実的となってきていたからだと思います。
そして、最後に
「秀吉の死後、その家臣たちが朝鮮出兵を諦めたのは何故?」
これは、天下人のイスが空いた事で、次に誰がすわるのかをモメなければならなかったからです。
外国に出兵する時に、最も必要な事は、国内の実権を自分が握っていなけらばならない事なわけで、それもないのに、外国で戦っても意味がありません。
秀吉が亡くなったら、その後継者は秀頼という事になりますが、ご存知のように、秀頼は幼いですから、たとえ秀頼を看板にすえていても、実権を握るのは、そのサポートをする有力武将。
そのイス取りゲームに一刻も早く参加しなければならないので、家臣たちはいっせいに帰国したのではないでしょうか。
というふうに想像しています。
あくまで私見ですが、
なので、「秀吉は狂っていたのでしょうか?」の質問には、個人的には「NO」と答えさせていただきます。
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質問者さまの書かれている説が正しいと思いますよ。


また、秀吉も歳でかつての冴えが無くなっていたとも思います。老害というやつですね。長生きした歴史上の英雄に多く見られる現象です。

当時の秀吉は10万を超える兵士を動員できる力を持っていました。同時代に比肩出来るほどの動員力を持っていたのは、オスマン朝のスレイマン大帝、ムガール朝のアクバル大帝のみであったと言われます。これらの三者は互いに離れているので競合することは無かったでしょう。西欧も後の勢いには至っていません。これらに比べて、秀吉の兵士は当時の最新兵器である火縄銃を装備している。判断力が鈍り誇大妄想狂の老人としては、使いたくて仕方の無いコマだったでしょうね。

でも、充分な戦略が無いから意外に苦戦して撤退。
結果、明や朝鮮の国力を疲弊させただけ。誰も得しませんでした。
若かりし頃の秀吉であれば、朝鮮と遼東半島あたりはおろか、華北平原あたりまでは征服できたかもしれません。しかし、「たられば」の話ですね。
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No8さん


一部の加藤福島派などは豊臣政権下内での派閥争い、妬みを含んだ光成憎しの心情で
慶長の役の件では率先して賛同していたのかもしれませんね。対抗意識を持った状態と言いますか。
ただどうしても慶長の時期に関しては、ほとんどの大名は出兵には実は反対だったという
気がしてならないのです。
当時の各諸将の本当の心情や実情を綴った資料などはあまり耳にした事がないので
あくまで個人的な想像の範囲内の範疇ですが。

ただ秀吉の晩年のイメージを含めて、著名な武将って大体が固定化された
アナログ的な印象のみで語られる事が多いのは確かですよね。
特に昨今のゲーム、アニメの影響で、若い人にその傾向がより強い様に思えます。

個人的に関が原時の光成と吉継の友情物語も、後世に作られた美談の香りが漂います。
吉継自身は秀吉死後、自ら家康派への接近を図っていますし
佐和山城会談後の西軍への電撃的寝返りも、実は十分精査した上で
光成側大いに勝算有りと、冷静に分析した結果なのではないでしょうか。
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No4です。



確かに、No6さんがおっしゃるように、「現状認識を完全に見誤った秀吉の大いなる失策だった」と思いますし、小西行長らが反対していたのも確かだと思います。
ただ、それが、秀吉1人の暴走(発狂?)で、他の武将も皆そうだったかというのには、少しひっかかる気がするのです。

小西行長に限らず、当時の多くのキリシタン大名は、キリスト教に帰依しているというよりは、外国との交易のためにキリシタンになった可能性が非常に高いと思われます。
また、国書を改ざんしたとされる宗義智は行長の娘婿でもありますし、その宗氏は平知盛の子孫とされ戦国時代よりずっと前から対馬を統治し、大陸との交易で利益を得ていたはずです。
出兵に反対していた行長・義智、さらに博多の商人たちは、皆、交易で利益を得ている人たちですから、戦闘状態が長引く事は死活問題だったのではないでしょうか?

そこには、秀吉の思惑とは別の、彼ら個人の損得が絡んでいたような気がしてならないのです。
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明は日本との戦争が原因で経済破綻を起こし、滅亡します。


明史の通りであったと思われます。
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No4さん


なるほど、その意見は一理あると思います。

文禄の役開始時には確かに秀吉だけでなく
各諸将も野心満々のイケイケ状態だったのでしょう。
しかし戦線は日本側としては予想外の完全な膠着状態と化してしまい
いつしか渡海武将達に厭戦気分が蔓延してきた事は間違いないでしょう。

で、ここからが重要なのですが
小西行長らのグループが、秀吉の許可など無く勝手に明側との間に和平交渉を
推進していきます。それは明側に渡す偽りの降服文書まで作成する程のレベルです。
そしてこの件は、兵站奉行として渡海した石田光成も当然絡んでいた事でしょう。

治世を揺るがしかねない大事を、秀吉知る処無く進められたこの事実。
結局これが秀吉がもう気が狂っていたとか、既に呆けて耄碌していたんじゃないか
とか一部で囁かれる理由の一つになっているのではないかと思います。

調停派の努力虚しく和平交渉は失敗に終わり、秀吉は再攻撃の命を諸将に下す訳ですが
この時はもうかなりの大名達は、野心溢れる気迫など党の昔に無くしていて
嫌々渡海していったのではないかと、私は想像する訳です。

つまり文禄の役は、はっきり言って蓋を開けて見なければ分らない状態だったから
No4さんのおっしゃる通り。しかし慶長の役に関しては、例え虚偽の報告を受け続けた事を
差し引いたとしても、現状認識を完全に見誤った秀吉の大いなる失策だったのではと考える訳です。
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おおざっぱな見方をすれば


新しい強力な統一国家が完成すると
その余剰エネルギーみたいなものが
外征に向くという
世界史的な法則があるのではないでしょうか。
アレキサンダー、ナポレオン、ジンギスカン
例は、たくさんあります。

淀君との第一子の鶴松の死から
秀吉がパラノイアになり
正常な判断力を失ったようですが
まあ、こういうものはきっかけですな。
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発狂というのは合っています。


どういう状態かと言えば、秀吉社長が後部座席で、秀長が運転席で、秀吉が命じた行き先へ連れて行くようなもの。
秀長は事前にナビゲーションしルートを調べ上げ、何時にどこへ着きどこでご飯を食べるのか?などをこなしていた。
秀吉が「◎◎へ行きたいなw」と言えば確実にそこへ連れて行ってくれたのです。

そんな運転手が居なくなるのです。
後部座席であぐらをかいて命令してもどこにもいけません。
運転免許も無い秀吉が運転を始めたら事故のオンパレードになりましたとさ。
そんな暴走車に死ぬまで付き合いたくないので皆は帰ってしまいました。
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天下統一の大事業を成し遂げた秀吉ですが、実は補佐役として裏方に徹していた


弟の秀長の功績というのがかなりの比率を占めていると思います。
勿論秀吉に対する諫言も躊躇無く行っていた事でしょう。
秀長の病疫以降、秀吉の治世は明らかに迷走し始めます。
利休、秀次の相次ぐ切腹、国力を疲弊させるだけの結果に終わった朝鮮出兵。
果たして本当に発狂していたのかどうかは定かではありませんが
諫言する家臣が誰もいない中での、独りよがりの暴走を始めた感は否めません。
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封建的な武家社会では、主人の命令は絶対であり、それに家臣が逆らうことは許されません。

もちろん家臣の諫言により、主人が行いをあらためる例もありますが、秀吉はそもそもそのような諫言をしてくれる経験豊富な家臣に恵まれなかったといえると思います。
現在でも、ワンマンであるがゆえに、自分の経営能力等を過信して、事業に失敗する企業経営者がたびたび見受けられます。天下統一した後の秀吉も、このようなワンマン症候群に陥っていたとも考えられます。
秀吉の朝鮮出兵の本当の目標は、朝鮮ではなく明の国だったということです。一説では、日本は息子の秀頼に譲り、自分は大陸の明を支配するのが目的であったとも。
誇大妄想といえばそれまでですが、日本を統一したことで自信過剰になり、自らの力を過信していたのかもしれません。
ただ、朝鮮での思わぬ抵抗にあい(秀吉は、朝鮮に出兵すれば、朝鮮も自分の見方をして、ともに明国に攻め込んでくれると思っていたらしいです)、大陸出兵は間違いだったことに気づいて、撤退の機会をうかがっていた様子も見られます。撤兵はおそらく秀吉の指示もあったものと思います。
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