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最近、哲学を学び始めたものです。
ある哲学書の文章で、次のようにありました。

「たしかに、日常生活において、(自己)という言葉は、それだけで用いられることは少ない。一見すると、その固い言葉は日常生活に根ざしていないかのように見える。しかし、(自己)という言葉が単独で使用されることは少ないにしても、他の名詞や動詞と結びつけて用いられることは多い。
たとえば、自己批判、自己分析、自己暗示、自己満足、自己卑下などといった多様な表現がしばしば用いられている側面を見れば、すでになんらかの仕方で自己が了解されている。そうした漠然とした了解の仕方を反省して、その背後に隠されているものを明らかにする作業は、安易に否定されるべきではない。自己批判、自己分析といった表現において、自己は、批判の対象、分析の対象、満足、卑下の対象、めざされるべき対象として把握されている。こうした言い方が可能になる背景には、自己が、自己との間で分裂するという現実がある。」

最後の 【自己が、自己との間で分裂するという現実がある。】の部分が分かりにくいです。自己の分裂とはどいううことですか?

A 回答 (12件中1~10件)

心の矛盾とか、対立とか、分裂と言う言葉があります。

又『葛藤』という言葉もありますが、これ等に共通している事があります。それは『二つの考えが在って、その考えが』違っていると言う意味です。

精神疾患というものが在りますが、これに付いても同じことが言えます。二つの意識が在って、その意識の違いを人間は『苦悩』と感じていると言う意味です。

悩みや苦しみに付いても、当てはまります。人間の苦悩や、苦しみとは『心の矛盾』という事です。その意識同士の意識のギャップを『苦しみ』として感じています。従ってそのギャップが大きければ、大きいほど苦悩が深刻と言う事になります。

簡単に説明するならば、自我意識は『精神』を形成するうちの片方、という意味になります。もう片方とは『事実に即して事実を見ている存在』と言う事ですが、分かり難いと思います。

例えば、歩くという事を例にした場合、一人で自由に野原を歩いたとした場合ですが、心は『小鳥の鳴き声や野の花や、木々の美しさの中で』自然を堪能しています。自我意識は『歩く事には』使われていません。では『自分の手足は』誰が働かせていますか?

その反対の例です、大勢の人の前で、慣れないことをしようとする場合です。壇上まで歩いてゆき、話をする場合です。自我意識が歩こうとします、自我意識で話をしようとします。動きは『不自然になり』ぎこちなくなります。

オリンピックなどのメダルを獲得できる場面です。その人の自我意識は何もしていません、只引っ込んでいます。自我意識が引っ込んでいる間は、その人の体は『誰が』働かせていますか?

没我の思想と言うものがあります、『無為自然』というものです。人為ではないもので、人間が働く時に一番人間は自然と働いて、そうしてうまく行く、という思想の事です。東洋の『無の思想と』言う事ですが、この思想はこの自我意識が働かないで『働いている者』を重視すると言う事を説いています。

又キリスト教の究極なもの『神に会って和解せよ』という事も同じ事を説いています。自分自身の中に在るもう一つの意識と和解せよ、という事です。

そのもう一つの意識とは『自我意識』と共に働いている者の事です。その者とは『無意識の意識』の事です。精神疾患であるならばその症状を感じさせている者の事です。高い所に上がった時には『怖い』と思わせている者の事です。人に会った場合には、その人の印象を自我意識に教えている者の事です。

突然の出来事の時には『心臓の速さでも、ホルモンの働きでも、脈拍でも、替える事ができる者』の事です。人間の精神と、心と、体との全体としての全体像が『まだ分かっていないとされている者』の事です。この事が分からなくて、今の精神科医たちも「内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。 」という風に言っているのかと思います。

人間の心が左脳に自我意識という人格。右脳に無意識や潜在意識を統率している意識(人格)が存在しています。その二人の出会いがキリスト教では『神に会って和解する』仏教では『不安の元になっているその元の者に出会って、その不安の正体が分かってその不安が根こそぎ解消される』=『生死の問題が解決する』という事になります。

道に至る(悟りを開く)という事で、全ての障害が解消できます。全てを肯定している者と、自我意識が折り合えなくなっている事が人間の苦悩を醸し出しています。全てを受け入れる事が苦悩を、安楽に替えてくれます。苦悩とは(心の分裂)とは自我意識が『現状を』受入れられないところに有るからです。全てを肯定できた時が人間の天国となります。

人間の自我意識が『受入れられないと思っている事が』地獄を作り出しています。ストレスとは『受入れられないもの』の総称という事が云えます。何事も受入れてゆく所に『ストレスが無い』安楽な境涯というものが出来て来ます。
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 自己の存在ということ、根源、性格を思索してください。


 自己が自己を意識するとはどういうことか。
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素人ですよ


中枢神経系と自律神経系
そんな分離もあるとおもいます
回答実名主義:uzukitou
よろしくおねがいします 
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この回答へのお礼

こちらこそ、よろしくおねがいします。

お礼日時:2010/04/16 23:07

 No.5&7です。

補足をいただきました。

 ◆ ・・・自分とつきあうことが避けられないのも、自己が分裂するからである。】
 ☆ この《自分》を《わたし》と採りましょう。つまり 《つきあう》と言っても それは《わたし自身》です。
 そうすると 《自己》は その《自分=わたし》の一部分として どちらかと言うと へそ曲がりの部分でしょう。
 海にたとえる心としてのわたしが 分裂するわけではないと思います。

 いくらか表現〔だけ〕の問題だという性格のことですが 《分裂》という言葉でとおしているというのも おかしいと考えます。

 もっと言えば もし仮りに《分裂》と呼ばなければならない状態――症状――が現われたとした場合 その場合でも 《わたし》は《わたし》であり このわたしが二人や三人に成って分かれたというものではないでしょう。
 そのように前提として言って初めて 《わたし》の中に天の邪鬼が顔を出すことがあるとか言えるのだと考えます。どうでしょう?

 ◆ 批判の対象、分析の対象
 ☆ としての《自己》は じっさい《わたし》ではなく わたしの思惟や行動なのです。わたしの特定の意志行為が 分析され批判もされるのです。
 感情がふたつに引き裂かれるという場合も それは《自己が分裂する》というよりは わたしの中に二つの気持ちや意志があって いわゆる葛藤が起こっているというところでしょう。

この回答への補足

bragelonneさんの回答を何回も読み返したんですが、そのように前提として言って初めて 《わたし》の中に天の邪鬼が顔を出すことがある・・・の部分から分からなくなってきました。
素人なんで、完全に理解するには時間がかかります。

補足日時:2010/04/16 22:55
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この回答へのお礼

度々、ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/16 23:03

自己の認識がしっかりできていない、という事です。


自分がなぜ存在しているか、どうやって生きているか、
何のために生きるか、についての認識がなされていなければ、
それは他人による評価や世間との比較によってしかなされず、
それらは1つの世界観や価値観に基づいてない場合が多く、
自己矛盾を起こし得ます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
自己の問題には、この問題を考えるように促された人の数だけの考え方があります。
だから、自己の認識は難しいです。

お礼日時:2010/04/16 18:45

 No.5です。

おぎないます。

 その哲学書での引用箇所をめぐる文脈をつまびらかにし得ていませんが もし
 ◆ 【自己が、自己との間で分裂するという現実がある。】
 ☆ というふうに述べて平気でいるとすれば その表現は 阿呆だと思います。
 表現だけですが その《分裂 / 現実》という言葉で通しているとすれば 阿呆だと見たほうがよいと思います。《わたし》にいろんな側面があるからと言って 《自己が 自己との間で分裂するという現実がある》と表現する必要がないからです。

 心は海ですから 海であるのに 表の波風だけを見ていたりその中にだけ閉じこもっていたりすれば その場での風景は あたかも《自己が分裂している》と言いたくなるまでの悩みや苦しみがあるかも知れません。知れませんが それを ふつうの状態だと言う必要もなければ 言うことは間違いでもあるでしょう。

 あの人が好き いや 嫌いといったふうにどちらの気持ちをも持ったからと言って わざわざ分裂していると どうして言わなければならないのでしょう?
 つまり《分裂》という表現と その状態がわざわざ《〔常態としての〕現実》だというところ ここがおかしいと思われます。常態としての現実は 感情がふたつに引き裂かれているとしても そのときにも《わたし》は 全体として ひとつ(一人の存在)です。《自己》が分裂するわけではありません。たとえ二重人格の状態になったとしても 《わたし》はその状態で ひとりの存在です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

>その哲学書での引用箇所をめぐる文脈をつまびらかにし得ていませんが
もし◆ 【自己が、自己との間で分裂するという現実がある。】☆ というふうに述べて平気でいるとすれば その表現は 阿呆だと思います。

その表現をもう少し詳しく書きます。
その哲学書には【自己は、「自己を批判する」、「自己に満足する」という言い方から明らかなように、文法的には「対格」、もしくは「与格」として用いられている。その背後には、自己を批判したり、自己に満足するもうひとつの自己がある。しかし、このようにして、自己と自己との間で分裂が生じるとしても、批判される自己と批判する自己は、それぞれ切り離されて別々に存在するものではない。自己において自己が批判されるのであって、強調すべきは、しばしば、自己において、批判する自己と批判される自己への分裂が避けられないということである。「自分で自分に立ち向かう」「自分と自分との対決」という言い方にも明らかなように、自己は、自己自身と向きあうことなしには生きられないのである。自分とつきあうことが避けられないのも、自己が分裂するからである。】とあります。

補足日時:2010/04/16 17:30
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追伸まで:


一人が好きという考えと、一人が嫌いという考えが同時に浮かびます。
こういう場合も自己の分裂と考えて良いでしょうか?
●いいんですよ。
それこそが自己分裂なんです。自己分裂という表現はあまり良くないですが哲学者の認識表現ですからね。
哲学者の西田先生は、「自己分裂」とはいわず「絶対矛盾的自己同一」などと表現してますね。
あなたの場合だと「一人が好き」「一人が嫌い」というあい矛盾する御自身が同時にいるわけですね。これ「絶対矛盾的自己同一」という表現になりますね。
哲学者は心の不思議をそのように表現したわけです。
宗教家は同じことを「魂の兄弟」といいますね。自身の心には個性の違う自身が複数存在するという意味ですね。
まあ、どちらも何をいいたいかといえば、自己(心)というのは手または手の指のようなもので、手には親指から小指まで含まれますね。親指も小指も指としては独立しているが実際は一つの手の一部である。
小指の自己は一人を望み、親指の自己は一人が嫌い、他の指の自己は違う望みがある。でも全て手(統合としての自己)の一部である。この望みの違いを自己分裂といっているのですね。
心に目を向けると割りと簡単なことでしょ。言葉は難しいですけどね。
参考になればいいですね。
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この回答へのお礼

再びありがとうございます。
理解できました。
心に目を向けると分かりやすいです。

お礼日時:2010/04/16 18:05

 こんにちは。



 《自己》を《わたし》とわたしは言い替えますが この《わたし》が内部で要素や要因に分かれるというのは たとえばもう旧いと思われるのですが 先に掲げるならば
 ○ 自我・超自我・無意識(《あれ Es; id 》ないしリビド)
(ヰキぺ:自我 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91 )
 ☆ の区分です。この区分を使って説明しつつ この区分を破ってしまうというかたちにしたいと考えます。

 わたしがわたしをわたしとして意識して捉えるなら それが《自我》です。けれども自我というのは やはり《わたし das Ich 》と言っているに過ぎません。
 わたしたちは 人間としてその記憶ないし知解あるいは意志行為として まちがいを起こします。そこで
 ○ あやまつなら わたしはある。
 ☆ と言ったひとがいます。間違ったと気づいたとき わたしは 我れに還る。言いかえると わたしがわたしである状態を取り戻す。
 このとき――《あやまつなら》は《あざむかれるなら》という言い方にもなるのですがそのとき―― わたしは その《まちがいや あざむかれ》について考えています。どうして・どこであやまったのか? どうすればよかったのか? 相手との関係ではどうだったか?
 このように考えることをおこないます。つまりそこで 《わたしは考えている》。しかもこのあやまちにおいて考えていることは もうどうしても放っておくことが出来ないことです。あるいはなぜ考えるのかと言っても うたがうことのできないことです。うたがうなら そのうたがっているわたしがいます。
 つまり《わたしは考える。ゆえにわたしはある》となります。
 
 ここで《考えているわたし》が 自我です。強いていえばですが 《〈その考えていること もしくは考えているわたし〉をたとえば疑っているわたし》 これは超自我です。あたかも自我としてのわたしの奥に位置していて たとえば《もう考えなくていいよ》とか《いやいや もっと疑え》とか指示するかのような役割を果たすようです。
 あとは 欲動(リビド)などとしての無意識ですが これははっきりと否定しておいたほうがよいと考えます。言いかえると 意識に上った時点で 意識つまり《わたし〔の欲求〕》として認識すればよいからです。
 その例としては 相手がいるとして その人にそう思ってもいないのに《嫌いだ!》と言ってみたりあるいは逆の言葉を不本意にも(社交辞令としてのごとく)言ってみたりするときのことを考えればよいと思います。意識していなかったこと・自分の気持ちではないこと このような事柄が 或る種の仕方で《わたし》となる場合です。


 これでどうでしょう? 三つに区分されていましたが それらはすべて《わたし》の三つの要素あるいは むしろ《わたし》の意識ないし心の幅の広さを示しているだけのことではないでしょうか? そう言いたいのですが どうでしょう?

 あとやはり《わたし》が内部で区分される事態を いまひとつ挙げます。
 それは わたしの《人間的自然 ないし 自然人とも呼ぶべき人間の要素》がまづあり そのあと《人間の社会的自然とも呼ぶべき文化 ないし 文化人とも呼ぶべき人間の要素》が見られます。後者は おそらく前者の中から取り立てられ磨かれ展開されるもので 前者の人間的自然の上に築かれると言えるかと思います。
 わたしは 前者を《スサノヲ人間語》と呼び 後者を《アマテラス普遍科学語 ないしアマテラス人格語》と呼んでいます。アマテラス語は デカルトの《コギト(我れ考える)》のこと もしくはその成果ですね。 
 これについては アマテラス普遍科学語ないし人格語も それは決して神ではないということを言っておきたいと思います。そしてむしろ スサノヲ人間語――あやまちうる自然人の言葉――を基礎(土壌)としてその中から花を咲かせるものだと言っておきたいと考えます。
 自然と文化 あるいはスサノヲとアマテラス こういう区分も じつは・じつに《わたし》の内部でそれとして区別されうるかと思われます。

 さらに一歩一歩すすんで行ってください。
 
 
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【自己が、自己との間で分裂するという現実がある。

】の部分が分かりにくいです。自己の分裂とはどいううことですか?

自分だと思っている自分に実は複数の自分がいるという意味ですね。
これ訓練すればすぐわかります。
例えば、お昼の時間になるとお腹がすきますね。お腹がすいたので昼ごはんを食べる。というのが日常でしょう。そこでお腹がすいてご飯を食べに行こうとするとき、まさにそのとき立ち止まって「本当に今日は食べる必要があるの?」と自身に問うてみてください。食べようよ。という考えと、今日は軽くてあるいは飛ばしていいんじゃない。という考えが同時または前後に浮かぶかもしれません。それが分裂ですね。
日常気にしないとみな、自分だと思い込んでいるのですが、違う自分がいることに気付きますから。

この回答への補足

私には、矛盾した気持ちを抱くことがあります。
自分が、孤独に苦しんでいるときは、群れに入りたいという気持ちになります。でも、群れに入ると、今度は孤独への憧れの気持ちが出てきます。
一人が好きという考えと、一人が嫌いという考えが同時に浮かびます。
こういう場合も自己の分裂と考えて良いでしょうか?

補足日時:2010/04/16 00:02
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/16 00:14

哲学者はわざわざ難解な表現をするもので、主体としての自己と、客体としての自己という、二つの自己があって、自己は一体ではないと言わんとしているのでしょう。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/16 00:02

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