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日本では、裁判所も検察も警察も法務省も表裏一体となっている面があるから、冤罪が起こりやすく、有罪率が99.8%だかになっているのでしょうか。

司法試験を受かっただけの役人連中が、一般市民を起訴したり、裁いたりする資格があるのでしょうか。

A 回答 (5件)

問題の性質上、具体的な事件名や裁判名、具体的な証言内容や証拠について言及することはできませんので、その点はご理解ください。



日本の裁判における有罪率が異常に高く見えるのは、日本の検察は起訴しても有罪に持ち込める可能性が高くないと判断すれば起訴をしないために過ぎない。よって冤罪の可能性は少ないとよく耳にしますが、これは「日本の政治家は無能だが官僚は優秀だ」という言説と同様に都市伝説だと思います。(要するに検察に都合が良い伝説を流布しているということです。)

それは「日本の司法制度上有罪に出来る可能性が高い」=「有罪」とは限らないからです。
(要するに、この数字は検察が起訴するのは、実際に有罪の被疑者ではなく、有罪にしやすい被疑者[=弱者]であることの証明に過ぎません。)

私は被告・弁護士・検察・判事とは利害関係がない立場で裁判の現場に立ち会う機会がありますが、正直、これでは自分自身がいつ冤罪で逮捕され、有罪にされてしまうかと恐怖を感じています。その理由は、

(1) まず日本は調書主義で、調書にあることが全てです。調書に記載されていないことは、存在しないという前提で全てが進められます。(ある種の「ゲーム」です。)例えば、取り調べ中に100のことを述べたとします。当然、あなたは自分が言ったこと全てを記憶しているわけではありません。確認のために見せられた調書には少なくとも自分が述べていないことは書かれておらず、概ねその通りだと感じれば、あなたは署名捺印してしまうことでしょう。(この場合、署名捺印を拒否する理由も思い至らないはずです。)
実際には、あなたが述べた100のうちの80しか記載されていなかったとします。(でも、あなたが何時間、何日間もの取り調べで自分が言ったことを全てきちんと記憶しているはずはありませんよね?)
これが裁判になると、検察官は「もし被告が本当に無実ならば、逮捕されたときにそのように申し出ているはずだが、逮捕されたときにそのように申し出ていないのは不自然だ。よって被告は真犯人である(あるいは犯意があった)」と主張します。
それに対して「いや、私はそのことを逮捕されたときに言いました」と主張すれば、検察は「調書にはそれが記載されていない。ということは被告はそのようなことは発言しなかった。この期に及んで自分の罪を言い逃れするために被告はこのような嘘を述べている」と主張します。そして判決でも、これを罪を逃れるための嘘であると断定し、被告は犯行を反省していないということから罰を重くする方向に考慮されます。(無実の人は反省のしようがないという可能性は一切考慮されません。このことに関しては後で (3) で述べます。)
(2) 現在は裁判員制度が導入されているため、事前に公判前整理手続で、弁護側と検察側がどれを証拠として提出するかが裁判官の面前で決められます。現在の裁判は数日で結審する必要があるため、公判のときに弁護側ができる弁論の時間は恐ろしく限られています。(「嘘!」と言いたくなるほど信じられない短い時間です。)すでに公判前整理手続で「台本」ができていますから、それに従って予定調和で裁判は進行します。(裁判員は何も知らない観客に過ぎません。)テレビドラマのように新証拠や新証人が登場することも、検察と弁護士の間で丁々発止の激論がやりとりされることもありえません。
公判の時間が限られているため、公判で提出される証拠の数は限定されます。例えば、逮捕された直後に警察で採られた調書に記載されている事実であっても、公判でそれが証拠として採用されていなければ、被告はそのようなことは述べていなかったとされます。(実際には公判前整理手続で証拠採用に関してその調書の内容は裁判官も検察官も把握しているはずなのですが!)そして、これまた判決では被告が公判で嘘を述べたとして罪を重くする方向で判断されます。
(3) 日本で冤罪率が非常に高い理由は「疑わしきは罰せず」という「推定無罪」が司法の大原則のはずなのにも関らず、日本の裁判官は同じ公務員であり、司法エリートである検察官の起訴状を全面的に信頼し、「推定有罪」の心証で裁判に臨んでいます。最初から有罪だという予断で裁判に臨んでいますから、第三者が聴けば、ごく納得できる説明でも、全てが嘘という心証を抱いてしまうわけです。
(4) 裁判員は公判当日に選任されるため、公判前整理手続にはタッチしてませんし、その事件について、その公判の直前に(一方的に裁判所側からのみ)説明を受けただけで裁判に臨みます(この段階で素人の裁判員には被告が真犯人だという予断ができているはずです。もちろん、裁判所は被告が無実である可能性に留意するように一応注意は喚起しますが、それは形だけです)。そして公判が始まって初めて被告を目にすることになります。
私は裁判員が鋭く検察の矛盾を突く質問をしている場にも遭遇し、判決にも期待しましたが、出てきた判決は予定調和の、有罪として相場の懲役刑でした。私たちは見聞できませんが、恐らく密室での評議では3人のプロの裁判官(=「悪は罰しなければいけない」という正義感と信念を持っている。同時に検察も信頼しており、被告は有罪だという確信も最初から持っている)は必死で素人の(=簡単に狡猾な犯罪者の演技に騙されてしまうお人よしたち)裁判員たちが“騙されないように”説得しているのだと思います。また、判決は多数決のために、仮に素人の裁判員6名の内4名が無罪を主張しても多数決では有罪になってしまいますし、裁判員には守秘義務があるため、実は意見が分かれた裁判であったという事実は都合よく闇に葬られる仕組みになっています。さらに、被告を無罪にするためには、3名から構成される(同僚同士の)職業裁判官の内少なくとも1名が(仲間を裏切って)無罪を支持しなければなりません。しかし、プロの裁判官が同僚や上司を裏切ることは心理的にも至難の業でしょう。(また組織社会の日本では当然、将来の出世にも影響するはずです。)

取材に来ていたマスコミの記者たちも裁判を傍聴して、被告が有罪であるということは全く疑っていないようでした。この国で、冤罪で逮捕されれば、後はベルトコンベアー方式で粛々と凶悪犯罪人として有罪になるしかないのだなと思うと、空恐ろしくなります。

ちなみに、私が見聞した裁判の内、少なくとも6割の事例においては、被告の顔を見ただけで、正直で無実の人であると確信できましたし、被告の弁明も 100 %「そりゃそうだよな」と納得できるものでしたが、検察も裁判官も「そのような説明は不自然であり、ありえず、嘘をついていることはあきらかである」と主張・判断していました。一般市民の感覚からは、明らかに検察官や裁判官の感覚の方がおかしい。(仮に被告が真犯人であったとしても、少なくともその説明だけは納得できるものに感じます。説明としては不自然ではない。)

日本に駐留する米国軍人が犯罪を犯しても日本の官憲には逮捕されないということは「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」に規定されており、これを「日本が米国の植民地のようではないか」と怒りを感じる人が多いのですが(私もまあ、その1人ではあります)、しかし、米国がこれに固執する理由の1つは、米国が日本の司法制度を全く信頼していないからであるということも忘れてはなりません。日本の司法制度は被疑者の人権をきちんと守らないと国際的に見なされていることは日本人は意外と自覚していないようです。

日本人は日本は報道・言論の自由がある国だと信じて疑っていないようですが、日本が国連人権理事会から審査されている対象国であるという恥ずかしい状況にあることは、あまり報道されておらず、国民の自覚もないようです。
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最近思うことなのですが、日本は戦争に負けて、「民主主義」という財産を手に入れました。


ここだけを見て、私は負けて良かったと思ってます。
不慣れな民主主義を行ってから、はや60年程でしょうか・・。
最近になって一党独裁も終わり、日本はやっとこれから「民主主義1年生」に入った所なんだろうなと思います。
裁判の冤罪ですが、裁判官にも問題を感じます。でっち上げの警察・検察にも問題を感じます。
もちろん政治も。
でも、これらを正すには「国民が疑問を感じ」なければ行けないんですよね。
まさしく今のあなたのように、疑問を感じる為にマスコミがあるけど、これも正常に機能してるか疑問です。
結局、日本人1人1人が「自分さえよければそれで良い」精神から、「他人事とは言え、許せないものは許せない」と「社会に興味を持たないと」行けないんですよね。
その為の「教育」が出来てないんだと思います。
裁判を含め、未来(50年後とか)のより良い日本を作る為に、教育から正すべきだと思います。
回答では無かったかな・・、失礼しました^^;
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裁判官は「官(警察官、検察官など)」の言い分を信用するという原則があるようで、一旦調書が書かれるとそれを疑ってみるという習慣がないようです。


また私の体験上ですけど「警察はあなたを有罪にするための捜査は尽くすが、無罪にするための捜査はしない」と言われたことがありますが、犯人という前提で動き出すと方向転換が利かず、有罪を否定するような証拠が出てくると隠蔽する体質があるように感じました。
つまり、一旦自白するとそれを肉付けする捜査に終始して、作文された調書は裁判官は疑問を持つことなく採用して有罪になってしまう、取調室ですけど一応「自分が不利になると思ったことは話す必要は無い」と言われましたけど、雰囲気は重苦しいし、周囲からは密閉されているし、私程度の微罪での濡れ衣でも圧迫感がありますから、殺人とかの疑いを着せられればどうなるかは容易に想像できます、警察は正義の組織ではなく、犯罪を摘発するための組織で、個々の人間は組織の理論で動くので、私のような想定外の行動原理の人間は胡散臭いようです。
冤罪が起こるのはやられた方の体質もあって、ほとんどの人は懐柔されてやってもいないことを話してしまいます、これは経験すれば判りますが、調書は作文され、何度訂正させても微妙に言い分と違ってきており、先方は複数、こちらは孤立無援ですから、早い段階で弁護士の接見や取り調べの可視化がないと、やってもいないことをやったと言い出しかねない心理状態に追い込まれます、私は微罪ですから、最悪刑務所に数日行くだけと腹をくくれたので一貫して冤罪という姿勢を貫き、不起訴となったけど・・・。

裁くという難しさを先日考えてしまいました。
母親が息子を殺した裁判ですけど、この息子は首つり自殺をしているところを発見され病院に担ぎ込まれて一命を取り留めたのですが、医者からは植物状態で回復の可能性はゼロと宣告、その上10万円/日の医療費が掛かってきて、嫁さんが夫を殺して自分もとチューブを外そうとして医者や看護師に室外に出された隙に母親が、嫁が殺人者になったら残された孫がかわいそう、どうせ助からないなら親の手でと殺してしまった顛末です。
誰が考えてもやむ得ない話しで、検察官も法律で許される一番軽い刑で起訴して、裁判官も執行猶予をつけました。
さて、ここからは宗教論になりますけど、数年前に同じような事件で執行猶予のついた人が裁判所を出て、弁護士さんや嘆願書を書いてくれた人に挨拶回りを済ませて、その夜に自殺したという事件がありました。
結果論ですけど、殺人を犯したという事実があり、それが善人がやむにやまれぬ事情でやった場合は罪の意識が強く、自分を責める傾向があります。
そうであれば敢えて有罪にして、刑務所で自分を見つめ直す時間を持ち、満期で出所して罪を償ったという自覚を持った方が良かったのではないか、周囲も事情は分っているので、刑務所から帰っても暖かく迎えてくれるでしょうし、その方がよかったのではと考えてしまいました。
人が人を裁くとは無理がある話で、せめて人間味と洞察力のある方に裁いて欲しいと願います。
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有罪率99.8%にはトリック?があります。


刑事事件で逮捕された容疑者の内約55%は「不起訴処分」になってます。
その内の半数近くの23%が「業務上過失致傷」(いわゆる交通事故)で、それを除くと約27%です。

逮捕しても「起訴」までいく事件は全体の45%程度となり、その内の有罪率が99.8%という事になります。
起訴相当と判断するまでに検察がかなり吟味しているという、数字上の証拠とも取れます。

無罪率が高いと、当然拘束期間中の賠償責任が生じる訳ですから、税金の無駄使いとも非難されます。有罪率100%を目指す理由がここにもあります。

諸外国に比べて冤罪率はけっして高くないと思いますよ。もちろん冤罪があってはいけません。
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そのとおりです!!あなたが考えるとおりです。

なぜ日本はあなたが考えるとおりにしてくれないんでしょうね!! 素晴らしい。誰もが考え付かないことをこともなげに思いつく。尊敬しています。
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