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江戸時代に武士が名前『実名(諱)』に通字を使っていたようですが、本家(長男)以外次男以降の者も通字を使ったのでしょうか?

A 回答 (3件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>本家(長男)以外次男以降の者も通字を使ったのでしょうか?

回答から先に述べますと、
「次男」までが一般的でした。

長男は、世継ぎですので、当然、大事にされ「諱」がありました。
次男は、長男に「もしも」のことがあれば・・・と、こちらも「まあまあ」大事に育てられましたので、「諱」を与えられました。
三男以降は、他家に養子にいく位しか生き残れる道はありませんでしたので、
はっきり言ってしまえば、「どうでもよい」存在でした。

この回答への補足

通称及び諱があったとの事ですが三男以降はどのようだったんでしょうか?

補足日時:2010/05/08 12:47
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この回答へのお礼

色々とご教授ありがとうございました。またよろしくお願いします。

お礼日時:2010/05/22 21:30

>江戸時代に武士が名前『実名(諱)』に通字を使っていたようですが、本家(長男)以外次男以降の者も通字を使ったのでしょうか?



結論から言えば次男以下も通字を使っていた例が多いです。また、分家でも本家と同じ通字を使う家も多く見られます。
根拠は江戸幕府の公式大名・旗本の系譜集である「寛政重修諸家譜」の記述です。通字を持っていない家もありますが、通字を用いている家の中で、主に系譜の最後の部分にある『実名(諱)』を見ていく方法を取りました。兄弟が少ない(もしくは記述されていない)家以外で、複数の兄弟があり、その兄弟が養子に行っていない者で、『実名(諱)』が記載されている者を見ると通字を使っている例が多いのです。
例えば、大岡直陳と言う旗本には子息が4名いますが、記載順に直春・直茂・直三(なおかず)・直光となっています。また、一族の大岡直孝の子息4名は記載順に直恭・康満・直明・直光です。同じく大岡直利の子息は3名ですが記載順に直近・直好・直住です。
養子に行く前は通字を用い、養子に行くと養家の通字に変更していることが分かる例として、大草公定の子息は3名いますが、記載順に公輝・幸利・常定とありますが、この内の幸利の記述に「初公直。吉三郎。海部新左衛門幸道の養子となり・・・」とあるなどの例が見られます。
なお、系譜の最後の部分を中心に見たのは途中の世代には「某」と書いてあって実名を記載していない者や(番方などに登用されている者も多い)、男子の兄弟が少ない者、養子先の通字を用いている例などが多いためです。系譜の最後の部分は部屋住みも記載しているようで兄弟が多く、実名まで記載されている例が多いので重点的に見てみました。
また、「寛政重修諸家譜」は幕府が編集した系譜集で、「寛永諸家系図伝」と共に江戸幕府が行った二大系譜編纂事業で、寛永譜より充実しています。大きな図書館には置いてありますので、確認されると良いのではないでしょうか。
以上、参考まで。
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NO1.です。



>>通称及び諱があったとの事ですが三男以降はどのようだったんでしょうか?

三男以降でも「通字」を使う例としては、

徳川家斉の子
徳川家慶、敦之助、徳川斉順、虎千代、徳川斉明、徳川斉荘、池田斉衆、松平斉民、徳川斉温、松平斉良、徳川斉彊、松平斉善、蜂須賀斉裕、松平斉省、松平斉宣

三男以降はどうでも良いという例、

井伊直中の子
直清、直亮、中顕、中川久教、内藤政成、松平勝権、直元、内藤政優、直弼、内藤政義
井伊直弼は幼名は鉄之介、字(あざな)は鉄三郎。兄であり12代藩主の直亮の養子となりましたので、初め「直輔」後「直弼」に改名しています。

特に決まりがあったわけではなく、その家の家風や家格で用いられたのではないでしょうか。
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