プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

幕末の武士たちの食事はどんな感じでしょうか。
良く魚の焼き物、味噌汁、鍋、白ご飯を食べてますね。
塩はあるでしょうが醤油もあったのでしょうか?
あまり肉をがっついてるシーンは見ませんが肉は食べていたのでしょうか?
鳥や猪は食べるでしょうが、牛は明治に入ってからでしたっけ?豚は食べてたのでしょうか?
時代劇で、移動式屋台のうどん屋がよく出てきますが、醤油出しでしょうか?
うどんのみで具はなかったんでしょうかね?
食事が良く分かるHPなどあれば教えてください。

A 回答 (4件)

漫談です。



江戸三白といいまして、米、大根、豆腐がまず江戸人の食べ物代表です。それに鯛と白魚をたして、五白ということもあります。

これらの料理法を江戸の人は究めまして、当時から「豆腐百珍」というレシピ本がベストセラーになります。この「百珍」は、蒟蒻、鯛などの亜流がでるほど売れました。また、「料理物語」というレシピ本もあります。

牛は農耕のための財産であり、食用ではありません。イノシシは「山鯨」という隠語ができ、クスリと称して売っていたくらいなので、実はみな好きでした。

夜泣きの移動屋台のソバがまずあります。かけ、という言葉はどんぶりに入れたソバにダシを「ぶっかけた」が語源です。本来は店では蕎麦つゆにつけて食べるものでした。タネは、以外ですがテンプラが一番古いタネです。ネギと桜海老ていどの安価なものです。なぜなら、ソバにあげておいた(当然冷たい)かき揚げを乗せてダシをはると、ダシが少なくてすみ、またソバが冷めにくくなるからです。揚げ玉だけのたぬきは、テンプラの「たね(具)」を「ぬき」にして、「たねぬき」が語源です。スパイスとして七味唐がらしがありますが、江戸人は「七色(なないろ)」といいます。いまでも、東京に長く住んでいるひとや下町では七色といいます。
脚気のお話がありましたが、脚気はビタミンB の不足から来るのですが、白米オンリーのゼイタクは珍しかったので(大概は麦をまぜる)、江戸期には大流行していません。精米技術が進んだ明治期に流行しはじめ、陸軍がこの対策に困ります。なぜなら、兵は白米食べていたからです。日露戦争では脚気に25万が罹患し死亡した兵士が2万以上と非常に多く、ロシア側は「日本側に伝染病の兆候あり」とその様子をつかんでいます。
一方の海軍は当初パン食でしたが不評で麦飯にしたのですが、ビタミンBが結果的にとれたので脚気がおきませんでした。

当然、日露戦争前に陸海軍とも脚気について対策を取ったのですが、海軍は「今の食事で起きていていないのだから、麦飯」と英国で医学を収めた高木兼寛が主導し、惨事になりませんでした。英国では例として、海軍兵士にレモン・ジュースのませれば、理由はわからないが壊血病にならない、という、結果オーライな軍事医学の方向性があったからです。高木は日露戦争後、脚気を防いだ功績がみとめられ、男爵を授かっています。

が、陸軍はドイツで当時最先端の細菌学をまなんだ森麟太郎(森鴎外)が軍医トップにおり、「脚気も細菌が原因」と(今日の目で見れば)まちがった方に対策リソースがふられてしまったので、大惨事となったわけです。

脱線しましたが、ネタとしてお納めください(;^_^A
杉浦日向子氏の著作に、江戸の食について楽しく詳しく書かれたものが多いです。下のURLもみてください。楽しいですよ。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B1%9F% …
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 たぶん#2さんが言ってる日記を解説した本がありますので、読んでみては。



「幕末単身赴任 下級武士の食日記 」(生活人新書) 青木 直己
http://www.amazon.co.jp/dp/4140881658
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 下級武士の詳細な日記手帳が見つけられたらしいですね。


 今日も両国で薬食い、とかいって四足を食したらしいですね。いのしし(“山鯨 やまくじら”といったらしい)か狸らしいです。
 兎は鵜と鷺ですからね。そんな事くらいしか頭にうかばないけど。
 葛飾の郷から松戸あたりまでは、将軍家のお狩場にもなっていましたから、白鳥などは“しらとり”という地名になっています。
 これは毎年禁中に貢ぐものですが。
 このあたりは鹿も採れたと言いますから、或いは食した(“ししなべ”とかいったらしい)かもしれませんね。
 醤油は、中期頃から千葉で下り物でない(くだらないもの)造られたから、江戸びとの生活(生魚、刺身、そばぎり)にあった醤油が作られてきたという講義を聴きました。
 それまでは江戸は下り物醤油で関西からきていて、これは煮込みなどのものらしですね。
 饂飩はそういう下り物醤油でもいいだろうし、くだらないもの醤油を薄めてもいいでしょうね。
 そんな話はシニアの自治体講座で大学の先生が話していました。 
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江戸時代、獣肉についてはほとんど口にしなかったようです。

猪を「山鯨」と呼んで食べたなんていうのは有名ですが、表向きの理由は仏教が肉食を禁じていたからってことになっています。でも、その仏教を日本に伝えた中国や朝鮮ではフツーに豚や牛を食べているんですから、どうも元々日本人は獣肉があんまり好きじゃなかったみたいですね。
味噌や醤油はかなり普及していたようです。味噌は自家製が多かったみたいですね。野菜はよく食べたみたいですが、はっきりいっておかずはほとんど食べてなかったみたいなんですよ。

幕末頃にもなると色々豊かになりましてね、落語によく出てくる蕎麦だの寿司だの様々な食べ物がありましたし、豆腐や卵の様々な料理法を紹介したいわゆる「グルメ本」なんてのも登場しています。
でも、現代日本人のような豊かな食生活をしていたなんてのはごくごく一部の金持ちのみ。たぶん、大名クラスでもそんなにそんなに豪華な食事を毎日できたわけでもありません。天皇に至っては、貧乏だけど格を落とすわけにいかないから、器に「鮑」「海老」なんて書いてそれが食卓に乗った「つもり」になっていたそうです・笑。

おそらく、一般的な日本人はほとんど「米と味噌汁」くらいしか食べてなかったのではないかと思うのです。なぜなら、明治時代になると日本人の国民病として「脚気」が爆発的に広がるんですね。脚気という病気は具体的にはビタミンB1が不足する病気です。ビタミンB1は米ぬかには含まれていますが、精製された白米には含まれていないんです。で、それなりにおかずを食べていれば脚気になんてならないんです。欧米では滅多に見られなかった病気ですし(ゆえに原因が分かるまでは日本の風土病だと思われていました)、実は江戸時代には脚気は「江戸患い」と呼ばれていました。江戸ではよく見られた病気で、江戸時代後半には江戸では白米食が広まっていました。明治維新で米の精製技術が全国に普及し、白米食が広がると共に脚気も爆発的に広まったのです。今、現代日本で脚気になるような人はよほど飢えている人か、偏食の人だけです。明治、大正の日本人は米ばかりを偏食していたので脚気になったのです。

ちなみに武士の給与は米によって支払われます。武士は、その米を換金して他の食べ物や生活費にあてていたのです。だから、基本は「米を食え」なんですね。玄米は「完全栄養食品」と呼ばれています。極論すれば、それだけ食べていけば生きていけるという食べ物なのです。
しかし、米だけじゃカルシウムとかたんぱく質とか足りないだろうって?その通りです。江戸時代の日本人の平均身長は150センチそこそこです(江戸時代初期に180センチあった宮本武蔵がいかに大男だったか想像がつくでしょう。そんだけデカけりゃリーチがムチャクチャ長いからそりゃ決闘にも勝つって話しです)。ちなみに昭和初期になってもカルシウムやたんぱく質の不足から日本人の身長は低いままでした。見た目が重視される近衛師団の身長制限が170センチ以上だったそうですが、同じ時代のナチスドイツのSS隊員の身長制限が180センチ以上だったそうです。つまり、当時の日本じゃ170あれば「背が高い」といわれたのです。日本人の身長が劇的に伸びるのは食が西洋化する戦後になってからです。
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