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「エゴ」って何?

たとえば善意が動機、結果も相手が喜んでいる、という明らかに幸福な図が許せない人たちがいます。
古い言い方ですが「ちゃちゃを入れてくる」という感じで「それは人間のエゴだ」と第三者が主張する現象があります(特にネットの世界ではそれが顕著です)。

例をあげますと、お年寄りの介護施設などに訪問し歌や演奏をする。お年よりは孫の姿や昔懐かしい歌などを思い出し、1日とてもよい気持ちになった。ボランティアという形式をとることもありますしそんなそれ以前の小さな善意からでも「エゴ」「自己満足」「自慰行為」などと言う人の出現です。

「エゴ」の定義、またこの程度のことに「エゴだ」といって批判する人の心理や理屈、また遭遇した場合の理論武装など知りたいと思います。

A 回答 (19件中1~10件)

ここで言っておられる「エゴ」とは、私見によればいわゆる「いーごー・せんちゅりっく」といわれている観念のことではないかと思われます。

日本語で「利己主義者」、自分のことを(常に)思考の中心に据えて考える種類の人間(エゴイスト)のことで、そういったひとたちの集団の思考形式を「民主主義」ともいいますね(笑)。つまり、大多数の人間がこのカテに属するものだということです。

さて、ご質問で「小さな善意」を行っているひとのことと、それらのひとの行動を「エゴ」と決め付け(て批判す)るひとのことが出ましたが、私見ではそれらのどれも「エゴ」とは無関係ではないかと思われます。一般的に自発的善行者(いわゆるボランテア)たちの行動はいわゆる「利己主義者」とは反対の性格を帯びたものだと考えられており、世間的には少数者で、それゆえに世間からは一定の賛仰と尊敬を受けているようです。
それをとりまく他人たちのなかで、そういったひとにはとてもなれないと悟ったひとがいて、しかし尊敬を受ける人の存在が妬ましくてしかたがない、なんとかして彼らも自分達と変らない人間であると決め付け、引きずり降ろして自分を慰めたい、そういう歪んだ精神が見つけた方便のひとつとして発明された非難の形式が「彼らは自己満足の手段として結果的にそういった善行をしているのであり、彼らを褒め称える理由は何もないのだ」という理論なのです。一見整っているようであり、しかし八方やぶれの取るに足りないいいがかりだといえましょう。
小汚い精神の保持者である彼らに耳を傾けることはないと思います。理屈で反論などすれば、彼らの思う壺です。
ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人生をかけてボランティアをやっている人も知っておりますが、本当にそういう方達は本気でまじめにやればやるほど自己内、自己外の矛盾に苦しんでいます。いわれのない中傷や嫉妬、人間関係のしがらみや確執、またその人自身の弱さもありますが、情熱と強さでそれを乗り越えていくのをみると後光を感じさせられます。

まさに

>「利己主義者」とは反対の性格を帯びたものだと考えられており

のような人の歩む「道」とはそうやって手に入れていくのだと本当に感じ入っています。

そのような「非難の形式」を用いる人はその後光によって自分が見たくないものを見せられてしまうのでしょう。ひとつの反動形成なのでしょうね。

お礼日時:2010/05/19 21:47

やっぱり尊厳ありき、という考え方ではないでしょうか。



ボランティアをされる人もする人も、
「来てくれると便利で大助かり」と捉えるのは、もう手段になっちゃってる。
「こんなにいい人なのよ」のアピールも、手段ですよね。

人間は誰しも、価値を超越した尊厳があるから、そう考えるのは違うよねっていう考え方です。

勿論、価値観の差異ついては、確率の問題になっちゃうけど、
でも、それいったら、ボランティアそのものがひっくりかえっちゃいますから。
うわーん、わかんない。えいって、ちゃぶ台ひっくり返すみたいにしてばかりでも。
それも、ちょっとどうなのかなって、ことなんですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「こんなにいい人なのよ」のアピールも、手段ですよね。

芸能人などの場合でしたらそういう効果もありますね。しかし私の場合そう思われたくないですね。ボランティアを悪くとる人が私を好ましく思ってないのなら何らかの機会に批判材料にされるきらいもあるからです。
たとえば親が子を育てていくのは無償の愛以前にそれは本能ですよね。血縁関係というつながりはないが、他者や外部であっても命ある同じ存在としての心のつながり、魂のつながりを自覚するために自ずとできる行為なのではないかと。助けたいという気持ちはやはりリクツじゃあないんですね。川でおぼれている人を助けるときのとっさの判断といってもいい。理性も駆使して自己矛盾に悩みながら(屁理屈にも耐えながらw)逸る衝動を押さえ、しかし維持していかなければならない静かで強い衝動なんですね。

実際そういう人々を知ってますし、私もかくありたいと思ってます。

お礼日時:2010/05/25 02:43

ボランティアはしている人は、自分のしていることは自己満足に過ぎないのではないかと、


一度や二度は考えたことがあると思います。
しかし、現実的に人のためにもなっています。
もしくは、人のためになると信じて、ボランティアをしているわけです。
そこには少なからず正義があると、僕は思っています。
仮にボランティアをエゴだと言うのなら、世の中のすべてのことはエゴになり、
だーれも人助けをしようと考えなくなります。それでは世の中がまっくらですね。
要はボランティアをする人は世の中に必要だといます。
逆にそれを批判する人は残念ながら心の貧しい人なので、世の中にあまり
必要とされない人達でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人間社会が相互扶助を必要としている限り、お金に換算できるだけの利益を求めるだけではまず破綻するでしょう。「種の保存」ということを考えましても、無償行為はなくならないはずです。無償か有償かと考えたり、単なる「生きがい」「自分探し」、老後の暇つぶし程度に考える人も実践に至っては甘くないと最初に自覚するはずですし「適性」は淘汰されていくでしょう。なぜならば自己利益のみ考えているからです。

お礼日時:2010/05/25 02:33

エゴ、自我のこと。


エス・エゴ(自我)・スーパーエゴ(超自我)。

エスは無意識から湧き出る欲望。本能もこれ。

スーパーエゴは模範教師みたいなもので、エスの欲望を審査してよくなければ「いけませんよ」と正す。

エスの欲求とスーパーエゴの欲求の両方を聴いて、どうするか決めるるのがエゴ(自我) つまり 私。

例えば、音楽で身を立てたい、有名人になりたくさんの人に拍手喝さいされる中で歌いたいと顕示欲を増大させたとする。
顕示欲自体は問題は無い。
存在価値を確認するための手段として、歌手や名演奏家になろうと欲望することに問題は無い。

登竜門として、コンクールに出場することになったとする。
そのコンクールの審査員に賄賂を渡そうか とエスが思ったとする。
すると、超自我が出てきて「不正は駄目だ 実力で勝負しろ」と言うわけです。
自我は両方の意見を聞くわけです。


「無料奉仕も結局エゴじゃないか」という意味は、自己満足・独善 という意味ですよね。
例えば<人に感謝される自分>が理想像だとすれば、人に感謝されることをすれば、エスの満足度はあがるわけです。

ところが、「自分は音楽を聴くと幸せになる。障害を持っている人は収入が低いのでチケットを買う余裕はないだろうし、買えたとしても階段を上れないから結局行けないと諦めるだろう。訪問して聞かせてあげれば、その人はハッピーだろう」と思ったとする。

「障害者はクラック音楽を理解しないなんて差別だ。自分はクラッシックを聞くとなごむから、障害者だって和むはずだ」とクラッシック音楽を演奏したとする。

聞いている人はじっと静かに座って聞いており、終わるとパチパチと拍手をする。
「うけた よーし もっともっと多くの恵まれない人達に愛を与ええてやろう」と思って施設を慰問。
そしてある施設の人から「あのぉ ここの子どもたちはポンキッキとかそいうのにワクワクして目を輝かせるんです」と言われて、はっと気づくわけです。

自分だけ満足していたって。

人が喜ぶことは千差万別です。
自分が楽しいと思うことを必ず他の人も楽しいと思うわけではない。
共通の楽しいと思うことを探るのが難しい。

例えば読み聞かせ。
子どもは本を読んでもらううちに寝る。
自分に相手の意識が向けられていると思うと安心するわけです。

「読んで 読んで」というのは 字が読めないから代わりに読んでと言っているんじゃない。
自分にだけ注目して欲しいから。独占したいから。

みんなの前で演奏する人もそうでしょう。
たくさんの人が誰でもなく自分に注目してくれることに快楽を感じるから、みんなの前で演奏したいわけです。

カウンセリングもそうでしょう。
じっと耳をかたむけて自分に注目してくれる人がいれば、カウンセリングなど受けに行く必要が無い人が多いんじゃないかと。

傾聴。
興味がある内容なら傾聴できるが、興味が無い内容を言う相手の話を聞くってしんどい。

クラッシック音楽を聞いて育った人にクラッシック音楽を演奏するのは有効だし、落語が大好きな人なら、落語を聞かせるのが有効だし、失語で言語を喪失した人でも、ジェスチャーをオーバーにして表情をおもしろおかしくした落語なら、内容はわからなくても、プライヤーの表情でおもしろいと感じることができる。

それで全員が自分に注目し、どっと誰もが笑えば、みんなで一緒に笑ったという連帯感が生まれる。
失語症の人もそうじゃない人もプレイヤーも楽しいということを共有している。
孤独な人は誰もいない状態になる。

視聴者だけじゃなく、プレイヤーのエスもスーパーエゴも満足させるエゴなので、そのエゴは独善ではない。

「所詮それも自己満足でしょ」という人に実際そのプレイヤーと視聴者が一体となった状況を見てもらえば、自己満足や独善の世界ではないとわかると思います。

その状態を作り出しお金を得る人はプロで、お金を取らない人はアマチュア。
普段お金を取ってやっているが、無料で行う場合はボランティアと区別するんじゃないかと。

テレビ番組では、健常者ばかりが賢明に苦痛の表情をしている。
そんな思いしてまで稼いだお金はいらない と恵まれていない人の中には思っている人もいるんじゃないかと。
「親切を押し売りして、満足する健常者どもに勝手にやらせて、やるってもんはもらえばいいだよ」となり、与えられて当たり前となり、お互い断絶し続けるわけです。

そんな一方通行の断絶社会に待っているのは破滅。

現在の日本のボランティアは破滅に向かって突き進んでいるのは間違いないです。
ハーメルンの笛吹き現象ですね。
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この回答へのお礼

>その状態を作り出しお金を得る人はプロで、お金を取らない人はアマチュア。普段お金を取ってやっているが、無料で行う場合はボランティアと区別するんじゃないかと。

プロといっても技術の他に動機や方法論もプロであるべきでしょう。
私の定義としては、お金に換算できないものを自分の資質や資源を超えて生み出す場合もあれば、その範囲内で生じさせることも含め、結果論です。動機の純粋の濃度ではありません。人間が社会的な存在である限り、いや「人」である限りエゴや超自我から逃れることはできません。その結果個人、集団内での矛盾があろうとも、そこからいかにして純粋な動機に近づけるか、が無償行為の課題であるといえるのではないかと思います。

お礼日時:2010/05/25 02:28

#6です。



>「防衛は最大の攻撃なり」

これは初耳です。

私が知っているのは、攻撃は最大の防御なり、です。
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございます。さかさまでしたw

お礼日時:2010/05/25 02:45

正義とは何か?という問題に関連していると思います。



日本での概念は、とても曖昧でなんだか、社会の風潮や市場原理により相対的に決まるように
考えられがちだけど、そういう考え方はそれとして、もう少し輪郭線を出してもいいと思うのですね。

善意の行動を行ったとき、果たして本当にその行いは、普遍的に良い行動だといえるか。
功利主義にならないように、抽象として問い続けることは必要だと思います。
だれかの人権を損なわないか、社会の規定にそっているか、など。

しかし考えたからと言ってそう簡単に答えは見つからない。だからといって、
結局欲望のまま生きているのだなどと短絡的に考えるのは少し危険だと思います。

正義やエゴの定義には日本独特のあやふやさがあるけど、少し西洋的な考え方を学んでも損は
ないのかと思うんです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>社会の風潮や市場原理により相対的に決まるように

確かに曖昧になりがちですね。

ものごとには何でも裏と表があります。動機にその側面があるように、結果もそうです。裏目にも出るしこともあるし、その逆もある。

西洋的な考えはどうなのか、興味あります。

お礼日時:2010/05/21 15:25

例えば有名芸能人が、コンサートを開き、「いくらでもいいから寄付して」となった場合、それはチャリティーコンサートと呼ばれますよね。



お金を持っている人にお金を出してもらい、それを持っていない人に配るわけですから。
チャリティー、慈愛とかそういう意味があったと思います。

芸能人は出演することで、名がもっと売れ儲かる。
だから芸能人は、我こそはと出たがるわけです。
テレビに映ることで、より多くの人に名が売れるから。
いい人だって思われて、ファンが増えるから。
そのチャリティーコンサートの出演料は寄付するが、それよりもっと大金が稼げる。
損して大金を掴むチャンスなので、こぞって参加させろと、群がるわけです。

一回のショーをやるのに何億とかかる。
カメラマンや広告費やら、放送やら、大金を消費するが、それは募金の中から経費としてさっぴくことができる。
かかった経費をさっぴいた残りを寄付すればいいわけです。
それは他の募金活動も一緒。
募金箱代とかスタッフの給料とか旅費とかさっぴいた残りを寄付すればいい、合法です。


私思うんですね。
そんなショーやらなかったら、何億と消費しなかったろうに、、もったいないって。
オリンピックと同じで大量消費すると景気がよくなる。


そのわずかな出演料で出演してもらうことで、店はイベントをするので、集客率が上がり、消費もあがりもうかる。
出演する側は、名が売れる。損して得する戦法。
口伝えに、いい演奏をする人がいると関係者に伝われば、レコーディングの話が入ってくるかもしれない。
実際今有名になっているミュージシャンの多くは、そのような形で売り出している。


ある人は寝たっきりに人のいる施設に訪問して歌を歌っている。
依頼があったから。
その人がラジオで歌を歌ったとき、それをラジオで聞いていたある寝たっきりで無表情で動けない人の眼から涙がこぼれたそうです。
それを見た家族は、「反応した」となり、ラジオ局に問い合わせ、名前を知りその人に歌を歌ってもらえないかと依頼し、それ以降 定期的にその人がいる施設を訪問して、枕元で歌を歌ってあげているのだそうです。
施設の人みんなに じゃなくて 自分の歌声を求めているその人限定で、無料で歌ってあげている。

というのをテレビで見た。

風貌は普通のおばちゃんなんですが、ネ申声。
類稀なる才能を一般人が持っていて、それが何かがあってラジオで歌うことになり(のど自慢かなんだったか忘れた)、それを聞いた今まで無反応だった人が、涙を流という反応をしたわけです。
喋れない、手も足も動かせない、でも心はまだ動けた。
それが涙となったことで第三者にもわかったわけです。


何億と稼ぐためにチャリティーコンサートに出演する芸能人。
かたや交通費だけで歌うおばちゃん。

前者はイヤラシサがありませんか?

無料で店で演奏するバンドの人に、イヤラシサは無いですか?
その人が「俺は声に恵まれているから、声に恵まれていない奴らに聞かせてやっている」とか言うともろイヤラシサが現れてしまうが、そういうことは言わなくても、名を売るという イヤラシサが隠れている。

志願して戦場に向かう人。
その人に中には、無職だったが給料が出るということで、志願する人もいるが、本当に国の平和のために志願する人もいる。

私の友達が青年海外協力隊に参加しようかなと言っていた。
給料はプールされ、2年後に数百万ともらえるからって。
それを資金にして何か始められるから、やろうかなって。

「まずねぇ 技術を持っていないと難しいよ。医者とか看護士とか測量なんたらとか、そういう技術が無いと、採用されないよ」と教えてあげた。

「いいや 何も技術もって無くても、研修で技術習得できるらしいよ 無料らしい」とか言ってた。
「ふーん だったら 職安の無料講座を受けて技術を習得して就職すれば?」って言ったら、「数年後に何百万って一気にもらった方がいい」って。


「でもね、水を飲んで、その中に虫の卵がはいっていて膝から虫がにょきにょき虫が出てきたりするような そんな過酷なとこ限定で派遣されるらしいよ。技術を求めているのはそんな地域だから」って言うと、「ひー じゃあ やーめた」って。

「オイ!」 って苦笑した。

ボランティアって、曖昧なんですよね。

ま いやらしさが無い奉仕をやっている人って探すの難しいかも。
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この回答へのお礼

>無料で店で演奏するバンドの人に、イヤラシサは無いですか?

感じるときありますよ。セッションとか行くと皆「自分なんてまだまだ」という顔をしながら内心「自分がいちばん」と思ってる。そういう重い空気を感じます。欲望がギラギラ★中には慰問している人もいますが動機は不明です。でも聞き手として他の方のライブなどに行くときは単に楽しみで行くわけですからイヤラシサを感じるかどうかは関係ありませんし、その人が打算家であろうとその人の演奏とは関係がありません。

>前者はイヤラシサがありませんか?

日本テレビが毎年夏になるとやっている恒例行事ですねw
海外だとノーギャラが常識だそうであの番組は出演料をだすときいて関係者は驚いていたそうな。この番組はいかに日本人のボランティアの捉え方が低レベルかという象徴ですね。

不純な我をいかに希釈していくか、という無償の愛への問いと同じにみえる。でも微妙に違ってて、それは定義が明確でなければできないというものでもなし、偽善でもそれが善にみえ、疑う人もいなくても助かる人がいればそれでよし、と少々合理的に考えてもよいと思います。そこに助けを求めている人がいるというだけで需要はあり、供給する側の人間はただでさえ複雑で矛盾した存在。需要と供給のあいだに立つ第三者の人が求める定義を供給者も考え、突き詰めていったところで何もできなくなってしまう。またこの世界は時間も必要、緊急性もある。というわけです。

お礼日時:2010/05/21 14:11

#5の者です。



>世の中には認知症や統合失調症の人がいます。
>彼らは自分の意思決定ができません。

それは大胆な発言ですね。
どんな人間でも、植物人間にでもおちいらない限りは、
意識(エゴ)があり、判断ができます。
ただ、社会的にその「判断」の妥当性に問題があるとされて、
その自由意志を、“まわりが奪っている”だけです。

じゃぁ、その「まわり」の“社会的に妥当性”のある人
たちの「判断」が、「正しい」かというと、自然を破壊し、
自殺者を激増させ、国家財政を破綻させているのですから、
五十歩百歩です。

精神障害を持つ人にエゴがなく、健常者にエゴがある、
というようなものではなく、意識のない木石の状態から、
自己存在の本質を完全に認識し、社会全体を他我化(=愛)
する状態への中間に、全ての人があるのです。
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この回答へのお礼

>ただ、社会的にその「判断」の妥当性に問題があるとされて、その自由意志を、“まわりが奪っている”だけです。

ハタ、と気づかされました。

>どんな人間でも、植物人間にでもおちいらない限りは、意識(エゴ)があり、判断ができます

もちろんです。
後見人制度の法律の条文で述べました。しかしながら事実、私の義父などは判断ができる状態ではないのですね。義父から息子に契約者の更新をしようとしても字すら書けない状態なのです。なので後見人制度を申請しようとしているところなので、実例として使ったのですが・・・意思決定は微妙なところですが、人の判別などの意識は確実にあります。確かに意思とはいえましょうが、しかし複雑なことへの判断能力はできないことも事実です。つまり「意思が低下している」という言い方が妥当でしょう。しかしながらこれは難しいテーマです。

今回のことを通し、高齢化の今、国の方で任意後見人制度をさらに公報し、勧めるべきだと個人的には思いました。後見人が必要となっても意思決定が低下している状態で後見人を望んでいること自体、本人に確認することは難しいわけです。自分がそうなる前に決定、選択することができる任意ですと、それを避けることができると思うのです。

お礼日時:2010/05/21 15:39

ボランティアという意味は、自分で率先して奉仕をすることを指し、その奉仕が人に役に立つことなわけです。



例えば公園がゴミだらけで、町の美化が損なわれ、住民が不愉快な思いをして暮らしているとすれば、大量のゴミを集めて捨ててあげるという奉仕をするのもあり。

炎天下で辛い作業なので、誰もやりたがらないが、「やります」と率先して奉仕をする人をボランティアと呼ぶ。
市役所が「みんなの公園を綺麗にしましょう。1時間800円でやる人?」と公募し「炎天下で? でもやるか」ってなった人が応募した場合もボランティア。

徴兵制度による強制じゃなくて、自主的に国のために貢献するため志願する人もボランティア。
給料でますがボランティア。
それで国民の安全が保たれるのなら、その自主的な奉仕はボランティア。


私の友達はカトリック教徒だけど、その教会の信者はその人以外は裕福な家の専業主婦。教会はサロン。
友達が教会に行くたびに、ボランティア活動に熱心な奥様方に誘われるのだそうです。
そのボランティア活動にかかる費用が友人の経済を圧迫。
奥様たちは時間とお金があり余っているので、それを活かし社会貢献をする素敵な自分という自己実現が容易にできる。
友達はその手助けに担ぎ出される。
社会貢献をしない人は良い人とは言えないという無言の圧迫があり、彼女はとうとう教会に行けなくなった。


誰のための奉仕? 
もちろん恵まれない方たちは、たくさんの物資と労働により生活が楽になるわけですが、奥様自身の「私は世の中のために役に立っている 存在価値がある立派な人」という一面もあるわけです。


恵まれない人達は その奉仕が欺瞞であることを見抜いている。
が わかっていても徳なので、助かったと言い、楽をする。


ドッグビルって映画があるんですね。
副題は欺瞞が的確かも。

正確には覚えていないが、こんな内容。
トムって人が「この村の住民は新しいことを受け入れるべきである」つまり改革が必要であると思ったわけです。
そして銃声がして女が現れ、この女(グレイス)を匿うことにした。
住民に奉仕することで、外から来た女を受け入れさせれば、住民の意識改革になるって。

「やること? なんもない 間に合っている」と住民は言ったが「なんでもいいです なんか仕事をください あなたたちの役に立ちたいんです」ってグレースが言うので、「じゃあ。。。別に困っていないけど これやってもらおうかしら」って、やらなくてもいいことをやらせた。
そうすることでグレースが喜ぶならって。グレースがこの村で存在価値を持てるのならって。

最後 どうなったと思います。
グレースは存在不可欠な者になった。
逃げられないように犬みたいに鉄の首輪をつけられ、「さっさと仕事やれよ これもやれよ あれもやれよ 仕事はたんとたまっているんだよ ボケカス!!!」とののしられ「ただ今参ります。はい やります」と首輪につながれた鉛を引きずりながら、賢明に<やらなくていいはず>の仕事にきりきり舞いしながらやっていた。

これがボランティア(奉仕)のなれの果て。

別に困っていないのに、奉仕することで自分の存在価値を確認したい人達が、やらなくてもいいことを必須なものに変えていき、自分は存在価値が高いものに仕立て上げていくわけです。
そして、やらなくていい仕事が、やらなければならない仕事になり、やってもらえないと欠乏感に飢え怒りに変わる。


次の作品 マンダレイ。
これも現代を風刺している映画。
彼らを幸せにしてあげようと解放しようとした。
住民は自分で望んで不自由な生活をしているとグレイスは知らなかった。
グレイスは望まれ、それぞれに役割を振る独裁者ママになり、前のママがやったように、激しく吼えながら元奴隷を鞭打ってさしあげた。

ホームレスの人がホームにいるのをみた私はショックを受け持っているパンをかばんから取り出し「あの人達にあげてくる」と行こうとしたら、友達が「よしな 彼らは望んでやっているだから」と言った。
その時はよくわからなかったが、今はわかる。
過剰介入は双方がつぶれる。

だから困ってると思える人がいたら「助けいりますか?」と聞くことにしている。
やせ我慢で「いいえ 結構です」と断られたと思えたとしても、その断りの心を大事にし、手を貸さない。
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この回答へのお礼

対価を伴うものがボランティアとは思いませんが・・・。給料と仕事とが見合わないと思う場合、ボランティアという意識になってしまうということですか?
先のお礼で述べた音楽家の例ですが、彼らの多くは演奏や歌が認められたり、いつかプロになるという様々な夢を持ってやっています。ですが音楽やっている動機がお客の何らかの利益になるためとは思っている人は皆無でしょう。エンターテイメントの世界ほど「まず自分ありき」のようなタイプでなければできませんから・・・。
確かに名が売れてくればギャラが低いことについて不満だと思っている人もいます。いつか認められるためにそれを甘受しているのなら「自分へのボランティア」として割り切っているかもしれない。でもお客からの拍手や賛辞は彼らのエネルギーですが、それこそいちばんの報酬と思っている(実際これが多いのですが)。人一倍練習しているし、上手いし、客に感動も与える。その分のギャラがもらえないのなら無駄なことだと言われても余計なお世話だと一笑に付されるでしょう。なぜならば彼らには誇りがあるからです。

ボランティアとはインフラが整っていない状態から始めるのです。それに労働の対価が伴っていればビジネスになります。「>社会貢献する自分に酔う」とはこれこそ偽善というものでしょうが、問題意識や共感がない場合の問題であると思います。意識の高さこそ、奉仕活動の重要な要素である啓蒙ということに貢献するからです。
また、偽善でも自己満足でも、結果的に奉仕になっているのです。それはその人のもつ資源が役に立ったということになり、社会貢献できていますから動機を責めることもできない。現場活動のみならず、寄付や署名という形、発言や啓蒙など奉仕活動は様々です。何でもよいのでできることから始める、無理しない、というスタンスでなければ続きません。もっとも悪いのは無関心や無知からくる誤解です。

個人的にはある程度の年齢になり社会経験を積み、社会にお世話になったと感じたのなら、奉仕活動すべきだ思うのです。(うちの親なんかはどうみても年金を散財しているようにしかみえん)
本当に日本はこんなことでも後進国だと思うんですが、この国のボランティア人口はあまりにも少ない。アメリカなどは教育の一環です。それが自己満足だなんだといっているのなら何かすればいいのにと思いますね。

私もボランティア活動をしています。感じたのは否が応でも自分が成長するということです。それにはまず自分という人的資源がしっかりしていなくてはなりません。また目的がぶれたら辞めるしかありませんが、無償奉仕は試金石でもありますが、いつでも辞める自由があるのですから自分へ言い訳にもなります。

>だから困ってると思える人がいたら「助けいりますか?」と聞くことにしている。

確かに相手の意思の尊重は必要ですよね。「Can I help you?」という言い方は素晴らしいと思います。バランスなんですね(たとえばお年寄りに席を譲っても断られる例)。
しかし対象によっては相手の意思を確認できる場合とない場合もあります。そんなとき自己矛盾にぶつかるのです。

お礼日時:2010/05/20 13:59

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この回答へのお礼

えっと「初音ミク」って初耳だったのでw調べました。

でもまだ理解できてません。

ネトゲが終わって気が向いたときでもよいのでまた教えてくださいね!

お礼日時:2010/05/20 03:25

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