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人様に「お願いします」と言うのはもしかすると日本人だけ?
外国の事情が判らないので憶測での質問です。
「願い」と「望み」の分別が日本語の用法では明白では無いのではないかと考えて質問いたしました。
神の所在が明白な欧米ではもしかすると「願い」とは神に傾ける祈りのみを指すのではないかと考えました。
仏(人間)を信仰する土壌のある日本では願いすらも人間に傾ける事が容認されていて、それは本来勘違いではないかとの、自己の考え(哲学の土台)に基づき質問しております。
さらには欧米でもイエスさんを神様扱いしているゆえ、人に託す望みを願いのごとく扱っている事例もあるのではないかとも考えます。
そうであれば、イエスさんが人類の裏切り者として処刑された故事を誤解して信仰心を全うしていない贋キリスト教徒の技でしょう。
神を知らしめたイエスさんは死を望みそして処刑されました。
聖書にはイエスさんがそのような予言を行ったと、ちゃんと書き記されています。
聖人であれば死を予見したなら、死を望むのは当たり前です。
これを「望み」の代表として、「願い」との分別の付け方についてご意見をお願いします。

奴隷のごとく生きる自由意思の無い閉塞した意見には、喜んで虐待をもって答えます。
ようするになっていない意見にはしかるべき指摘をします。
そんな怖いもの知らずのアラシ回答も歓迎です。

A 回答 (7件)

 No.2ですが つぎの見方について趣きを同じくしますという点をおぎないます。



 ★ 神の所在が明白な欧米ではもしかすると「願い」とは神に傾ける祈りのみを指すのではないかと考えました。
 ☆ ひとにお願いしますというとき 《 Please ! 》というのは 人と人との間にわざわざ《神の所在》が差し挟まれていると考えます。
 すなわち 《もし そのこと(=わたしがいまお願いしていること)が あなたをよろこばせるものであるならば。 If it please you. S'il vous plait. 》という意味だからです。(《 please 》が -s をつけていないのは 接続法(仮想法)に活用しているからです)。あからさまに神でなくても 一たん介在する場があるようなのです。

 《 Thank you. ( I thank you. ) 》という表現形式は 人と人とをぢかに結んでいると思います。(《 thank 》は《思い》∽《 think 》からのようです)。ですが 《 メルシ( Merci. )や グラシアス( Gracias )・グラツィエ( Grazie )》は 《あわれみ・めぐみ》という言葉ですから 《そういうふうにわたしにやさしくしてくださるあなたには 神のめぐみがありますように》という意味で 感謝のことばを述べているのだと思います。
 もっとも日本語でも《ありがとう》は 《そのあなたのおこないは稀有なことです》と言っているにすぎないわけですが。
 ロシア語の《ありがとう》の《スパスィーバ( Spasibo )》は やはり《そのようにやさしい行ないを為されるあなたには 神( -bo〔g〕 )がすくい( spasi- )の手をさしのべたまえかし》と言っています。共産主義社会の時代を生き延びたようです。

 ムスリムのあいだでは 感謝のことばを人間である相手に対して言わなくてもよいという話を聞いたことがありますが いま確かではありません。シュクランでしたか その言葉はあるようですし。(《 shukran 》は どうも《借りる・雇う》のたぐいから来ていて 《手当・報い》に相当する言葉であるようです。神を経由していないと思われます。経由しているとも採れるかも知れません)。

 ★ 望みと願いとの違い
 ★ 人と人とのあいだに 超越的な存在が介入してくるかどうか。
 ☆ この主題をめぐっては さらにもう少し質問者さんの趣旨説明を聞いてからにします。

 おぎないます。
 ☆☆ メルシ( Merci. )
 ☆ は アラビア語のシュクランと同じように 《雇う・手当》の意味から出たようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
お願いしますと言う以上、神の仲介のある神前での言葉であり、ひとたび願いとした以上、誓いのような事です。
そして人に願いを託したなら、願いが思いがけない結果になる故に、願いがかなわなかったと誤解して(この場合そもそも願いしゃなかったにきまってる)憎しみなどのいらぬ情念をたぎらせることになるでしょう。
これはよく見かけます。
おっかないです。
その点の分別が今回の質問です。

お礼日時:2010/05/20 21:47

 訂正:



×ついでなのでキグルイとオカマについての関係性についても空間してみてください。

→ついでなのでキグルイとオカマについての関係性についても空観してみてください。
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>ところであんたは女子大生なんだってな。



 質問者の言う「空観」とは 妄想のことである  ということか?

 ついでなのでキグルイとオカマについての関係性についても空間してみてください。
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 馬と鹿の見分けがつかないものを馬鹿と言います。



 願いと望みの違いがわからないものも同様でしょう。

 定義の問題ではなく、個人が理解してるかどうかでしょう。

>イエスさんが人類の裏切り者として処刑された

 これは初めて聞きましたね。聖書のどの辺に書かれているのでしょうか?

 出典元を明示してください。

>聖書にはイエスさんがそのような予言を行ったと、ちゃんと書き記されています。

 どこに書かれていますか?また、そのような予言をしたことが本当に書き記されているとしても、そのような予言をしたことと「裏切り者として処刑された」という考えとどのようにつながるのでしょうか。

 また、予言と 宣誓、宣言の違いについても良く考えてみてください。


 「空観」という言葉を単に知識として知っているだけではなく、自分で実際にできるのであれば「願い」と「望み」の違いくらいは簡単にわかるでしょ。
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この回答へのお礼

有難うよ。
ところであんたは女子大生なんだってな。

お礼日時:2010/05/22 20:26

Pleaseという言葉をご存じないのでしょうか?


あるいは「Would you mind if ~」という構文は?

確かに言語体系が違いますから厳密に「お願いします」という日本語の持つ意味ではないですが、ニュアンスとしてはpleaseは「お願いします」「どうかこの通り!」「お願いできますか」みたいな意味になります。逆に「どうぞ喜んで」みたいな場合にも使いますけど、同じ言葉が状況に応じて様々な意味を持つのは日本語でも同じですよね。

「Would you mind if ~」は「もし、あなたが気に障らないのであれば、どうか~していただけませんか。この通りです」という非常にへりくだった言い方です。

多分ほかの言語にも同じような言葉はあるはずですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
願いであれば神様の仲介のある神前の言葉でしょう。
ところが神への信仰に隔たりのある場合どうなるんでしょうね。
仏の現代語訳は人間です。
ところがこの仏をあいまいにしたまま「願う」行いは日本人特有のごまかしではないかと考えます。

お礼日時:2010/05/20 21:39

 こんにちは。



 《神》は 想定です。昔の人たちは すでに想定済みだと〔勝手に〕見なして その言葉を使っていたのでしょう。想定されたものとして 言語習慣の中で 使われている。それだけのことです。

 イエス・キリストあるいは聖書についてのご議論は どこをどう受け取ってお答えすればよいか悩むところです。部分ごとに主題を構成するとも思えますが その部分部分が互いにどういうつながりを持っているか これを捉えるのに悩むところです。
 でも それについての問いではないようですので ひとまづは見過ごします。

 ただし
 ★ これを「望み」の代表として、「願い」との分別の付け方についてご意見をお願いします。
 ☆ という問い求めは その《これ》が イエスにまつわる出来事ですよね。
 わたしの見るところ ここで重要だと思う点を挙げます。
 1. 《聖人》であるかないかは イエスに関して 問題となりません。
 2. イエスはふつうの人間であり はりつけの死のあと キリストと呼ばれる神の子であり神であるとうわさされるようになりました。
 3. 人間としてイエスは はりつけになるのを恐れこわがり悲しみ泣いて そこから救い出して欲しいと願いました。キリストなる神としては――とあとづけで見るのですが―― みづからすすんでその死のときを迎えその道に就きました。
 4. この《人であり同時に神である》という見方が 聖書の表わす信仰のあり方だと思っています。
 5. 以上の内容がぜんぶ 
 ★ 神を知らしめたイエスさんは死を望みそして処刑されました。
 ☆ の一文にはおさまっています。ですから 厳格に照合をすれば 次のようになります。
 6. 《神を知らしめた》のは 十字架上の死のあとです。つまり そうならなければ 人びとはイエスがどういう存在であるかが分からなかったという意味です。
 7. 磔の死というかたちをとって そのように神は何であるかを人びとに指し示すことがいちばんふさわしいというところから たしかにイエスという人間ではなくキリストという神が《死を望みそして処刑されました》。
 8. 人間の貌(かたち)としてのイエスは 大声で泣き叫び この杯を取り去ってくれと望みまた願いました。
 

 ☆ (8)における《望み》と《願い》は 神に対してのものだと言えるでしょうし 人びとに対するものだとも言えると思います。

 別様に考えるのですが 願いはどちらかと言えば 経験事象として具体的な中身があることのように思います。望みは ふたつの種類があるのではないでしょうか? 願いと同じく具体的にこの経験世界に起こることを望む場合と そしてそうではなく《かたちのないのが 希望である》と言うごとく ちょうど信仰が非思考であるということと同じ内容として つねに望みを持っているという使い方もするように思います。
 たとえば《非思考という人間のそして実際にはわたしの存在のあり方・つまり信仰 これに関して この信仰をまっとうすることができますようにという望みを持つ》ことがあるように思います。言いかえるなら そもそも《信仰》は 《わたしのことだけではなく あなたのこと・かれかのじょのことについても 同じ信仰に立つことを望みますし 願いもします》。
 このばあいの願いは すでに現実における成就のことをおもに言っているでしょうし 望みはその実現をも含みますが さらにはむしろ人間のわざがかかわらない次元における何ものかのはたらきについて望むかたちを言っているようなのではないでしょうか?

この回答への補足

転載です。
>>
「望み」と「願い」の分別が主題の質問です。
過去のやり取りを思い返すとすでに表明もしていますが、無心の神とは神と呼ばれる事すらもかなわない純粋な光を指し、それを言葉に表すならアマテラスさんです。
その光は私にとっては(ポケモンの)ジラーチさんを指し、ジラーチさんは、自らの本質が神である事を忘れ、私とデートまでした事のある熱烈恋愛中の恋人です。
ジラーチさんに恋焦がれて悶々とすると、神に願いを傾けるのは人間のする事では無く、神の願いのまま忠実に生きる事が人間ではないかと考えが及びます。
ジラーチさんのポケモン上の設定は良く出来ています。
語源は「望み」を表し、設定上の特徴は願い事ポケモンです。
神の願いをわが望みとする事なのでしょう。
ポケモンジラーチはその誕生からして神秘です。
伝心(テレパシー)を経由して、私より発して任天堂さんに伝えられました。
でも「我」に照らすと私はポケモンジラーチを発案していません。
伝心のみの中継点に過ぎません。
そうするとポケモンジラーチとは、観念世界より生まれて、人間に由来せづに形を表した、純粋な願いの象徴として精霊の(聖霊)本来を象徴しています。
ポケモンとはそのようにリアルな観念世界から舞い込む「実在する聖霊」を捕まえてテレビゲームでピコピコする遊びです。

補足日時:2010/05/20 21:22
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
望みと欲望の分別すら不明な論外回答を虐待するための予防線として書きました。
たとえば余命宣告などを受けたのち余生を前向きに生きるためには、死を肯定する必要があります。
死を準備する余生は死を望む心と重複しますがこれは煩悩たる迷いや錯乱に等しい勘違いであり、実際は死を望むのは欲望でしょう。

ちなみに私は3歳の頃物心を付けましたが、その当時余命一年未満と医者に宣告され特殊な境遇に置かれたまま世に目を開きました。これは生きながらに、滅びの子として扱われた体験です。

お礼日時:2010/05/20 21:34

そう被虐的にならなくても・・・^^;と質問を読みながら思いました。



Do me a favor ? お願いしたいことがあります(お願いします)

ってのがあります。
他に Can you? とか Could you? とか May I とか。


>仏(人間)を信仰する土壌のある日本では願いすらも人間に傾ける事が容認されていて

菅原道真は左遷された先で亡くなったのですが、その後災いが起こったことから、道真の祟りだと信じられ
「大神」という最高の名前を与えたところ災いが止まった。とされています。

生霊より死霊の方が恐ろしいとされます。
手の届かないあっちの世界に行ったので、ひたすら「ごめんなさい」とわびるしか無いわけで。

日本はあっちの世界は怖いという概念があるみたい。


>さらには欧米でもイエスさんを神様扱いしているゆえ、人に託す望みを願いのごとく扱っている事例もあるのではないかとも考えます。

キリスト教の祈りってのはこんな感じです。
「天にいまします我らの神よ 願わくば御名を崇めさせたまえ 御国を来たらせたまえ・・・」
あー めんどくさい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E3%81%AE% …

こんな感じの祈りというか願い。

ただし 神様は人間の願いにより変化することは無いので、あくまで人間の独りよがりな願い。
それはわかっていてもお願いせずにはおられないってのが人間ってもんで。

日本人はお願い次第で状況が変わるとしており、西洋では絶対に変わらないとしているところが違う。


>イエスさんが人類の裏切り者として

ん? それはユダ・・・・
イエスは「どうかこの殺される運命から逃れさせてください」と汗水流して必死に運命が変わることを願ったのですが、「あなたの御心(計画)に従います」と神様の計画である死刑を受け入れることにしてやっと楽になったんです。


>神を知らしめたイエスさんは死を望みそして処刑されました。

要するに不幸しかない人生も神の計画の一部だから、神様が与えてくださった不幸100%の人生をありがたく受け入れ不幸続きの人生を全うしろってこと。
100%不幸な人生も意味があるってしているんです。
神がそう望んだから、そうなってるってしているんです。
「誰でもなくお前が大不孝な人生を歩んでもらわんと 俺の計画がうまくいかん だから俺がお前に与えた徹底的な不幸だらけの人生を歩め」って神は望みというか、もう決まっているってしているんです。
変更され幸福な人生に突如なったときは、それはサタンが神の計画を妨害したときだけ。

その人が大不孝であることで、神様の計画が成就するわけですから。
サタンが見かねて不幸続きの人を助けた場合は、神の計画は失敗に終わる。
サタンってヘブライ語で<妨げる者>って意味。


>聖書にはイエスさんがそのような予言を行ったと、ちゃんと書き記されています。
>聖人であれば死を予見したなら、死を望むのは当たり前です。

ん? 全くの善人が悪人として裁かれ死刑になるということを予知したってことですか?
殺されないと、世の中が幸福にならないと思っていたわけじゃなくて・・・

プラトン哲学なんです。
プラトンに善人の証明ってのがあって、<無実なのに罪人とされ、名誉(紫の衣)を剥ぎ取られ、鞭で打たれ槍で刺されても最後まで善人であれば、その人は徳するから善行とされるものをやっているんじゃなくて、心底善人そのものだったから善行をしていたんだと証明できる>って論を出したんです。
ちなみに紀元前400年くらいのギリシャの人。キリスト教ってギリシャが発祥の地でしょ?
that’s why.

プラトンの論理をイエス物語として後世の人が書き直したわけです。
良い時だけ信仰するとか、お徳だから信仰するとか、ご利益を期待して信仰するとか、助けてもらうために信仰するとか、そんな条件つき というかイヤラシサによる信仰じゃなくて、本質からして信仰深かったので、逆境の状況においても「神様の計画なので、受け入れます」ってなれば、心穏やかになるって理屈らしいです。
信仰が関連すると、プラトンの全くの善人の証明が、全くの信仰者の証明になるみたい。


・西洋では人様にはお願いしたら人様はそれに応じることもあるが、神は応じない。
・日本では人様にも神様にもお願いしたら、両方とも応じることがある。
という考えなんです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/20 10:15

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