武田信玄の外交方針についてお聞きします。

信玄は、駿河侵攻に際し、今川家、北条家との三国同盟を破り、両家とも交戦しています。
氏康の死後、北条家とは再び同盟を結んでいます。

ここで疑問なのですが、信玄は西上するに際して、本願寺や浅井家、朝倉家等とは同盟を
結んでいますが、北方の上杉謙信とは敵対したままです。強大な上杉家と敵対したまま
織田家、徳川家との決戦を迎えるというのは厳しい気がするのです。

越中の一向宗徒を扇動して、上杉を越後から容易に動けなくしたと聞いたこともあるのですが、
信玄ほどの戦略家なら、後方の憂いを絶ってから西上しそうな気がするのですが。

信玄は、上杉家と敵対したままでも織田家、徳川家を破る自信があったのでしょうか?

A 回答 (9件)

スタンス的には信玄の行動の最終目的が、上洛だったのかどうかというのは


個人的に中立的な立場なんです。(後述)

だからこそ前回投稿した分に関しても、西上作戦という言葉は敢えて使わず
(三河・遠江侵攻作戦)という造語で凌いだ訳です。
何故その旨に触れなかったのというは、質問の意図から若干逸れた内容
になってしまうのではという思いと、スペースの都合上。

まず元亀3年の出兵は、一度の遠征で動員可能な最大兵力で挑んだ且つ北条側からの
援軍2千を加えた2万5千人。これは総力戦だと考えて間違いないでしょう。

それから版図拡大の攻略方面が北か南かといえば(上洛云々を抜きとして考えて下さい)
南の徳川版図(三河・遠江)だという事に関してはこれは必然ですよね。
今川家弱体に伴い徳川は遠江、武田は駿河と領土拡大して、まだそれ程年月が経っていない段階。
在地の豪族勢力にとって政情がまだまだ不安定な状態ですから、状況次第でどちらにでも靡く可能性は十分あります。

織田軍に対しても直接対決する予定だったのかといえば、軍を3隊に分散してその一つ
秋山軍が完全に織田版図であった美濃岩村城を攻略して落城、これが今作戦の口火を切った初っ端の戦です。
故に、これは確実に当初からの予定通りの行動だったと考えられますから、その意思は十分あったでしょう。

最後に上洛に付いての考えですが他の方も書かれていますが、軍勢の多くは農民であり
夏前には帰還しないと、自国の農作業労働力が不足する事態に陥ります。
ですから翌年の春帰還に付いては信玄が亡くなる亡くならない関係無しに決められていた
当初からの規定路線であり、タイムスケジュール通りだったと思います。

中立的な立場というのは、同盟関係を結んだ遠国の大名・将軍家・一向宗・仏教勢力の諸々の反信長勢力の
行動が100%巧く機能したら、状況次第で京都まで行こうとの戦略が、実際に出兵前ににあったかどうかが
今現在わたしの頭の中で明確に結論付けられないという事です。
半年で京都まで行き、また引き返すのは無謀な事だとは簡単に言えますが、当時の情勢全てが武田側の望む
方向に転んでいたら、決して不可能な事ではなかったのではと思う訳です。
兵站については、それは上洛という大儀名分がありさえすれば、いざとなれば現地調達(略奪)でも何でもするでしょう。
後々の自分達に及ぶであろう損得で指し図ったら、千載一遇の機会に置いて地元領民の感情などは
二の次になる筈です。

わたし達が語る歴史というのは、あくまで事象が起こり変遷した結果論であり
その結果(事実)に残された史料・遺構・遺物を加味して想像する範囲内のものでしかありません。
その時その場の評定で、何が語られていたのかは本当の所分からない部分が多々あるでしょうし
その時代でしか感じる事の出来ない空気感・勢いといったものは、後の結果を知っている者の後付けで
いくらでも想像や歪曲出来るものだと思います。事実は真実とは大いに異なります。

当初の出兵の戦果最低ラインは、徳川版図の遠江三河両国を完全に武田勢力化に置く事であり
実際の歴史(事実)としましては、徳川圏各支城の予想以上の抵抗(篭城等)で、月日を多く割いてしまった
三河国止まりの時間切れの帰還であったので、信玄の死という想定外の事を差し引いたとしても
どちらかと言えば失敗だったのではとの個人的感があります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

興味深い回答を再びありがとうございます。

「>兵站については、それは上洛という大儀名分がありさえすれば、いざとなれば現地調達(略奪)でも何でもするでしょう」

↑ここなんですけど、信長は地元民を敵に回すようなことはあまりせずに、勢力を広げていってるのは
信玄も知っていたのではないかと。とすると、兵站を考えても、今の自分に京まで攻め上る力はない、と
結論付けてたのかなあと思いました。

「>半年で京都まで行き、また引き返すのは無謀な事だとは簡単に言えますが、当時の情勢全てが武田側の望む方向に転んでいたら、決して不可能な事ではなかったのではと思う訳です。」

しかし、↑のような状況も可能性はあったと思います。でもそうなったら、結局、京にとどまり続ける力を持たない武田家は自滅したのかなあという気もしますね~。

皆さんの回答を拝見していたら、やはり信玄はまずは三河、または遠江までを
自己の勢力化におけることができれば充分だったのかなと思いました。

そのためには、謙信を短期間だけでも動けなくしておけばよく、それを可能とするだけの外交力は信玄には充分あったと。とすれば、信玄から頭を下げて謙信に同盟を結ぼうとして、北信濃を豪族達に返還せよなどという要求を突きつけられることも考えられる状況であれば、北条や本願寺を動かす方を選びますよね。

皆さんの深い考察には感服しました。自分も戦国時代好きですので、島津家や北条家、浅井家などの
疑問がまだたくさんあり、煮詰まったらまたこちらで質問させていただこうと思います。
皆さん、どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/06/03 00:19

まず、単純に考えても 缶詰もないしね 


何百Kmもね(西上)、時期(季節)を考えたって
大勢で行くはずも行けるはずもない。
熊本の八連隊(これ昭和、負け知らずのまま南方で武装解除を受けた)
じゃあるまいし、兵站が伸びきって
おちおち、前を歩いてられないでしょう。

駿河、遠江の制圧が第一の目標、この完遂こそが
織田を袋のネズミにする戦略でしょう。
美濃口は後日のたれ歩ですよ。

連携国との段取りが蜜なはずはないし、大きな期待はお互いしてないでしょう。
遠巻きのけん制が確認事項だったとおもいます。

又、対越後策として、南の越中は本願寺と連携して上杉を刺激させ、
信濃口の海津城には春日山を睨ませ、
氏康の死後の息子には関東上野より越後侵入を臭わせる。
兵の数ではなく、三方向のいやらしさで、上杉にはったりを かます。
他国への出兵は360度、24時間議論の末のことでしょう。
謙信の動き、逐一の体制は想定内。
長期戦では極力直接対決を避け、死ぬ待つ つもりだったはず。

又、対徳川には  
どんな大名でも、いきなり いきますよなんてできないものですから、
事前に敵国の諜略は当たり前のシステム。
諜略は仕掛ける方も仕掛けられるほうも自明のことですが
時の勢い、力の強弱できまるもの

何年も前から、圧力をかけて屈服してくるものを増やして
実が頃合となって、仕掛ける。もっとも出血のすくない方法の採用が
戦国の常套ですよね

ですから、家康は岡崎には 下がれなかった 浜松でがんばることで
しか方法がなかった、下がったら味方の離反は大きく、完全に徳川は
消滅したのではないですかね


桶狭間の義元が、行ける筈も行くはずもない
(西三河尾張国境紛争戦)第一目標は西三河の制圧。
京に進攻、旗を立てるなんて考えもなかったのと同じ


切れば血が出ることは、今も昔も変わらない
ひとつの国はそうは簡単に侵略できないもの
上杉があろうがなろうが、
それに、越後は南北に長く東西に短い、守るのは大変。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>越後は南北に長く東西に短い、守るのは大変。

確かに。後に景勝も織田軍に複数の方向から攻めらそうに
なってましたね。越後は北が海だから攻められることがないので
有利と思い込んでましたが、そうでもないようですね。
とすると、謙信の動きを封じるのは、信玄の外交力で本願寺家や
北条家を動かせば意外にたやすいことだったのかもしれませんね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/03 00:04

徳川、織田をことごとくせん滅して上洛すると言う『すごく強い信玄物語』が間違いの始まりだと


僕は考えています。

実際はそんな構想ではなかったのだと思いますよ。
あの時期の信長はすでにせん滅できるような規模ではありません。
織田を倒せるなら北条でも上杉でも簡単に倒せます。

徳川を攻める→徳川の豪族を寝返らせる→あわよくば徳川をつぶす又は徳川を吸収する。
無理だったとしても大きく弱体化させる。→甲斐に引き上げる→再び軍を編成→寝返った豪族も行動に移す→徳川は動けない→信濃から美濃に攻め込む。

となってからの織田包囲網だったのではないかと。。。。
信玄の闘い方のほとんどが攻め込んで武威を示してから豪族を寝返らせて、迂闊に決戦はせず
領地を取るやり方です。なので西上作戦の時だけ敵中に切り込みながら進むような事はしないと思います。

上記の様に考えれば、上杉に対しても少数ですが防衛部隊を北信濃に配置しているのと一向宗徒で動けなくしているので、もし上杉が攻め込む格好を見せれば引き返せば対応できます。

でももしかしたら、現代と違い当時の人は正確に日本の大きさが分かりませんし、
俯瞰的なイメージで絶対見れないので金山などの収入があるとはいえ100万石そこそこの領地規模で
勝てる訳が無いと言う事が分かっていなかったのかもしれませんね。
東京のど真ん中に1人立たされ、北海道の真ん中に1人立たされて『どっちが広いですか?』て
聞かれても知識が無ければ見た目で判断できないですから。

信玄は自信があったのかもしれませんが、現代人ほどに信玄を過大評価はしていなかったと
思いますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>あの時期の信長はすでにせん滅できるような規模ではありません。

↑ここなんですが、いろんな考え方がありますけど、武田家だけでは
信長を倒すのは難しかったと思うのですが、信長包囲網がもう少し
うまく機能すれば(特に朝倉家)信長を倒すことは可能だったのかなあと
思います。その後の日本にとってプラスになったかどうかは別としてですが…。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/02 23:45

<参考>


 徳川家が、のちに長期政権を持つことになるので、徳川家の統治継続に不利となる多くの情報が失われたと思っています。

 その前提で考えると、信玄の西上作戦の不可解さ・侵攻コースや戦いの時間の掛け方などについて、いくつか現在一般に言われている説以外の可能性が見えてきます。

 具体的に言うと・・・
・進軍に際して、信玄から徳川家康に対して、相当多種多様な寝返り勧誘が行われたのではないかということ。この裏切り勧誘の記録が江戸時代に消滅し、織田への忠誠という徳川家康の篤実さ強調するような形になったのではないかと推測しています。
・優勢な武田軍の戦い方が、常に徳川軍の出方を窺うような、微妙な軍の動きを繰り返しており、三方が原の戦いでは、両軍の対峙が続き、軍が動き始めたのは夕方近くになってからであったことなど、徳川軍を殲滅する意思があまり感じられず、武田の強さを誇示するための戦いを繰り返しているように思えるのです。

 西上作戦は、二本立てで
1、徳川家康が寝返った場合、織田軍VS徳川・武田軍でこれは十分な勝機があり、京都までを目標とする。
2、徳川家康が寝返らない場合、徳川の領地を削減し弱体化を図り、次の機会を待つ。

 冷静に見て、武田は織田家以下の兵力で、他の反織田勢力が自分に都合よく織田の軍勢を釘付けにしてくれるなどという甘い考えで、兵站の長い京都への侵攻作戦を行う可能性は極めて低いと思います。
(食料の現地調達は、治安の悪化を招き易く、得策ではありません。)
 徳川家という味方を得れば、織田家の弱体化と兵站確保の両立が可能で、西上作戦の現実味が生まれます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

西上作戦は徳川家を味方にするか、徳川家の力を削ぐか…。

なるほど、それなら謙信を越中に釘付けにするのは比較的短期間でも
構いませんよね。
信玄がそのまま京を目指すという従来の固定観念にとらわれていては
いけなかったようです。

勉強になります。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/02 23:35

2です



どの国どの時代にでも言える事でしょうが、総力戦と称し主力大軍を率いた出陣・遠征の場合でも
防衛の押さえとして各拠点に留守居役の守備部隊は、程度の差こそあれ残留させるものです。
ましてや隣国(同盟国でさえ)との国境に配置された支城だったら、尚更の事でしょうね。

信玄の一向衆扇動作戦が巧く機能し、謙信は鎮圧に向け越中出陣。
更には越後領内に武田勢が侵攻するという(おそらく)嘘の情報を流し
謙信の出方を伺い、それでも越後への引き返しがないという事を十分確認してからの行動。

三河・遠江侵攻作戦のタイミング、まさに時は今といった感じではなかったのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>信玄の一向衆扇動作戦が巧く機能し、謙信は鎮圧に向け越中出陣。
更には越後領内に武田勢が侵攻するという(おそらく)嘘の情報を流し
謙信の出方を伺い、それでも越後への引き返しがないという事を十分確認してからの行動。

信玄としては、北方には万全の体制を敷いてからの西上作戦だったのですね。
しかし、逆に考えると、信玄は謙信との同盟を結ぶことは考えなかったということでしょうか。
…信玄もそれが無理だから一向宗で謙信を釘付けにするやり方を選んだのでしょうね。

再びのご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/01 22:08

西上した頃、織田は本願寺の伊勢長島や、浅井・朝倉とも対峙中な上、京都では足利義昭が挙兵する始末だった。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/02 23:29

考えてもみてください。

当時は弱肉強食の戦国時代です。もし信玄が謙信と同盟を結び(そのこと自体が共産党と公明党が連立を組むくらいありえない話ですが)、そして高坂弾正を西上作戦に率いてその隙に謙信が裏切って武田領に攻め込んできたらどうでしょうか?これがゲームなら「同盟している相手には攻められない」とルールができますが、現実社会は何でもありです。
謙信公もバカじゃありません。目の前ががら空きだったら容赦なく切り取ります。そういう時代です。

仮に高坂弾正を連れてきたとしても、その数は千人程度増えるくらいではないでしょうか。さほど大勢に影響を与えるほどでもなかったでしょう。文字通り根こそぎ動員すればもっと大軍になったでしょうが、もしそんなことをしたら謙信どころか北条軍も武田領に攻めてきますよ。

信玄の西上作戦は、戦略家信玄の白眉ともいえるものであったと思います。謙信に対しては越中で一揆を扇動して牽制しています。美濃へは別働隊が侵攻し織田軍に対して中仙道からの逆侵攻を防いでいます。北からは浅井・朝倉軍が琵琶湖北方に展開し、織田軍主力はこれに対するために動けなくなりました。
大阪では三好三人衆と一向一揆が活発化し京都への信長の支配力は不安定になります。大和では松永久秀が裏切りました。これらへの対応で信長は家康に対し有効な救援が全く行えなくなりました。
そのため家康は百戦錬磨の武田信玄にほぼ単独で対応しなければなりませんでした。しかもその侵攻ルートは東西に長い家康領の中央を分断するもので、家康は岡崎に撤退するか浜松に留まるか難しい選択を迫られ、結局浜松に留まり三方ヶ原の合戦で生涯最大の敗北を受けます。三方ヶ原で家康が戦死しなかったのはひとえに彼の野戦指揮能力が信玄や謙信に匹敵する超一流のものであったことと、徳川兵もまた武田兵に匹敵する精強な軍隊であったためです。
あれ以上の作戦は、信玄をもってしてもそう滅多に行えるものではなかったと思います。ただ、かくいう武田軍も半農半兵であったので長期作戦は行えず、適当なところで撤退せざるを得なかったと思います。上洛ができたかどうかは微妙だったでしょうね。仮に上洛できたとしてもそれは極めて一時的なもので、政治的に影響を与えることは不可能であったと思いますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

たしかに…。謙信と仮に同盟を結べて、高坂弾正を西上に連れて行ったとしても、
裏切って攻め込まれたらどうしようもありませんよね。ただ、謙信は一度結んだ同盟を
破らないのではという思いもあるのですが…。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/01 22:02

謙信が一向宗徒勢鎮圧の為、越中に向け春日山を発ったのが元亀三年八月。



信玄が大軍を率い甲府を発ったのが同年十月。

なので謙信の動向を、十分に確認した上でのタイミングを見計らった出陣、
完全に後顧の憂いを絶っていた状態だったと思いますよ。

越後勢南下の押さえとして海津城には高坂昌信が依然駐留していましたし
逆に同年九月には、越中出陣中の謙信の耳に、武田軍が春日山へ侵攻する
という報が飛び込んできて(これも信玄の霍乱作戦でしょう)
春日山城警備強固を厳命していたくらいです。

実際、謙信が一揆勢を鎮圧し春日山城に完全帰還出来たのが翌年四月の事です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

謙信が越中に出陣したのを確認してから信玄は動いたのですね。

ただ、押さえとして高坂昌信を駐留させていたというのがもったいないなと
思うのです。

信玄ほどの軍略家なら謙信と表面的にでも同盟を結んで、高坂昌信も西上作戦に
同行させられたのではないかと思うのです。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/30 22:40

西上作戦開始時期を見てください。

9月です。

冬の間は上杉家は軍を出すことができず、春先は田植えの時期なのでこれまた軍を出すことが難しい状況です(例えば川中島の戦いも第一次から第五次まで4月から8月に出兵しています)。したがって、上杉家が甲信地方に侵入するまでに、少なく見積もって8か月近い時間があります。

その間で三河(可能であれば尾張まで)に勢力を伸ばし、徳川家を駆逐するというのが基本戦略でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど。正常作戦開始時は上杉家は動けない時期だったのですね。
それを見越して信玄は正常を開始したわけですか。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/30 22:36

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

今、見られている記事はコレ!

おしトピ編集部からのゆる~い質問を出題中

お題をもっとみる

このQ&Aを見た人が検索しているワード


このカテゴリの人気Q&Aランキング

おすすめ情報

カテゴリ