アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

火縄銃が国内の戦で最初に使用されたのはいつ、何の戦いだったのでしょうか。
また、国産品だったのでしょうか。
火薬はどのようにして調達したのでしょうか。

技術史系のある本では、
「薩摩の島津、豊前の大友、安芸の毛利氏など西国の戦国大名が守護大名を打倒した合戦で初めて鉄砲が使われた。天文年間の終わりごろだろう」と書いてあります。

Netではいろんな情報が飛び交って、どれが正しいのか判断できませんでした。
正確なところは不明のような気がするのですが、詳しい方、教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

文書上では1542年の尼子と大内の合戦で、尼子晴久の軍が20挺使用したという記録(原典・雲陽軍実記)が最初です。


鉄砲伝来が1543年となっていますw
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
質問するとその返信を書くために勉強しますので、よい刺激になります。
「尼子晴久の軍が20挺使用したという」のは「火縄銃」でしょうか。
火縄銃であれば、入手ルートが疑問です。
当時の西国の諸大名は、結構、海外と取引していたはずですから、新しい文献史料がいつか出てくるかも知れませんね。
これも夢のある話です。

お礼日時:2010/06/15 11:05

屋久島の楠川集落において日本で初めて鉄砲が使われたとして


集落の祭りでは紹介しています。

参考URL:http://373news.com/modules/pickup/index.php?stor …
    • good
    • 1
この回答へのお礼

楠川城という名の城があったのですね。
貴重な情報をありがとうございました。

お礼日時:2010/06/16 21:34

火薬については、硫黄の多くと硝石のほぼ全量が輸入です。


戦国時代に南蛮貿易が急速に拡大したのは、この火薬確保を目的としたものです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
戦国時代、硫黄と硝石については輸入に頼っていたのですね。
解りました。

お礼日時:2010/06/16 21:16

 鉄砲の伝来に関しては確固たる証拠がございません。

長年に亘りまして種子島家の『鉄砲記』とポルトガル商人の記録の一致を根拠に1543年としてきたのですが、近年の研究で『鉄砲記』が100年以上後に書かれた文書で、鉄砲の形状自身がポルトガル方式ではない形状が日本で流布しているため、どうも鉄砲記は信憑性の無い文書というのが学術上の解釈となっています。この論の中心人物が宇田川博士です。
 また、現在に至るまで戦国期の火縄銃と証明できる物はほとんどございません。戦国期には真鍮が存在しません。ですが、現存する火縄銃はほとんど真鍮製のカラクリとなっています。つまり現存する火縄銃のほとんどが江戸時代の物なのです。

 日本に普及している火縄銃はマラッカ方式という東洋の方式です。また日明貿易の主要産品として硫黄やグアノ(火薬の原料となります)があります。日本に火縄銃が持ち込まれた年代は不明ですが、尼子や大内は独自に明と貿易していますので、火縄銃が持ち込まれてもおかしくはありません。特に大内は応仁の乱に長期出兵して京都を焼き払った犯人の一人です。最新兵器に手を出さない訳がありません。

 尚、日本に鉄砲が持ち込まれたのは元寇です。長年、蒙古襲来絵巻を根拠に『てつはう』は炸裂弾と思われてきましたが、あの砲弾は江戸時代に書き足された物であることが判明しています。元には1260年から火筒という竹製及び青銅製の初期型鉄砲が存在しており、元寇で持ち込まれていないとは言えません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

>尼子や大内は独自に明と貿易していますので、火縄銃が持ち込まれてもおかしくはありません。

私も同感です。
そうであれば、「尼子晴久の軍が20挺使用したという記録(原典・雲陽軍実記)が最初」ということになるわけですね。
しかし、「持ち込まれた」という記録がほしいですね。
そんな史料が見つかることを期待しています。

お礼日時:2010/06/15 20:49

 禰寝氏と種子島氏が屋久島の領有権を巡って戦いました。

天文十三年(1544)1月4日から始まった種子島氏の屋久島奪還作戦は、新兵器「鉄砲」の威力・殺傷力によって禰寝氏の兵は簡単に降伏したとされています。
 ただ、この時使用された鉄砲は、暴発し易い欠陥銃だったようで、鉄砲の改良はこの戦いの後も続けられたとされています。
 火薬の製造も篠川(ささがわ)小四郎が製造技術を教わり現地生産していますが、その火薬がこの戦いで使用されたのか、到来物だったのかは明らかではありません。原料の硫黄は硫黄島等から入手、木炭は種子島の製鉄用の木炭を使用、硝石は種子島の西之表市塩硝田で製造していたようです。原料は動物遺体や糞尿等だったようです。 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
鉄砲は、種子島に最初に持ち込まれたのですから、種子島氏が実戦に最初に使用したというのは、ムリのない説ですね。
鉄砲伝来を1543年9月23日説とすれば、その翌年の戦で使用された鉄砲は、国産品ではないということになりますね。
「種子島氏の屋久島奪還作戦」をよく知りませんので推測ですが、種子島氏は史実の2挺以外に購入しており、この戦に備えていたのかも知れません。
硝石は、仕込んでから良質の物を得るのに7,8年かかるそうですから、
「種子島の西之表市塩硝田で製造していたようです。」
という話には興味があります。
私は、単なる「歴史好き」で想像することを楽しみにしていますので、
ご回答の話からいろいろ想像しています。

お礼日時:2010/06/15 09:47

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!