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山内容堂と武市半平太の関係について教えてください。
始めは、容堂の志を武市は隠居させられた老公(山内容堂)の志を継いでいたと思うのですが、
なぜ、途中からは敵対するようになってしまったのですか?

A 回答 (2件)

これは簡単な話で、武市は容堂の駒の1つだったわけです。



悲しいかな、お国柄もあります。
長州などは、部下からの進言に対してなんでも「そうせい」といってきた
ことから「そうせい候」といわれる毛利敬親がおり、主従関係が奇跡的に
円滑でした。薩摩の島津斉彬も、部下を育てようと、国の情勢を熱く説き
ました。しかし、土佐には身分制度というものがあり、上士と下士に分か
れています。上士から見れば、下士は虫ケラ以下の存在で、対等に話する
こと自体ご法度なぐらい厳しい身分差別がありました。

容堂の考えは、基本的には公武合体派(公家と幕府が治める世の中をつくる)
です。まぁ殿様レベルで、「私は尊王攘夷派(幕府ではなく天皇が治める世の
中をつくる)です」と言う人もいないかと思いますが。しかし、この容堂公は
ズル賢い、というか狡猾というか、長いものに巻かれるのが得意な人です。
世の中が尊皇攘夷派の流れになっていれば、土佐の国で尊皇攘夷に動いている
人物を引き上げ、その人物が中心になる動きをさせます。この場合、武市です
ね。本来は、容堂に注進する上士の人がいたのですが、それを影で操っていた
のが、下士(白札郷士に格上げされましたが)である武市でした。身分上は
上士になったものの、元は虫けら以下の下士です。なかなか容堂にお目見え
する機会はありません。他の尊皇攘夷の上士と共に、何度も容堂と接する機会
があれば、あれほど妄信的にならずに済んだかもしれません。

さて、世の中が尊皇攘夷派から公武合体派に移ろっていくと、武市はもはや
価値なしと判断し、処罰の対象にします。それにより、幕府から「土佐も
不穏な輩がいたように思えるが」と問い詰められた際に、「勝手に攘夷の旗を
掲げていた下士がいましたが、すでに処分しました」と体裁よくすることが
できます。公武合体派の人物を推挙し、時流にのります。

ってことで、武市は土佐のため!と力を振るっていたのですが(容堂も好きな
ようにやれ、と言っていたし)結局のところ容堂にいいように使われていた
だけの存在ということでした。

蛇足ですが。。。
武市を処罰した後、世の中はまた尊皇攘夷派になります。これに焦った容堂は
後藤象二郎と板垣退助を用いて、長州に接しますが、盟友である武市を処罰した
土佐を信じません。そこで中岡慎太郎に接して、長州との架け橋になってもらい、
坂本龍馬に接して、薩摩との架け橋になってもらいます。その後、明治になる
前に、中岡、坂本とも暗殺され、後藤や容堂などが生き残ります。その際に、
長州の桂小五郎から「容堂公はなぜ武市を処罰されたのか?」と問い詰められ、
何も言い返せなかったというエピソードもあります。また、武市の奥さんで
あるお富に対して、後藤と板垣は「武市を処罰したのは我々の間違いだった」
と頭を下げました。明治数十年過ぎて、やっと武市のことが認められて瞬間です。
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敵対?


敵対というのは、対等な間柄で使う用語。

容堂
方針A の時は Aの方針を実行する部下を厚く遇する。
で、方針Bになれば、Aの方針を実行する部下は冷遇するか、捨て駒にするかどっちか。
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