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引用、主観なんでも結構です。宗教、科学、哲学、芸術の定義を教えて下さい。

A 回答 (4件)

 こんにちは。



 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。

 ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。
 こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。
 このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。

 この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

   神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているならば――つ
  まりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちとして気づくと
  きその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すこともなければ むさぼる
  ことも裏切ることもなかろう。

 といった規範を得る。
 この規範を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。
 一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。

 《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。あるいは どの人の思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。
 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。
 
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この回答へのお礼

参考にさせて頂きました。ありがとうございました。

お礼日時:2010/06/27 21:08

補足要求


回答凡例から推察いたしますが、

どんなでたらめを書いても認められる
と解釈してもよろしいのでしょうか?

この回答への補足

とりあえず、何でもOKです。来るもの拒まず、去るもの追わずです。

補足日時:2010/06/27 21:10
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以下のように荒っぽく捉えています。

ご参考までに
 宗教、哲学、科学、芸術、数学の第一目的は『人類の延命を願っている』ということで同じと思います。手段が異なるのです。手段を定義すると
宗教:信じる+体系創り
哲学:仮説+検証
科学:仮説+科学的検証
芸術:感動共感の訴追
数学:仮説+論理学的数学的検証

定義のなか哲学と科学、哲学と芸術 及び哲学と数学は相当重なっていると思います。哲学は仮説は 納得性、説得性について念入りに幅広く大いに議論されます。哲学の検証は一過性あるいは不十分であっても仮説の重要性が認められることがあります。科学の場合はその検証が重要であり 検証は条件がそろえば誰でも何時でもどこでも検証出来ることが重要となります。科学は一つの哲学である と理解しても問題はないと思います。逆に言うと 哲学は科学との整合性はとってないとないといけないと思います。哲学の仮説の非論理部分の開示は芸術の創造物と同じ意味をもつ可能性があります。哲学は述語で、芸術は創造物ということです。この部分の小説に至っては哲学と芸術の区分ができないとおもいます。 数学も哲学と同じく仮説と検証という構造ですが 検証は論理学的数学的検証であり重要です。哲学は 数学との整合性もまたとれてないといけない と思います。大きな関連事項としては、論理検証の方法には限界があることをゲーデルが証明しております。  

この回答への補足

(1)宗教:信じる+体系創り
(2)哲学:仮説+検証
(3)科学:仮説+科学的検証
(4)芸術:感動共感の訴追
(5)数学:仮説+論理学的数学的検証

(1)について、同感でした。さらに、一人の直感でよい。実証不要。証明してもよし。一人の人間の体験は事実ではあるが、他人に普遍的に応用できる真実であるとは限らない。よって、証明不要。絶対真実の保証もない。それでいい。
(2)哲学は、論理的に究極の「真理」にたどり着くまでの謙虚な作業。脳と身体の両方でやるのが本物の哲学。ヨガ(世我、世と我のむすび)は実践本物哲学のひとつ。なぜなら、心と身体、世と我の調和を目指して、求め続けるものだから。俗なヨガではちょっと違いますが。俗な哲学は脳だけの、偏屈なものが多い。
(3)科学は、同感。検証がカギでしょう。俗な宗教は検証せず、ごり押し。妄信。科学は実証主義。しかし欠点、限界はそのことが墓穴になり、実証にこだわる科学知識では、永遠存在の宇宙を説明できない宿命を負っている。客観証明でなければ、ならないという性質上、究極の宇宙生命解明、証明は無理。
そのため、宗教が代替になることになる。科学も宗教も「原理、単一性に収束させたがるくせを持つ」哲学は、断定せず仮説の提案がその本領か。宇宙の真理は、哲学的仮説の中にこそある。
(4)芸術は、個性の主張。単一性とは対極にある。よって、宗教芸術はありえない矛盾。よくあるのは宗教美術、造形で、芸術ではない。芸術に美醜の評価はあたらない。へたうまもない。あるのは個性とそれを表現する技術。
(5)数学は、徹底的な完璧を求める妄想の世界と、近似値実用の現実の世界と妥協する算数と混在する。
もっとも、究極の数学は哲学になるだろう。虚数の大家の哲学者牧島象二氏は虚数によってあの世の存在を証明している。量子論は数学の矛盾を解決した。量子論はヨガ哲学と同じである。

いずれの分野も、究極を治めれば、人類礼賛において同じになる。

ご回答に触発されて、思い付きを書きました。

ご返答いただければ幸いです。

追伸:哲学を大切にしましょう。

補足日時:2010/06/27 21:46
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定義にこだわっていられますが、たとえばこの宇宙を構成する情報が、


「理科」や「社会」、「数学」、「国語」といった形に分かれている
かというと、それらが有機的に一体となったものが宇宙なのです。

ご提示のカテゴリーは、人の営為において便宜的に生じたもので、
「神を扱えば宗教」、「全体的な価値観や体系性を扱えば哲学」、
「情緒的な嗜好をベースとすれば芸術」などと大雑把な話はできますが、
現実には宗教が科学であった時代もあれば、今や科学に哲学性が派生
していたりしており、その時代、その状況において、実用的・現象的
に分けるべきもので、それを厳密に定義しようとすると、例外だらけか
込み入った条件(しかも便宜的)を伴うものになります。
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この回答へのお礼

ご回答恐縮です。哲学を広めましょう。

お礼日時:2010/06/27 21:47

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