日本の歴史における仏教の位置について。仏と物
日本の歴史における仏教の位置について。仏と物
先日ふと気がついたのですが、仏と物は同じブツと読みます。
そこで、仏は人偏にムと書き、なにか、あってないようなもの。
そして、物は例えば、植物、動物、物語、万物、というように使われます。
こう考えると日本語のなかにはかなり仏教が取り込まれているんだと
関心します。
私たちの世代では正直、仏教に関して教えを受けませんでしたが
歴史的にみると矢張り日本では仏教はかなり重要にされていたのか
とも思います。これについてコメントと
どれくらい重要だったかわかれば教えていただければ
うれしいです。
#3です。
私の文章を投稿してから驚いたのですが、肝心な字が「?」となっていました。中国の簡体字は文字化けしてしまうのですね。その字は、そこでも書きましたが
「火の上に一」
と書いた文字です。
先ず、貴方は ? とい字を何と読みますか。火の上に一、さあ何でしょう。
実はこれは現代中国の簡体字で 滅 のことです。後世の人達は、この「?」が何故「滅」なのか、いろいろ、深遠な説を出して来るでしょうね。でも深い意味はありませんでした。手間を省くために、いろいろな部分の情報を落し、手っ取り早く書く方法を見付けただけですね。仏も同じです。佛の情報を落して、手っ取り早く書いただけです。学問の恐ろしさは、それとは気がつかず、深遠な意味を見つけ出そうとしてしまうことがあるところにありますね。
「アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけて、われわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ、好奇心を満足させるためでなくて何であろうか。、、、難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。、、、
彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である。、、、
なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ。」
モンテーニュの言葉です。
それよりも、仏や佛には「ほとけ」という訓読みがありますね。訓読みとは日本古来からあった言葉で、中国から輸入した言葉ではないということですね。ということは、日本には中国から教わる以前に仏という概念が存在していたということですね。そちらの方が、つい最近アメリカに占領されて以降、佛の字を仏、すなわち人にムと書くようになったことよりも遥かに深い問題だと思いませんか。
この問題は既に日本民俗学者達に気がつかれていて、私の好きな柳田國男が徹底的に論じています。鞍馬天狗の作者で有名な大佛次郎の苗字をなぜ「おさらぎ」と読むか。凄い謎ですね。答えは、大佛がお皿と関係があるからです。そんなことが、
定本柳田國男集、第十巻、筑摩書房、の中の「先祖の話」
に書いてありました。
この回答へのお礼
ご回答、どうもありがとうございました。
御礼が遅くなってしまってすみませんでした。
漢字の歴史はおもしろいですね、
定本柳田國男集、機会があったら読んでみたいです。
参考になりました。
仏教が東南アジアに広がったのは、そもそもその地域の文化の
根底にある稲作農耕文化は、土地に定着し、年周期で生産する、
集団主義的な性質がもともとあり、欧米のキリスト教や中東の
イスラム教のように遊牧系&大陸系の我の強い文化をして、
発達する社会性に適応させるための一神教の強力な教義=
他律的社会性=足カセとは違い、ふだんの生活で困った事
(雨乞いや豊穣)を何とかしようとし、また人知では及ばない事
(創世記や死後)を安心させるための、祈りの対象=儀式宗教で
十分だったからです。
その証拠に、同じ仏教でも、インドから北の遊牧地域に広まった
チベット仏教は、「ラマ教」と別称されるように、転生し続ける
1人のラマに帰依し、五体投地による聖地巡礼など、一神教的な
側面を派生させています。
ひるがえって日本は、そのような稲作農耕文化圏の中でも、
より集約性の高いジャポニカ米耕作地域(温帯モンスーン&
常緑照葉樹林帯)で、かつ別の意味で集団主義的な島国文化も
重なって、世界でも有数の集団主義国家となり、工業化における
大量生産に適応して、「アジアの奇跡」と言われる独自の
発展を可能にしたのです。
その集団主義=周りに合わす適応力は、近代の工業化だけでなく、
古来よりの中国からの文化移入にも発揮されたのはご存知の通りで、
そうした包容力こそ、多神教である仏教(特に大乗仏教)の特質
でもあり、日本そのもののあり方とも重なっているのです。
そうした「集団主義」も、稲作は遠くなり、濃厚だったコミュニティ
も核家族化や共働きで希薄化し、詰め込み教育と点取り競争で育ち、
長じては、終身雇用の家族的経営も小泉派遣社会化政策で崩壊し、
格差社会の拝金主義が蔓延し、自己チュー化する一方で、もはや
『奇跡』の再来は望めない。
「常緑照葉樹林帯」のもう一方の端に位置し、仏教を国教とする
唯一の国で、しかも日本と同じ大乗仏教(他の南アジア全域は
上部座仏教=我々から言えば小乗仏教)であり、「GNP(国民総
生産量)ではなくGNH(国民総幸福量)を発展の指標とする」を
国是としてかかげる、ヒマラヤ山中のブータンこそ、即物主義
西洋文明に毒されなかった生きた化石=ヒマラヤ山中に生き残った
雷鳥として、袋小路に行き詰った人類文明を救うかも知れません
(太平洋の孤島に生き残ったイリオモテ山猫の方は、国を開くのが
早過ぎて、歪んだ形で特質を発揮し、既に毒されてしまいましたが)
この回答へのお礼
御礼が遅くなってしまいすみません。
自分の予想とまた違った観点からのご回答、でした。
<「奇跡の再来はない」
そうかもしれないですね。この先の人生が考えさせられます。
日本の再発展は難しそうですよね。
どうもありがとうございました。
>>歴史的にみると矢張り日本では仏教はかなり重要にされていたのかとも思います。
そうですね。日本は、仏教が伝わるまでは、天皇をトップにした「神道」を祭って政治をしていたわけです。が、「神道」は、「神道は宗教ではない」とも言われることがあるように、キリスト教やイスラム教のような一神教には当然ある「教え」が無く、「形式」のみって雰囲気があります。
そして、仏教が中国・朝鮮を経て伝わった6世紀ころは、日本は鎖国を続けていて、欧米に大きく遅れをとっていた江戸末期と同じ状態であり、「中国・朝鮮に追いつけ、追い越せ!強大な大陸(隋)の属国にされてなるものか!」と必死になって仏教だけでなく、建築や天文学などを学んだわけですね。
聖徳太子は、「日本を大国に!」という夢の実現に向けて、日本の国家宗教を「神道」中心から「仏教」を中心に据えられて、さらに政治体制そのものを変えるため「冠位12階」を制定され、服装や髪型を「大陸風」に変更されました。
翌年の604年には、憲法17条を制定されました。その内容は、現代においても通用する民主的なものです。
ただし、国の宗教を変えるのに、人々がすんなりと従うわけもなく、仏教を信じる蘇我氏のグループと、日本の従来からの宗教である神道を祭る物部氏のグループの対決となり、仏教グループは、炊屋媛(かしきやひめ、のちの推古天皇)を中心にすえての戦がありました。
この戦いで、蘇我グループが破れそうになったとき、聖徳太子は、木で仏像を作り「勝利のあかつきには、寺をたて仏教の教えをひろめます」と誓い、その仏の力もあり、迹見 赤檮(とみ の いちい)の放った矢が守屋に命中し、蘇我グループは勝利を得ます。(このあたりは、ちょっと変なマンガですが”日出処の天子”が面白く描かれてますね。事実とはかなり違うみたいですが・・・)
また聖徳太子は、通常なら、隋に対して、通常なら貢物をもって下手にでるところを「日出づる処の天子書を日没する処の天子に致す」として強気な対等外交を挑みます。(当然ながら、隋の皇帝は怒り狂ったそうですね。民主党の600人訪中とは大違い!)
まあ、当時としての”近代国家日本”を創ることは、仏教なくしては無理だったということでしょうし、また、大天才である聖徳太子なくしては、日本に仏教が広まることも難しかったと思えます。(太子は、7日7晩仏堂にこもられて、「法華経義義疏」(法華経の解説書)をはじめとして、勝鬘経、維摩経の義疏も記しました。)
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
御礼が遅くなってしまいすみません。
聖徳太子の時代からですもんね、日本が大陸から
侵略されなかったのはそこかな、と思いました。
しかしながら現代はアメリカのいいなりですが。
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