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中国の共産主義思想

1900年以降の中国史はまさに侵略者との戦いだと思います。この間に中国に共産主義が伝播されていったわけですが、その伝播の過程について知りたいのです。

そもそも東洋思想であった中国がどのように西洋思想に傾向していったのか?
当然にして不平等条約の締結等、侵略的行為に対する戦いもあっただろうと思いますが、詳しい事情は知りません。
一般の人民に伝播されていった過程を教えてください。

A 回答 (3件)

こんにちは。



1900年以降、そもそもどこの国でも共産主義思想=マルクス主義は
インテリ層を中心に少数ながら伝播していました。
それが中国の共産革命にむすびついたのは、共産主義思想そのものが
支持されたということではないのです。

そうではなく、1911~12年の「辛亥革命」が肝心の農民からの支持を得ることができず、
また、中国各地に存在する実質的な権力である「軍閥(大代地主など)」たちの
復活の前に、遅々として民主化が進まぬ状況にあったことが原因なのです。
そう、農民たちは明らかに不満、だったのです。

中国の農民の支持を勝ち取ること。それが革命においての急務であり、
それがむしろ社会の平等を目指す共産思想と一致した、という
見方の方が現実的です。
一般農民にとっては共産主義思想は後付け、なのです。

思想的にではなく「現実的」に毛沢東軍は農民からの支持を集めていったわけです。
「君たちの生活を楽にしてやるぞ」と。
大多数の農民たちはマルクス理論を知る由もありません。

大多数の農民たちからの「現実的な」支持を受けることによって、
それから、一部のマルクス主義者による共産主義思想の徹底化が
行われていったわけです。

URLも参照してください。



参考URL:http://www.kitanet.ne.jp/~takashi/1bu-kyou/1bu-k …
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この回答へのお礼

レスありがとうございました。

共産主義は後付で、実際に農民は生活苦から革命に到った。その指導者は毛沢東が代表的であり、その後、共産主義政党が樹立。

その後、国民に対する思想教育が始まり、。。。

そして文化大革命に至り、それまでの東洋思想を破壊していった、、、 とこのような流れて解釈いたしました。
文革自体は毛沢東の権力意地欲によって強行に行なわれたと言う話も聞いたことがあります。

そのため、鄧小平ですら危険が迫っていたとの話です。 

やはり毛沢東権力が確立し、その後、農民に伝播されていったのですね。


今回はレスをいただきありがとうございました

お礼日時:2003/07/18 18:10

>1900年以降の中国史はまさに侵略者との戦いだと


>思います。この間に中国に共産主義が伝播されていった
>わけですが、その伝播の過程について知りたいのです。

結論から言えば、国共内戦で国民党が共産党に負けたからです。
それまでは中国共産党は中国内でも少数派でした。

ところが政権を握っていた国民党の腐敗があまりにもひどく
国民の大多数を占める農民の指示を得られなかったこと、
一方の共産党は農地解放を断行し、貧しい農民の支持を得る
ことができたこと、毛沢東が指揮するゲリラ戦が巧みで、
国民党軍が負けつづけたことが挙げられます。

いったん国土の大部分を確保してしまえば、思想改造は簡単
でした。
その最後の仕上げが悪名高き文化大革命で、これによって
中国の伝統であった儒教文化が反革命と定義づけられて、
徹底的に破壊される結果となります。
|孔子の直系子孫でチャイニーズドラゴン新聞 編集主幹
|の孔健さんの自伝を読むと、儒者に対する迫害・弾圧が
|どれほど凄まじかったか、手にとるように実感できます。
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この回答へのお礼

レスありがとうございます

儒教は確かに歪曲解釈すれば、上下関係を厳密に作り上げる思想ですから。
東洋の権力者には長い間利用されてきたと思います。

農民からの蜂起は共産主義革命では必須ですが、そもそもマルクス主義については農民は知るよしもなく、開放の英雄が現れそれを支持したということでしょうか?

お礼日時:2003/07/18 12:46

「長征」と「八路軍」で検索すれば毛沢東率いる共産党軍の浸透の様子がわかるでしょう。

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この回答へのお礼

ありがとうございました、早速検索してみます

お礼日時:2003/07/18 05:12

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