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哲学における宗教の意義を、皆様はどうお考えになりますか?
大学の講義の課題で出たのですか、どこから考えればいいのかさっぱりで困っています。
色んな方の意見を聞いて、参考にさせていただければなと思います。
取っ掛かりのヒントだけでも大歓迎ですので、よろしくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

シンプルに考えてみました。



簡単にまとめた意見で恐縮ですが、
【哲学】は、すべからく明晰さを中心においた思考と思います。
【宗教】は、心の中の不明瞭な恐怖や尊敬の念を束ねる機関と思います。

哲学と宗教の相違点では、
【哲学】は自己の思想を中心とした精神行動で、【宗教】は既存のオーソリティーを中心にした精神行動となります。

生命の存在を脅かすイベントの多い世の中に生きていると、自分一人だけでは処理できない事も多々あります。
戦争や飢餓、天災などで、又は人間関係の不和や不調などです。

哲学も宗教も持たない人が上記のイベントに遭遇したと仮定し、当事者がどのような精神活動を持つようになるか?

こうのように考えれば、哲学と宗教の関係性が、ある程度は見ててきませんか?

人間の心を中心に、どちらの精神活動に振れるか、ということだと思います。

参考になりましたでしょうか?
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無情の真理に調和の役割を担って社会生活に現実的な知恵を授けると思います

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 こんにちは。



 定義をしていけばよろしいのでは?

 或るものを《知っている》ともし言ったなら――その当否は別として―― そのものについて分かっているということです。
 世の中のことを知っているというのは 世の中のことが分かると言っています。いやいや 男女の仲はまだまだ分からないことがあるというのは それでもそれを《知り得る》という前提があります。
 世界のことが分かるというのは そういう未知のことがらがまだあっても 《知り得る》という前提に立ってものを言っています。――これは 経験科学が担当する仕事です。

 経験科学が ではもし《知り得ない》と言ったら それはどういうことなのか? 
 けれども 《知り得ない》と言うのなら《知り得る》ところとの境界についても知っていることを意味します。だとすれば 《知り得ない》というのは 《〈知り得ない〉として知っている》ことになります。
 と考えてくるなら 世の中には 《知り得るか知り得ないか それを知り得ない》ということがらがあるのではないでしょうか? どうでしょう。
 この《なぞ》をナゾとしてそのまま受け容れる行為が 信仰です。
 そのあと このナゾは無だと言いたければ言ってもいいし いや有る・神として有ると言いたければ言ってもいいことになっています。《分かるが分からないかが 分からない》のだから 二つの受け取り方が自由にできます。

 この《信仰》から 《宗教》が出ます。
 有神論と無神論とに分かれた〔個人の〕信仰についてみれば そういう名づけだけに限れば やはり個人の信仰のあり方を説明しただけのものです。そうして その神を信じなさいとか いや無神ということが真理なのだから無神論を信じなさいとか言ったりすれば これは宗教の始まりです。組織を持ちその《信じなさい》の中身を神もしくは無神がどうでこうだああだと説明をつけ加えこれを《教義》とし始めたら 明らかに宗教が出来上がります。
 一般に《キリスト教を仏教を信じる》と言ったりしますが これは言葉を間違えています。《信じる》のは 神か無神かどちらかで呼ぶナゾだけです。キリスト教や仏教は 教義のことを言っているのですから。教義になったその内容は 《知るか知らないか》の経験思考のもんだいです。

 というふうに交通整理をするのが 《哲学》の役目です。
 経験科学ももともと哲学だったわけですが 哲学は昔は広く宗教まがいの内容をも扱っていましたので それを扱わないとする科学が姿を現わしました。
 信仰はもともと 人間とともにふるいと思われます。信仰という行為についても 哲学や科学は扱って知ろうとします。その《なぞ》については 《分かるか分からないかが 分からない》ということで決まっていますが そのナゾと《わたし》との関係――それは 出会いとそのあとの動態過程でもあります――について 主観共同でありうる分野において 問い求めます。《精神=身体》的な反応などを生物物理化学的に究明することもおこなわれるようになるかと思います。
 宗教は 教義を持ってその教義をいわば神とした時点で 自殺したものと見なされます。
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哲学において宗教はどういうポジションに置かれているかということかな?


過去から現在の時間軸において、まず宗教ありき、次に哲学が生まれ、そして、哲学の一分野に宗教が編入されたという印象をもちます。

当然、ポジションが変化したわけですから役割や意義も変わっているでしょう。
そして、それらの変化の引き金は何だったか?

このような課題を自分で発見する力は大きな財産になりますし、結果として課題の評価も高くなると思います。
間違ってもいいので自分の力でチャレンジされることをお勧めします。
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木造大工の米虫おん大将がそう言うんなら、他にも面白い提案があります。

私はワンパターンでいつも同じことばかり言っているのですが、宗教を考えるときの意表を突いた見方として、私が大ファンであり、且つ日本が世界に生み出した不出世の奇人の天才南方熊楠の『南方マンダラ』河出文庫を一読することをお薦め致します。他でも紹介しましたが、南方が20代の後半にロンドンを訪れていたときに、彼よりも10才ほど年上に真言宗の学僧、土宜法竜に向かって宗教の講義をしている書簡集です。土宜法竜は後に高野山の管長にまでなった高僧です。彼に向かって南方は「仁者、宗教のことを知りたしと言う。これ仁者仏に信厚ければ到底能わざるかもしれぬ」要するに「お主は仏教の信仰厚い坊さんだから、宗教のことは分らんだろう」ってなことを言っております。

米虫さん、私もうんと若い頃ニーチェを読んで感激したことがあった。若い人には是非読んでもらいたい本だね。ところがどういうわけか、モンテーニュの『エセー』にお目に掛かちゃって、その頃から哲学よりも、古典の歴史書に興味が行っちまったんだ。哲学者のいう哲学って、所詮一個の頭が考えつくようなことっきり書いていないが、人間の事績になると、人様が想像もつかないようなことが起こって来たからね。

まあ、こんなこと言ってるのも滅茶苦茶に矛盾を含んだ言い様だが、そんな切っ掛けを与えくれたモンテーニュさんだって、懐疑論の権化、現人神、魑魅魍魎の天神様の化身のコンコンチキのお稲荷さん見たいな哲学者だったもんね。そう言えば、懐疑論股肱に入れりっていう重症患者のモンテーニュ爺がキリスト教神学者のレーモン・スボンていう坊さんの書いた本を弁護するつもりでものした書き物の中で、懐疑論をとトコトン押し進めちゃって、この坊さんの書いた本が全く無意味だったって暴露しちゃったもんね。こんなことが起きるから、人間の世界って人間の頭で想像できることを遥かに越えちゃっているんだね。

質問者のお若いの、大学の課題も大事だが、これを機会に幾つかの良い本も読んで見るのも、もしかしたらあんたの人生を変えちゃうかもしれないから、面白いと思うよ。
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「哲学における宗教の意義など皆無である」との立場をとってみたら面白いと思います。


「皆無である」という断定は、実際に皆無でない場合にも大いに意味のある仮説・挑戦であり、大学生の課題に取り組む姿勢としては有意義だと思います。

取っ掛りのヒントとしては、ニーチェと言う哲学者のアンチクリスト(Der Antichrist)という本の一読を勧めます。短い本ですからドイツ語で読むのが理想的と思いますが、哲学専攻で無いならば日本語訳を利用しても許されるでしょう。私の様なオジサンには通俗的な現代語訳でも、大変に参考になりました。目から鱗です。

キリスト教徒という信者20億人を擁する人類史上最強最大のグローバル教団に対して、ニーチェという一個の哲学者が自分の脳みそを使って思索し検証した結果の勇気ある著作です。宗教一般、哲学一般で論文を書くよりも、最大の宗教を一つ選び、最も偉大な哲学者の一人を選んで争点を明確化しておくことは、質問者さんの今後の哲学的思索におおいに資することと確信します。


書名:キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』
出版社:講談社+α新書 [新書]

参考URL:http://de.wikipedia.org/wiki/Der_Antichrist
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貴方は既に大学生になっているのだから、この際大学生らしいことをやってみることを考えてみても良いのではないですか。



高校生の授業とは違って、大学の授業とは先生が手取り足取り教えている訳ではありません。大学とは、どんなところからその問題に入って行けば良いか、そして、一々の主張がどうのこうのと言うよりも、その分野で何か有意義な結論に至るために、どのような物の見方や方法があるか、そのためにはどんな本を読んだら良いかの情報を与えてくれるところです。そして、それが参考になると思えばそれを参考にし、また、参考にると思えなければ自分で方法論を模索して、後は授業に関係なく自分で授業以外の情報を集めたり資料を集めたりして自分の思索を深めて行くところです。だから、大学の先生は、貴方が授業を聴いたくらいで理解したり、その授業の内容を整理て、誰でも言いそうな事を書いて来ても、「あっそう、この学生は並だな」ってなぐらいにしか考えてくれません。先生に、「なるほどこの問題にはこんな側面や見方があったのか、今回は教わってしまったな」と言わせるつもりにならなければ、何のために大学に行ったのか分りません。例えばそのことに関して、私はまだ1年生だからと言うのは、余り関係ないでしょう。

また、そのことに挑戦するときの心構えですが、論述のなかに間違いや誤解があるのは当たり前であり、先生の書く論文だって間違った主張だらけだと言うことを肝に命じていて下さい。大事なことは、どこの部分が間違っていたかと言うことではなく、その人は誰でもする間違いと言う大海の中で、どの部分で意味のある新しい視点や物の見方を提案しかと言うところにあります。キラット光る提案があれば、一朝にして出来上がらないまでも、じっくり時間をかけて行くと、その提案の周りに一大構築物が出来上がって来ます。

また、人間は間違った時にだけ何かを学ぶとも言われています。間違いは、相手の反論を誘発し、その反論が貴方の思索に影響して貴方の提案に対して新たな構造を付与してくれ、それに基づいた反論の反論が、また相手に反論の反論の反論を誘発し、互いが互いの触媒となってグルグル回りながら、即ち数理科学で言うところの非線形過程を経て、頑強な構造を生産的に作り上げてくれるのです。だから、間違った提案をすることは、新たな世界の発見にとって大変に重要なことなのです。

今回急にそのような挑戦を先生に出来ないとしても、いつもその意識を持ちがら、その先生に限らず、いつかどなたかの先生に挑戦したレポートを書いて下さい。大学と言うところはどこの大学でも、それが出来るか出来ないかで貴方の能力が試されるところなのです。この際、一流大学か二流大学かは関係ありませんよ。一流大学でもそれが出来ない人は並な人、二流三流大学でもそれが出来る人は一流な人です。
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宗教哲学という哲学も有ります。



宗教というのは信仰を前提にします。
哲学は考えかたを疑うところから出発します。

信仰を哲学的に批判するか、哲学を信仰という観点から批判するか・・・
この辺をとっかかりにされたらいかがでしょうか?

宗教を信じている人が「考えかたを疑う」点に立てば信仰が成り立たなくなるかもしれません。哲学は「疑う」事から始めるにせよ、何か人間の奥底にある正邪善悪に対する考えは確固としたものがあると言う立場で(信仰の立場で)考えるか・・・。

人間を最もよく知るための格好の課題だと思います。とりあえずヒントにしてください。
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哲学的観点になるかどうか・・・・



人民を統一するための手段

と考えます。
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難しい問題ですね。

自分なら、宗教とは何なのか?
人間が生きる上で、どのような役割を果たしているのか?

と言う点を、徹底的に考えて、そこから切り込んで行くだろうな~

参考になるかな・・・
 
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