神とは何か?
決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。
○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める
§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと
世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
Y =考えれば分かること。
(いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
為によって分かるようになると考えられること)。
(科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
しうることがら。)
X =考えても分からないこと。
(いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。
(人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
(もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
とがら。 )
ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。
X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて
超経験の領域= X
超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
〔そしてこのような意味での〕神・
〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空
人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)
さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。
§2 《考える》と《信じる》
考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。
人間存在 = Z
とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。
これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。
したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく)
☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により
【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html
☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。
【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html
☆ それではよろしくどうぞ。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
その問題を探るためには、ある具体的な命題を分析することが大切です。
そこで、
蛙に顔に小便
という命題を分析して見ましょう。
考えても 分かるか・分からないかが 分からない者=X
に対して、《考えれば分る(= Y)》例として、
蛙の顔=Y
とします。それに小便をかける実態の総体として
小便をかける実態の総体=Z
を考えます。そして、《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 (= X)》の集合の中に属する者として、
質問者=Zi
があるとの仮説を立ててみる。
この命題は一面から見ると(YーZi)で構成されている。他方の面から見ると(X-Zi)という命題も成り立つ。従って、(YーZi)と言う命題と(X-Zi)という命題が両立することになり、その結果Y=Xという命題が成り立つことになる。すなをわち、
考えれば分る者=考えても 分かるか・分からないかが 分からない者
あるいは
Y=X
と言うことになる。これはYに取って矛盾に見える。ところが小便をかける実態の総体の集合Zに属する要素Ziには取っては矛盾でない。何故なら、ZiはXに属すると仮定したからである。その結果、そして さらに むしろ Xの実態の認識はYでは分らないので、その実態に関しては「信じる」と言う行為しか可能でない。そこで当然 さらに つまり Xは信仰の対称、すなわち さらに 結局 「神」である。
このことから、集合XにZiが属していると言う仮説は、「信仰」と言う形態に昇華することによって、《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者》との揚棄がなされたことになる。
このことから、つまり したがって
Zi = 神
と言う結論が導かれる。
さらに その上 むしろ その検算として、始めの命題の戻ってみると、
Zi = 蛙に顔に小便
という結論が自然に導かれ、それによって《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者》はZiであると言う経験則とも矛盾していないので、この結論が正しかったと判る。
したがって つまり とうぜん
神とは何か?
に対する決定保存版としては
神とは質問者のことである、
となります。どうでしょう。
わたくしも質問者さんの常々の態度、すなわち物事の認識のためには、言葉と言葉の細かい繋がりを分析することが全体を一望に眺めて把握するよりも遥かに決定に重要であると言う態度は、つまり したがって むしろ そのよう考えていらっしゃる方がこの世にいらっしゃるのかと、大変新鮮な驚きと共に感心しておりますので、私の論理の流れの細かい矛盾点を一々指摘して頂けると、私の成長の参考になると思えます。是非、細かいところをご指摘下さいませ。
ご回答をありがとうございます。
重箱の隅をつっつくことを避けずに 筋を追って行きます。
★ ~~~~~~~~~~
(α) 蛙の顔に小便
という命題を分析して見ましょう。・・・
(β) 蛙の顔=Y
とします。それに小便をかける実態の総体として
(γ) 小便をかける実態の総体=Z
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 最後の事項は げんみつには次のようでしょうね。
(γ‐1) 小便をかける実態の総体= Y あるいは Y - Z
☆ 《あるいは》を挟んで 認識の以前と以後というふうに捉えてもらうといいと思います。
★ ~~~~~~~~~~~~~
《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 (= X)》の集合の中に属する者として、
(δ) 質問者=Zi 〔* または
(δ‐1) 質問者= Zbrag. 〕
があるとの仮説を立ててみる。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ むろん X に 人間= Zi ないし質問者= Zbr. は基本的に含まれませんが X の外延として(そのような広義においては)含まれると仮定し得るとわたしも見ます。
★ この命題は一面から見ると(YーZi)で構成されている。
☆ そのとおり。
★ 他方の面から見ると(X-Zi)という命題も成り立つ。
☆ なぜ?
(α) 蛙の顔に小便 = Y ‐ Zi
☆ この命題に対して――ここは微妙ですよ―― 人間= Zi ないし質問者= Zbr. が 絶対= X に広義には含まれるという仮定的な認識より ( Y-Zi )の《 Zi 》に《 X-Zi 》を代入することができるという推論ですよね? まづはそう仮定してみましょうか。
★ 従って、(YーZi)と言う命題と(X-Zi)という命題が両立することになり、その結果Y=Xという命題が成り立つことになる。
☆ とは成りませんね。この仮定を全部採り入れたとしても
(α extension/ denotation)蛙の顔に小便= Y-( X-Zi )=X-Y-Zi
☆ となるのみだと考えますが どうでしょうか。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
すなわち、
考えれば分る者=考えても 分かるか・分からないかが 分からない者
あるいは
Y=X
と言うことになる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですから これら X と Y とはもともと互いに隔たりがあるわけです。《微妙だ》と言ったそのわけは こうです。
(α ext./ denot.)蛙の顔に小便= Y-( X-Zi )=X-Y-Zi
☆ において Y = X だという帰結を得るのではないかという推論には 《人間 Zi が絶対 X によって覆い包まれる》という概念の拡張をしたのと同じように 《経験世界 Y は非経験の領域 X によって介入を受ける》という概念の拡張が得られるという仮定があずかっています。
ここで途中の過程をはぶきますが 次にたどりつくというご見解です。
★ ~~~~~~~~~~~~~
このことから、つまり したがって
(ε) Zi = 神
と言う結論が導かれる。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これについては 事情は複雑ではありません。 《(δ―1) 質問者= Zbr.》についてはそこからの仮定として実質的に次の内容を持っていたからです。むしろ《人間= Zi 》として
(δ‐2) X のもとにありそれに包まれる 人間= Zi という存在
☆ です。これを ぎゃくに人間の側から捉えるなら おおよそ
(δ‐3) 人間= Zi は X =神によって包まれつつ その X =神
の一部分をあたかも所有する。
☆ という命題となって表わされるからです。したがって
(ε‐1) 人間 Zi =〔部分的に見て〕 X すなわち 神
☆ を得ます。このいわゆる《分有》という概念においておっしゃるように
(ζ‐1) 神とは〔次の存在の部分を取り上げることにおいて〕
質問者のことである、
☆ と帰結されますし 同時にひとしく
(ζ‐2) 神とは〔次の存在の部分においては〕回答者のことである。
☆ という仮説的命題を得ることになります。
さあ どうでしょうかね。
* ( ε )や( ζ )の《部分的所有・分有》というのは けっきょく接点を持つというくらいに取ってください。分割するという捉え方では ややこしくなると思います。
No.45
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiでございます。お元気そうで何よりでございます。
> 二分割思考ですよね。《他人を 単純にこうだと決めつけたがる人びと》の場合 案外かんたんにその投稿内容を見ると協力しあっているとさえ思えます。敵・味方も決めつけているのではないかと。
確かに、そのように見受けられます。こんなことをして、何の意味があるのかは愚生にはわからないのですが……
ANo.36のご回答者様の的確、かつ引き締まった文章表現におきましては、残念ながら、愚生には、これ以上のものは浮んではきません。従いまして、現在、盛り上がっております“ご質問”の方に移らせていただければと思っております。
それでは、どうもありがとうございました。次の投稿におきましても、よろしくお願い申し上げます。
ひどっちさん 分かりました。もう少し開けておきますが 潮時かも知れません。
ご回答をありがとうございます。
エンテレケイアさんは 学術的な用語や文章で書いていますね。
きょう一日で 《盛り上がっている》が《てんやわんやの騒動》になってしまいました。
乗りかかった船ということになるのでしょうか。
No.44
- 回答日時:
ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。
Hidocchiでございます。☆ これはひょっとして 人びとを敵と味方にも二分してしまうのでしょうか。?
調べてみたのですが、実例は見つかりませんでした。ただ、善・悪の2分化が進んでいきますと、必然的に、敵・見方の二分化も生じてくるようにも考えられます。
”組織ストーカー”
個人対個人のストーカーと違い、特定の組織や集団がある目的の為に行う組織的なストーカー行為のことです。また犯行が露見しないように計画的にやっていることも多いため、単なる嫌がらせというより「特殊工作」と表現した方が的を射ている場合もあります。
(はてなキーワード ”組織ストーカー”からでございます)
以前にも、集団リンチのようなものが存在したかと思われます。ですが、行為が露見しないような形で、個人(もしくは小集団)をイヤがらせをするケースが増えているようでございます(首謀者としましては、某宗教団体の関係者が多いのだそうですが、詳細はわかりませんでした。なお、被害者側の方々にも精神失調を来している方達も多いそうですので、きっちりとした内情はつかめにくいようにも見受けられました)。
> 5. この構図を捉え人びとに明らかにしようとするわれわれ。
微力を尽くしたいと、考えております。
暑さが続いておりますが、くれぐれもご自愛くださいますよう、お祈り申し上げます。
それでは、ご一読賜りまして、厚く御礼申し上げます。
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。
ななにすくんは まだ来ていないようですね。
★ 調べてみたのですが、実例は見つかりませんでした。ただ、善・悪の2分化が進んでいきますと、必然的に、敵・味方の二分化も生じてくるようにも考えられます。
☆ 検索 いつもありがとうございます。二分割思考ですよね。《他人を 単純にこうだと決めつけたがる人びと》の場合 案外かんたんにその投稿内容を見ると協力しあっているとさえ思えます。敵・味方も決めつけているのではないかと。
でもこれは確かに 固定的に捉えることもないかも知れません。
★ ”組織ストーカー”
☆ これは 先日の陰謀論のやり取りにときにちらっと読んだ記憶があります。そして ちらっと見ただけですが そうとうひどいやり方をしているとも――その噂〔としておきましょう〕の記事では――書いていました。
◆ 「特殊工作」と表現した方が的を射ている場合もあります。
☆ この場合ではないかと思われます。いづれにしましても これをもしやるとしたら 余裕のある社会的地位にある団体なのでしょうね。既得権益はもう放さないというような。
勧誘してはいけないそうですが ほかのところで盛り上がって来ました。
No.43
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。
Hidocchiでございます。> 《右向け右!》あるいは《前へならえ!》というくせのことです。条件反射のごとくそう振る舞うということかも知れません。DNA にまで刷り込まれているのでしょうか。つまり 号令も無しに・もしくはメディアの指揮のもとに 大合唱を始めたり整列したりと お行儀のよい民族であるように思います。
まさしく仰るとおりかと存じます。一長一短ございますが、方向性が正しければ、優れた結果が残せるとは考えられますが、間違った方向に向かってしまいますと、前の大戦のようになってしまうものかと推察されます。
> 《アース役》として苦労した結果 お上には弱く長いものには巻かれるのかと思っていましたが あるいは一部分では 積極的に行動形式が固まっているのかと思われるほどだと思い始めています。
前者に属する方達の方が、未だ多いのではないかと そう思ってはおります。お上(or 権力者)の声が、まるで(水戸黄門の)”印籠“と化し、それがそのまま浸透していくといった具合にでございます。
一方では、Webの発展の結果かもしれませんが、これとは異なる集団が出現しているように思われます。和田秀樹氏(精神科医)の説ではございますが、善悪・真偽など、デジタルのように二分割思考でもって、結論を単純化(勝ち組 or 負け組み等です)したがる人が殖えている のだそうです。そしてその結果、思い込みが激しくなり、他人を単純にこうだ と決め付けたがる人たち(視野に余裕のない方達)が増えてきているのだそうです。
nananisse様のお気遣いの言葉、うれしく思っております。
なお、bragelonne様とは、当初は、初期仏教について、特に釈尊についての対話が主だったかと記憶しております(従いまして、当初は、クリスチャニズムの教養がかようにあろうとは思っておりませんでした)。つまり、bragelonne様が愚生に影響を与えたとしましても、つい最近のことかと思われます。
おそらく以下のお言葉は愚生に向けたものと思われるため(違っていたならば、深くお詫び申し上げます)、少しだけ、言及させていただきます。
「くるっているの内容は自分が希望退職したのに リストラされたと主張する「1態度」です。」
確かに、公式には、愚生の場合、“希望退職”でございます。ですが、以下のサイトにもございますように、必ずしも、従業員の”自主・希望退職”は、本人の意志に則ったものという訳ではございません。
http://information.squares.net/risutora/m/cat000 …
“母が入院していることを会社が知っている”、そして“その上での、転勤命令”は、「愚生が純粋に退職を希望した」と断定されるのは、非常に微妙かと思われます。
最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
この質問も批判が思ったほどにはなかったように思います。
或る程度たたき台が出来上がっているとすれば ありがたいとは思います。
現代日本人の分類:
1. ふつうにまともな人たちが いわゆる上司の意識の排泄を受けて《アース役》となって 苦労した結果 冒険をしなくなる場合。
2. そうではなく すでに自分から冒険をしなくなって いわゆる権威や権力を持つ側にすり寄って行く。あるいは 特別にすり寄っていくのではないが そうではないのに なぜか社会の風潮や時にはマスコミのキャンペーンによって 右向け右の行動をしてしまう場合がある。
3.★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
一方では、Webの発展の結果かもしれませんが、これとは異なる集団が出現しているように思われます。
和田秀樹氏(精神科医)の説ではございますが、善悪・真偽など、デジタルのように二分割思考でもって、結論を単純化(勝ち組 or 負け組み等です)したがる人が殖えている のだそうです。
そしてその結果、思い込みが激しくなり、他人を単純にこうだ と決め付けたがる人たち(視野に余裕のない方達)が増えてきているのだそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これはひょっとして 人びとを敵と味方にも二分してしまうのでしょうか。
4. あとは お二階さんがいましょうか。
5. この構図を捉え人びとに明らかにしようとするわれわれ。
久方ぶりに めづらしきやり取りが始まるのでしょうか。ひとごとのようにですが。
No.42
- 回答日時:
理念は構成原理ではない。
とカントは言っています。
終わり。
ご回答をありがとうございます。
あぁ そうなんですか。
理念は もろもろの概念によって構成されるものですか?
ま しかし 概念であれば 中には理念となる言葉もあるような。
《愛》であるとか。
No.41
- 回答日時:
★ 間違った宗教は人間を不幸にするという実例です。
☆ 宗教は みな間違っています。
おぢぢさまの考えを信ずる信者も間違っているということですか?
「一人ぼっちで不幸な教主様」の教えを信じても意味がない。
それだけではなく実際に不幸になるということがいいたかっただけです。
くるっているの内容は自分が希望退職したのに
リストラされたと主張する「1態度」です。
元会社員が今でも会社員だと主張する 羞恥心のない「2姿」です。
きちんと答えているから ちゃんと読んでよ。
★ ○○さまの考えを信ずる信者も間違っているということですか? / 「一人ぼっちで不幸な教主様」の教えを信じても意味がない。
☆ 《考えを信ずる》《教えを信じる》という表現が 矛盾しています。
☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~
§2 《考える》と《信じる》
・・・
経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 教主様
☆ がいるということは 宗教である。組織があり教義がある。すなわち 教義は 人間の言葉で書かれているので 《考える》の対象です。教主様にしろ権限のある者にしろの言うことも 《考える》の対象です。《信じる》という言葉は これらに使わない。
教えや先輩を《信じる》ように促されるなら つまり必ず促されるので 宗教は みな間違っています。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
くるっているの内容は自分が希望退職したのに
リストラされたと主張する「1態度」です。
元会社員が今でも会社員だと主張する 羞恥心のない「2姿」です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いづれも事実を曲げているのは この解釈がただしいとするあなたです。推測したことがただしいと思いこんでいるだけだよ。
★ 「1態度」「2姿」
☆ の数字は何を意味するのだろう。
No.40
- 回答日時:
疫病神はなぜ存在するのか。
これは結局自由意志の問題だろうと思います。
よく座談会や会合などで最近身近で起きた出来事などを公表したりしますが交通事故だろうと病気だろうと全て宗教的な必然へと創りかえられてゆきます。
そうすることで未来に対処できるという自由を確保しているんですね。
一般の方々の宗教観というのは大概そのようなもので、当たり前のはなしですが哲学上の冷たい神とはずいぶんと質が違います。
そんな私の体験談です。
こんばんは エンテレケイアさん。ご回答をありがとうございます。
そうですね。元気に生活をして行きたいということなんでしょうけれど。
そして その人びとの欲するところをまづは大事にしないといけないでしょうね。
宗教は とうぜん個人の信仰に発するものなのでしょうが 組織をつくり信仰内容を文字にして教義を作り上げると 個人の信教・良心の自由は その教義の《思考》上の優劣だとかいわゆる《実践》としての成果という目に見えるものごとによって 逆に評価されみちびかれてしまうおそれを持ちます。これは およそ必然的にそうなると考えます。
よって 宗教は 個人の信仰の自殺行為であると考えています。
勉強会と信仰強化会とは えらい違いだと考えます。後者は 内面の信仰が教義や先輩の存在という外形によって象(かたど)られていく運命にあると思います。
いや 教義についての勉強会なのだと抗弁するとは思いますが。
No.38
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiでございます。> リストラに遭われたのですか?
はい。内分泌攪乱物質(環境ホルモン)の研究・仕事をしていた会社でございます。会社側から「関東地方の某T市にラボを集約する」とのお達しが下ったのですが、そのとき、母が病床に臥しておりましたので、「T市にはいくことができない」と返答した次第です。そして、結局、退職せざるを得なくなった という訳でございます(一方的な“クビ”ということではなかったですが)。そして、その1年後、会社の方も?
> 絶望の虚妄たること 〔形のある〕希望の虚妄たるに同じなどと言いつつ 言わば訓練もして来たようなかたちです。
(あえて訓練することにより)そのようなお考えに到達しなければ、生き辛いのかとも 思っております。愚生も、職場では、マシーンのように(無感情に)作業しているだけでございますので。
> ルサンチマン・スケープゴート・魔女狩り
前回のKyra様のご回答におきまして、“回答を評価する”の箇所に、あのような数を見てしまいますと、思わず、そう考えてしまった次第でございます。
> これは 薄情だと言われるかと思いますが ほかの人の場合にももう表面上の心理にかんしては まったく意に介しません。いまのわたしは 泣いても笑っても そういう状態にあります。
ある意味、それが、bragelonne様の“個性”でもあり、また、“長けた点”でもあるように思われます(別段、愚生は薄情だとは思っておりませんし、また“傷の舐め合い”というのも……)。
> そもそもとしては 神という言葉も 単なる記号なのだと捉えます。その表象し得ぬものを仮りに指し示そうとするための代理表現であるのだと。つまり 神学はすべて この代理表現による観想や理論の構築であると言えると思います。
このご意見につきましては、愚生も意見を等しく致します。
> キリストのキの字も言わなくなったときには 神のこの世界における具体的な勝利であり 人間の勝利であるかと思われます。じんるいの前途は 果たしていかがあい成るでしょうか。
そうでございますね。前文におきましては、仰るとおりかと存じます。もう、ひとの血となり、肉となっている訳でしょうから。
人類の未来は? 愚生も、少なくとも物心ついた頃、つまり、約40年前よりも(因みに愚生は43歳でございます)、自分が土に返る頃には、少しばかりでも良くなっていればと そう願っております。
駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
そうですね。今回は 違いが見当たりません。同じでなくても 方向性やらは同じだというように思います。
★ また“傷の舐め合い”というのも……)。
☆ と言っていただいて ありがたい気持ちになります。
★ (あえて訓練することにより)そのようなお考えに到達しなければ、生き辛いのかとも 思っております。
☆ なるほどですね。志向性としていいと思ったので 訓練しようとさえ考えたのですが 身の周りの環境から影響を受けた部分も大きかったのかも知れません。志向性が大きかったので見えなかったのか あるいは 環境の要因をすでに受けていたので志向性を大きく持つようになったのか。・・・
人びとの傾向として ひとつ思い浮かんでいることがあります。
《右向け右!》あるいは《前へならえ!》というくせのことです。条件反射のごとくそう振る舞うということかも知れません。DNA にまで刷り込まれているのでしょうか。つまり 号令も無しに・もしくはメディアの指揮のもとに 大合唱を始めたり整列したりと お行儀のよい民族であるように思います。
《アース役》として苦労した結果 お上には弱く長いものには巻かれるのかと思っていましたが あるいは一部分では 積極的に行動形式が固まっているのかと思われるほどだと思い始めています。
次の番号の投稿は ブロックを解除したので やって来たようです。
その種の文章ないし文体についても 内容分析をしておかねばならないかも知れません。
思いや気持ちを あたかも推論であるかのように おおいかぶせつつつらねて行く。
《狂った》という言葉をおれは知ってるぞ。使ってみたぞ。これだけのさえづりであるように見ます。《神学》という言葉を知っているだけでも ほめてやったほうがよいでしょうか。
菅政権波高し。
No.37
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiでござます。> 宇宙は経験世界に属している(または 経験世界そのものである)という事実 Y と そしてやはりそれとは次元の異なる〔と想定される〕非経験の場としての X これら二つを前提として人間の現実は始まるということでよろしいでしょうか。
実を申しますと、愚生も断定できないのですが、「宇宙は経験世界に属している」これは、確かに正しいかと考えられます。一方、例えば、数学上は、1兆×∞ = 0.01×∞ になろうかと考えられます。ですが、ただ、ひとの認識能力では、こうした、“∞”という概念を、空間的に(数学のような計算上のものではなく)把握しうるのかどうか が疑問に思えたため、ご質問させていただいた次第でございます(余り深い意味はございませんでした。誠に申し訳ございません。XとYの区別の必要性、そしてそれらを前提とした話の進め方も、必要かと推察しております)。
> §2 《考える》と《信じる》
すなわち《神》といった
“ことば”・“概念”・“想像” は
《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが“信じる”のは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という“言葉じたい”でもない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ
”この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。”
つまり、“信じる”といった思考・経験領域“外”のものについては、“言語化”・“概念化”は原則、不可能と愚生は解釈しておりますが、これでよろしいでしょうか?
そして、さらに、“考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。”が導かれるかと解釈しております。
> ☆ 日本では 信仰をめぐって 衝突することはあまりありませんが それでも世界にあっては この非思考の原点・信仰類型論を共通の見方とすることが出来るならば いくらかでも 風通しのよい世界になると思っております。
非思考領域に関することを言語化してしまったが故の悲劇が、国外では、多く見られます(幸運なことに、日本では少ないですが)。
“宗教戦争”、“魔女裁判”等がこれらに該当するものと考えられます。また、以下のルカ伝のように、自称“イエスの生まれかわり”だと宣言し、アメリカでの話でございますが、大量自殺事件も起こったかと記憶しております。
従いまして、以下の文章は、一つの”提案”として、日本の国際化も含めて必要なのでは? ということになろうかと 勝ってながら考えております。
「吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。」
もし、愚生の論理に瑕疵等ございましたら、お申し出くださいませ。
ルカによる福音書21章8節
イエスは言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。
”妬み・僻み”につきまして
この場をお借りし、ご質問にございました”妬み・僻み”について、愚見を述べさせていただきたく存じます。
おそらく、かようなルサンチマンは存在していると考えております。日本社会での閉塞感(主な要因は経済的理由かと推察しています)が蔓延し、一種の”スケープゴート”なるものが発生しているものと考えております。例えば、魔女狩りにしましても、農作物の不作の頻度と魔女狩りの増加とは相関性があると言われています( 浜本 隆志著 「魔女とカルトのドイツ史」(講談社) からでございます)。 つまり、これも一種のスケープゴートに近いものがあったかと推察しております。
なお、余談ではございますが、愚生が、”すさんだ”と見られましたのは、おそらく、単純に、その数ヶ月前に会社のリストラに遭ったからだと思っております(幼少時の心理面の問題ではない ということでございます)。
駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
今回は 観念の神と非経験(つまり観念を超えたところ)の神との峻別という主題について確認していただきました。そのほかの主題については なかなか応答するのにも心が決まりません。
リストラに遭われたのですか? しばらく前つまりかなり以前のことなのですね? そうですか。《すさんだ》ですか。そう言えばわたしも 修士課程の指導教授と考えが合わないので ぐれかけた(精確には ぐれるとはどういうことかと考えてみた)ことがありました。
そうですね。今では――三十歳ころからは―― 心理の動きと心(精神)とはまるで違うと確かめるようにして来ましたから 感情や心情・愛情までも 心という海の表面上の波風だと捉えるように成って来ています。つまり《すさみ》も 同じくこの波風の部類であると見るようになっています。絶望の虚妄たること 〔形のある〕希望の虚妄たるに同じなどと言いつつ 言わば訓練もして来たようなかたちです。
ですから これは 薄情だと言われるかと思いますが ほかの人の場合にももう表面上の心理にかんしては まったく意に介しません。いまのわたしは 泣いても笑っても そういう状態にあります。
★ ”妬み・僻み”につきまして / ルサンチマン・スケープゴート・魔女狩り
☆ ですから これについても その・人びとの社会心理的なあるいは聖職者たちの政治力学的な思いからの行動については 物理的に動くわけですから 対応する措置を講じなければならないと思いますが 心理の動きそのものについては 取るに足りぬと思ってしまうところがあります。
★ アメリカでの話でございますが、大量自殺事件
☆ ええ ありましたね。何とか寺院でしたか。単純に見れば 観念の神をいじくった結果ではないかとも考えますが これも心理そのものというよりも その心理がどうして現われ出たかを追究しなければならないのでしょうね。――ただ 今もその時もわたしは 興味を持ちがたいですね。話題や主題になれば つまりそういう質問が出たなら 考えてみるかとも思います。
このようにわたしの反応は むつかしいものと思います。何もないと言うべきか。心理と捉えたところのものは ことごとく放っておくと言いますか。いま ふと 慈悲は存在論だとおそわったことが頭をよぎりましたが 個人の・自分の問題だという点で 似ているようにも考えます。
もっとも 言葉を費やして尋ねられれば それに応じて考えるとは思っております。
こんな厄介な人間でございます。
★ つまり、“信じる”といった思考・経験領域“外”のものについては、“言語化”・“概念化”は原則、不可能と愚生は解釈しておりますが、これでよろしいでしょうか?
☆ つまり取りも直さず 仮りの言葉・代理表現にて表わすのだと考えます。神とそれに相当する言葉が 世界の諸言語において もっとも一般的な言葉なのでしょうね。
いまでは《神》と言ったり聞いたりすると すでにこの言葉に慣れていますから 何らかの心理的な反応だけではなく 心の思いとしても呼び起こされるものがあると思うのですが そもそもとしては 神という言葉も 単なる記号なのだと捉えます。その表象し得ぬものを仮りに指し示そうとするための代理表現であるのだと。つまり 神学はすべて この代理表現による観想や理論の構築であると言えると思います。
たとえば思考実験のようなかたちとして捉えるのですが もし将来において 神やキリスト・イエスやそのほかの神学の言葉をいっさい使わないで 人びとの交通が無理なくその意思疎通もうまく行くというようでしたら そのときこそ 神が歴史に介入したということであるかも知れません。キリストのキの字も言わなくなったときには 神のこの世界における具体的な勝利であり 人間の勝利であるかと思われます。じんるいの前途は 果たしていかがあい成るでしょうか。
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