プロが教えるわが家の防犯対策術!

キリスト教徒の方に質問です。「信仰のために死ぬべきか、生きるために信仰をすてるべきか」

アメリカで実際にあった事件だそうです。幼い少女が叔父に強姦されました。その結果少女は妊娠してしまいました。幼い少女が子供を産むと子宮が破裂して死ぬ恐れがありました。そこで医師は流産させることにしました。これに対してキリスト教の司祭は中絶は罪なので少女を破門しました。司祭は、流産するくらいなら、出産して母子ともども死んだ方がましだったと考えていたようです。

この事件に対して、キリスト教徒としてはどちらの意見に与するべきでしょうか?レイプして妊娠した子を出産して母子共々死ぬべきか、教えに背いて流産すべきか?

A 回答 (11件中1~10件)

プロテスタントのクリスチャンです。

統一教会、エホバの証人やモルモン教とは関係ございません。

私どもクリスチャンはイエスキリストを個人的な救い主と信じておりますので所属する教団や教会が教会規則や牧師命令などということで考えや行動を規制することはございません。あらゆる問題に対して、自分で答えを出す必要がございます。従いまして、ここに書かれている司祭の対応は私の信仰とは相いれません。また医師がご自分の専門的な知識を用いて生命を助けるため流産させたことに対しては、2者を失うより1者を助けることしかできないのであればまちがいではない判断であったと思います。

>「信仰のために死ぬべきか、生きるために信仰をすてるべきか」

私どもクリスチャンは信仰のために死ぬ必要は無いと思います、つまり信仰そのものはクリスチャンの心の「ありよう」ですので、「ありよう」に殉ずる必要はないと思います。生きるために同様に信仰という心の「ありよう」をすてるような現実を想定することができません。私どもがクリスチャンになるということはどこを切ってもクリスチャンであるということになります。ある事件や出来事に対してこれは人間的に判断し、その他の者はクリスチャンとして判断するということはございません。すべてクリスチャンは怒っていようが、泣いていようが、夫婦で性的な時間をもっていようがクリスチャン以外の何物でもございません。従いまして、生きるために信仰を捨てるような場面がくるということが想像できません。ガリレオがカソリック教会の裁判で地球が宇宙の中心だと認めるように迫られた時でさえ、それを受け入れましたが、独り言で「それでも地球は太陽の周りをまわっている」と確かつぶやいたというのは有名な話です。つまり私が日本政府にとらえられてキリスト教を捨てなければ死刑だと言われた場合でも、「ハイ了解しました」と述べることがあっても、私は依然としてクリスチャンであり続けます。

聖書に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と述べられている通りです。最近私はあることに気づいたのですが、それはどうしても神様の命令だと分かっていても自分の命を捨てるのは難しいと考えていた時、自分で死にいたる道を選ぶ必要などないと気づいたのです。つまり神が必要な時にこの命を取り去るのだから、自分から神様のために命を捨てるなどと言うのはおこがましいということでした。聖書の言葉ですが、「神は愛なり. 神は真実な方ですから、 あなたがたを耐えることのできないような 試練にあわせるようなことはなさいません。」、もし死を迎えるのようなことがあっても平安のうちに迎えさせてくださると今信じています。

>妊娠した子を出産して母子共々死ぬべきか、教えに背いて流産すべきか?

聖書は人の命は全世界の財産を集めてたよりも価値のあるものであると述べています。なにはさておいても命を救うべきではないでしょうか。人の命を粗末にするような教えは神様の意図したもではございません。キリストを信ずると標榜する組織の中にはその組織やグループが神様を差し置いて勝手な判断をしているという例があるようです。あってはならないことですが、
    • good
    • 0

福音派のクリスチャンですが個人的な意見です。

流産をすることは子供の命を大切にしない霊的な罪であることは間違いないのですが
でも、すぐに信仰を捨てるとか破門というのはイエス・キリスト的な視点ではないと思います。


それは次のような話があるからです。
「ヨハネの福音書8:1-11
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「{主よ。}だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」](新改訳聖書)


どんな人間でもキリスト以外は霊的に罪深いので破門と言う前に
憐れみや慰めをかけるのが司祭や牧師の役割だと本来は思います
たとえ破門になってもピンからキリまで様々な教会がありますから信仰を取り戻すでしょうね

参考URL:http://doumei.holy.jp/
    • good
    • 0

信者ではありませんが、、、



調べたらアメリカではなくてブラジルですね。

ローマ・カトリック教会とそれ以外のキリスト教会、それぞれ教義が違います。

親が勝手に入れたのではなく、自分の意思で選んで入ったのであれば、そういうルールがあると知っていたわけですから、それに従うべきだと思います。

1+1=2である という教義があって「その通りです」と誓いを立てた以上、「1+1=3である」と答えてしまっては、もはやその教会のメンバーとは言えません。
従って、少女、母親、執刀医が破門になっても、それはもう1+1=2であると言えないので、メンバーでいられるわけがありません。

他の教義を持つキリスト教会に入ればいいだけの話です。


確かにローマ・カトリック教会は、ヤクザのように島を持っており、その地区の行政において強い発言権と住民に対し強い影響力を持っています。
教会が推薦する人が選挙で当選し、教会の支持で治世を行う。
住民のほとんどが、ローマ・カトリック教会のメンバーなので、葬式も結婚式も違う宗派に所属していたら、実施しにくくなるし、教会に通うことで、住民同士団結力を持つので、ローマ・カトリックの信者ではないとなると、非常にビジネスも生活することも難しくなる。
教育においても行ける学校に制限が加わる。
いろんな面で不利になり生きづらくなるので、メンバーは教会に絶対服従をすることで、生き抜こうとするわけです。
檻の無い刑務所に入れられた終身刑のような囚人のようなもの。
刑務所の職員にかわいがられたらいいが、憎まれたら非常に刑務所内で暮らしずらいのと一緒。

刑務所暮らしが長い人が、刑期を終えて出所しても、外では生きていけず、また犯罪を犯して刑務所に戻ろうとする。
一度囚われの身となったものは、その囚われの身が普通の暮らしだと思うようになり、刑務所をかばうわけです。


娘も母親も執刀医も今後 ものすごく生きずらくなると思う。
どこに引っ越しても、どの病院に移っても、噂がつきまとい、生きていけないように、信者がこの人たちを追い込んで殺すと思う。

それほど宗教は恐ろしい側面を持っている。
入信した以上、もう既に自分は死んだという覚悟をすべきです。
奴隷には命も自由も 無 い。

あなたが信者ではなければ、あなたは自由という終身刑を受けた人です。
自由も結構 生きずらいですが、上からも命令で動く人形ではなく、一つ一つ自分で考えて自分を形成していくので、自由という終身刑をくらった方が人生楽しいです。
    • good
    • 0

キリスト教徒ではありません。



司祭は、流産するくらいなら、出産して母子ともども死んだ方がましだったと考えていたようです。

これは否定的見解をもつあなたの憶測ですね。
宗教には戒律と言う形で独特の法や決まりごとがあります。
采配を振るう権威ある立場のお坊さんは、その独特の法を破ることはできません。
権威の暴力ではあります。
したがって信仰心を尊重するお坊さんの第一義に反しています。
仲間はずれはいじめや差別の類ですが個人の信仰心が確かならそれらは跳ねのけるでしょう。
    • good
    • 0

死なないでほしいと思います。

生きていてこその信仰です

その死が生よりも価値があるのなら別ですが そんな事は特別なケースです

信仰は生きることに健全であるべきです

人間が苦しむのは人間が悪いからだという信仰には救いがありません

キリスト教も今はおかしな事になっています

ブッシュ元大統領は聖書に宣誓してイラクを爆撃しました

10万人死んだとイギリスは発表 どう考えてもキリスト教精神に背いています

葬式仏教のようなものです。役に立ちません。
    • good
    • 0

プロテスタントのクリスチャンです。

医者の判断と指示に従うべきです。少女に罪はありません。
少女の命を守り、心の傷と体の傷が癒されるように神に祈るのが、信仰のあり方です。
信仰は人をさばくものではありません。
「それゆえ信仰と希望と愛この三つはいつまでも残る。そのうち最も多いなるものは愛である。」
コリントの信徒への手紙一13章13節

愛を持って少女を救うのがキリスト教の本来のあり方です。
設問はキリスト教への誤解から成り立っています。
    • good
    • 0

異端である「も○みの塔」では信仰のために命を捨てます。


輸血が必要なくらいの大怪我でも、宗教の戒律により輸血が出来ずに
それで何人も死んでいます。
これも実際にあった話です。

恐らくこの話はキリスト教を名乗っていますが「異端」と呼ばれる人たちでしょう。
    • good
    • 0

この事件に対して、キリスト教徒としてはどちらの意見に与するべきでしょうか?



何を基準にキリスト教徒といっているのかはっきりしませんが優先的に母体を守るのがイエスの教えですね。ユダヤ教徒だと司祭のように、「流産するくらいなら、出産して母子ともども死んだ方がましだった。」と考えるでしょうけど。この司祭はキリストを詐称するユダヤ教徒でしょうね。
参考にする話は、休日・安息日に人を助ける話ですね。ユダヤ教では休日に働いてはいけないのですね。休日にはたらく者はユダヤ教徒にあらずと同じ状況ですよね。イエスはもっと柔軟なお方ですよ。
    • good
    • 0

宗教は社会集団をまとめるための方便に過ぎないのですから、


それが命を奪うようなら、改宗しましょう。
ただ、その「命を奪う」内容が、社会集団を維持するために必須
である場合には(遺伝子自身が細胞分裂(新陳代謝)回数を制限し
自ら死ぬよう出来ているように)従容として受け入れるべきですが、
個体は組織のベースである以上、その命を頻繁に奪うような宗教は
出来が悪いね。
    • good
    • 0

 こんにちは。



 《キリスト教》という教義を掲げた宗教というあり方が 土台まちがっています。神の心にそむいていますと言っていいと考えます。

 戒律はいっさいありません。自由です。人間の自由です。
 《互いに愛し合いなさい》――自由をつつしむべきとすれば これのみです。

 本人の考えに家族の考えを寄せ集めて あるいは いい考えを持った人のその考えを聞いて あとは本人〔および保護者〕の意志によって決めればよいと考えます。

 教えに背く背かないなどということは いっさいありません。問題になりません。
 もしおしえがあるのなら それは人びとのよき生活のためにのみあります。それ以外は 組織宗教の血迷った頭が考えだした空想です。

 ちなみに自由は 生命もしくは存在の上にこそ成り立っています。
 強姦ごときで 人間の魂がけがされるわけがありません。自由につよく生きてください。
 たとえ人間としてあやまった考えを持ってしまいそのまま間違ったことをおこなってしまったという場合にも そこで心に傷を負いますが――たしかに 人間の魂もみづからのむさぼろうとするへその曲がりによってけがされますが―― 信じる聖霊が 人間のおこなう何かによってけがされたり傷つくということが あるでしょうか。ひとはよわい。けれども・・・。
 
 
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す