プロが教えるわが家の防犯対策術!

戦中、戦後の湘南について調べている者です。
鎌倉の稲村ヶ崎に洞窟があり、これは太平洋戦争末期に造られた砲台と伏龍(潜水特攻)部隊の陣地で
あったと聞いております。この洞窟を掘った海軍は横須賀の基地から来たはずですが、当時の稲村ヶ崎
あたりは現在の134号線のような道路はなかったはずで、どのような交通手段、ルートで稲村ヶ崎へ
来たのか? 海上から船で来たことも考えられます。当時のこのあたりの状況についてご存知のかた、
ご教示宜しくお願い致します。ちなみに伏龍についての著作『海底の少年飛行兵』門奈鷹一郎著、『人
間機雷伏龍特攻隊』瀬口晴義著などを読ませていただきましたが、今回の質問に該当するようなことは
出ておりませんでした。

A 回答 (3件)

県道の片瀬鎌倉線が近くを通っていたのでは?


戦前にはすでに開通していた筈です。
 
昭和13年3月にできた「道路開鑿記念之碑」が坂ノ下にありますが、この辺の事情を調べてみますると昭和10年より稲村ヶ崎の干潟で大規模な埋め立て工事が行われ、およそ3年で以前は難路とされていた稲村ヶ崎を片瀬鎌倉線が通るようになったという話です。
 
山道などではなくて現在の134号に該当するような、軍事物資を運ぶに耐えうるルートは昭和20年時にはすでに稲村ヶ崎付近にはあったと推察します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。そうですか、昭和13年には県道の片瀬鎌倉線が……だったのですね。その線でさらに調べてみます。貴重な情報まことにありがとうございました。

お礼日時:2010/08/21 17:13

横須賀基地は横須賀線に直結しているので


横須賀 → 鎌倉 は楽に運べるはず。
鎌倉からは、江ノ電で運べるので、あとは人力で大丈夫なような気がする。
とりあえず、地元民の感覚です。



なんていう石柱(三角測量の三角点くらいのサイズ)が道端に立っています。
なんだろうかな?思ったら、元海軍の敷地を表す石柱だそうだ。という地元民情報でした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。海軍の敷地を表す石柱「海」は貴重な情報ですね。ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/11 17:19

かつて湘南地域に住んでいた者です。


歴史に詳しくなく、伏龍関係の本もまったく読んでおりません。

あくまで想像ですが、
今の国道は戦後に決められたものですよね?
国道レベルのものではなく、県道、市道レベルの生活道路であれば、
戦前から存在したと思います。
国道の近くに、昔からあった道路があるはずです。
砲台ぐらいであれば、どんなに新しく見積もっても江戸時代から作られていたので、
そんなに大きな車(重機)はいらないと思います。

これは、浜松で聞いた話なのですが、
東海道線のバックアップとして、天竜浜名湖鉄道が使われていました。
御殿場線もそういう意味があったように思います。

海岸沿いを移動するのは危ないというのが戦時下では常識です。
現在なら、金沢八景まで北上し、朝比奈峠(車でもかなりきついです)を通り、
鎌倉に抜ければよいかと思います。
もしくは、横須賀線またはその周辺の道路で移動したと考えられませんか?

あと、砲台は海軍ではなく、陸軍が作ったような気がします。海軍か陸軍関係者なら分かるかもしれませんね。以上、駄文失礼しました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。「砲台は海軍ではなく、陸軍が作ったような気が……」もしかしたらそうかもしれませんね。元陸軍の方から鎌倉で塹壕を掘っていたという話を聞きましたので砲台はそうかもしれません。しかし伏龍の陣地は海軍だと思います(予科練が飛ぶ飛行機がなくなり土科練と言われるくらい塹壕堀りをしていた、という話も聞きました)。またご回答のとおり横須賀線、江ノ電は通っていましたから鉄道の可能性もあるとは思いますが……う~ん、もう少しはっきりしたところが知りたいです。いずれにしても貴重な情報をありがとうございました。

お礼日時:2010/08/11 17:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!