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日本史でおもしろい小話はありませんか?
たとえば石田三成の三杯のお茶?のお話はおもしろいな、と思いました。本当のことではないという可能性もあるらしいのですが…。
このような質問をさせていただいたのも、高校三年になり、授業に日本史が入ってきたからです。
歴史は好きなのですが、自分の苦手な時代などに入るとてんで集中力がでず、授業に身が入りません。
そこでこの間授業で聞いた石田三成の話が興味深くて、ほかにそんな話はないかと思いました。
実話でも架空の話でもかまいません!
みなさんが知っているおもしろい小話を教えてくださいm(__)m

A 回答 (6件)

1.曽呂利新左衛門、秀吉のお伽衆(おとぎしゅう、世間話の話相手)


刀の鞘師だが彼の作る鞘には、刀がそろりと入るので、このあだ名
がついた。   面白い話で秀吉を喜ばした。

ある時秀吉が新左衛門に「褒美をやろう。なにが良いか」と尋ね
新左衛門が、「お米を頂きたい。  ついては今日1粒、明日は
2粒、明後日は4粒という具合に倍々にして、40日間頂きたい」
という。   秀吉はなんだそれくらいかと承知して倉奉行に
命じた。   
ところが30日後奉行が秀吉のもとに飛んできて、「太閤様米蔵が
からになります。」といった。   其の日まで渡した米は累計
約150石、その10日後はその約千倍の累計15万石になる。
秀吉はあやまって、30日で止めにして貰った。

「ちりも積もれば山となる」秀吉に新左衛門がそれとなく忠告した
ものを、江戸時代になって作り話にしたものだろう。

注) 150石は私の試算値です。   本には載っていません。
当時の米は今より小粒で一升=七万粒として計算しました。
一石=七百万粒です。   江戸時代の記録では七万粒代です。

2.秀吉と米の話、朝鮮侵攻の慶長の役、戦況がはかばかしくなく、
焦れた秀吉が自ら朝鮮に渡り指揮すると、言い出し皆が押し留め
たという。   其の時の狂歌。
「太閤が一石米を買いかねて、今日は五斗買い(御渡海)明日も
五斗買い」と笑われた。

3.お歯黒大将、駿河の今川義元は京風好みで当時、女子と公卿
しかしていないお歯黒をしていた。  桶狭間で討ち死にした時
お歯黒をしていたので確か。
其の戦で駿府を出陣時、短足で太っていた義元は、鎧を着け馬に
乗ったところ、落馬してしまった。   やむを得ず輿に乗って
出陣した。    桶狭間で輿に乗り逃げ回ったとの説もある。
?に乗り戦ったのは他に、黒田如水、大谷吉継がいる。
ただし、二人は足が不自由だった。

4.前田利家、余り知られていないが、利家は吝嗇(けち)で
金銀をため込むのが好きだった。   度が過ぎているのを
奥方の「まつ」は気にしていた。
佐々成政が秀吉にそむいた時、秀吉方の利家は軍勢を集めたが
思うように集まらなかった。   「まつ」は「金銀に甲冑着け
させ戦う積りですか」となじり利家はギャフンとなった。

まだまだありますが。
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この回答へのお礼

4つもありがとうございます!
特に3の今川義元の話はおもしろいです。
落馬して輿に乗ったまではわかるのですが、足の不自由な二人を引き合いに出しちゃかわいそうでしょ…!(笑)
「曽呂利」がそこから来たとは思ってもみませんでした!!
しかもお米のお話すごい!
とてもおもしろいお話ありがとうございました!
私ももっと調べてみます!

お礼日時:2010/08/19 01:17

#5です。



>要するに金を惜しんでまで我慢するものか、といった内容ですかね…?

私はこの話はもう一歩人間の深い所まで言っていると思います。小便をするなと言うなら、それだけ言えば良い。「余計な修飾語を付けるな」、余計なことを言うと、変な理屈をつけてその禁制が破られてしまうよ、と言うことを実地で示してくれたと言うことだと思います。事実黄金一枚の条項を落したらその後その禁を破る者がいなくなったと書いてありますね。

人に者を頼むとき、人に命令を出すとき、要するに相手を動かそうとする時には、その本質だけを言えば良いので、余計な理屈をつけるな、それが最も説得力があると言っているのだと思います。
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この回答へのお礼

大変遅れまして申し訳ありません。
なるほど、ものすごく奥が深いお話だったんですね><
やっぱりこういった小話、といいますか、伝えられてきた(?)お話は
心に語りかけてくる…じゃないですけど、とてもすばらしいものばかりで
これからも調べようと思います!
うまく伝えられなくて申し訳ありませんm(__)m
ありがとうございました!勉強になりました!

お礼日時:2011/04/07 20:50

石田三成の三杯のお茶の話しは『武将威状記』に載っている話しですね。



前田利常のあの有名な鼻毛の話しは『明良洪範』に載っておりますが、その同じ章に余り知られていない利常の凄さの話しが載っています。

利常卿登城の時、御城中に小便禁制の場あり、若(もし)法を破る輩は黄金一枚過料たるべきよしの札立られしを見て、其まま立ちながら小便せられ、則ち黄金一枚出して大名程の者、黄金を惜み、こらへ難きを小用をこたへ忍ぶべきやと有りし故に、其後は只禁制の札斗(ばかり)故に誰も汚す者なし。此後ち利常鼻毛の延過(のびすぎ)て見苦しけれども是を申出す者なし。云々

とあの有名な鼻毛の話しに続いて行きます。
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この回答へのお礼

鼻毛のお話は私も知ってます!
確かだらしない格好をしてれば警戒されない(?)といった内容でしたよね!
教えていただいた小便のお話は、少し難しいですがなんとなく理解できました!!
要するに金を惜しんでまで我慢するものか、といった内容ですかね…?
確かに!!としか思えません(笑)
たいへんおもしろいお話ありがとうございました!

お礼日時:2010/08/19 01:37

bungetsuです。



面白いかどうかは、あなた次第ですが・・・。

学校では教えてもらえない歴史の闇。

調子に乗って、もう一つ・・・。

「5代将軍・徳川綱吉は暗殺された!!」

綱吉の正室小石君(こいしぎみ・信子)には子どもができず、綱吉は側室の右衛門佐(うえもんのすけ)を寵愛したことから、信子は嫉妬のあまり、綱吉を大奥に呼び、久方ぶりにくつろいでいたところ、突如として信子は懐剣を取り出して綱吉を暗殺し、同日、信子も侍女である御台所付御年寄・伊豆局と共に自害したと言う。宝永6年(1709)1月10日。

その根拠としては、
(1)徳川家文書には、信子は慶安4年(1651)~宝永6年(1709)1月11日(または、2月7日)とはされているが、この信子の欄だけ生没年に朱墨で「点々」が打たれている。つまり、「不明」としているのである。しかし、仮にも将軍の御台所の生没年が「不明」とは???
(2)徳川家代々の正室の中で、ただ一人「○○院」という「院号」が与えられていない。
(3)上野「寛永寺」の信子の墓には、江戸時代末期まで投網が被せられてあった。

まあ、まだまだありますが、このへんで・・・。
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この回答へのお礼

うわー!!めちゃくちゃ謎につつまれた感じですね!!
>(3)上野「寛永寺」の信子の墓には、江戸時代末期まで投網が被せられてあった。
なんだか怖いです。でもすごく興味深いです!
昔って一夫多妻制といいますよね?やっぱりそれでも嫉妬心とか芽生えるんですかね…
私正室なのに子どもも出来ないし愛されない!じゃやっぱり女性は辛いですよね……
うわあもっと詳しく知りたいです。自分でも調べてみようと思います!
またまたありがとうございました!とってもおもしろかったです!

お礼日時:2010/08/19 01:01

bungetsuです。


「続き」

(6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。
<1>光秀が到着した時には、すでに、イエズス会により信長は「暗殺」されていた。本能寺も焼け落ちていた。
<2>確かに、光秀は信長を殺そうと本能寺に向かった。
<3>これにより、光秀は「謀反の罪」を着せられた。

東京12chで、まことしやかに放映していました。
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この回答へのお礼

日にちや距離などから理論的に推測すると、色々とおかしいところがあるのですね…。
本当は明智光秀じゃなかった!とは聞いたことがありますが、調べたりすることはなかったのでとてもおもしろかったです。
テレビの番組はきちんと確認しますね!
なんだかすごくおもしろかったです。
たいへんおもしろいお話ありがとうございました!

お礼日時:2010/08/19 00:52

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

そうですねぇ。おもしろい話ですか・・・。

こんなのはいかがでしょうか。

「信長は明智光秀に殺されたのではない!!」

という説も、ささやかれています。

(1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂(おいのさか)の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。
<1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。
<2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。
<3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。
<4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。
<5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。
<6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。
<7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。
<8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。
<9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。
<10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。
と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速3~4Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。
<11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていない。

(2)では、誰が信長を殺したのか。
<1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。
<2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、
「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」
と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。
<3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。

(3)では、なぜ、イエズス会だったのか。
<1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。
<2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、
「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」
と、ある。
<3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。
信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、
「この石を神と思え、わしと思え」
と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令していた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。

(4)本能寺の発掘調査が物語るもの。
<1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。
<2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。
<3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。
<3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。

(5)イエズス会のバックボーン。
<1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。
<2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。
<3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。

字数制限があるようですので「続きへ」。
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