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心についてです。
心というのは定義が曖昧なので、ちょっとややこしい質問です。
いえ、質問というか、みなさんの意見や考え方を求む、といった感じですね。優先度は低いです。
ふと疑問に思ったのでこぼしてみる、といった感じです。

以下質問

コレは人間だけに限ったことじゃないですが……

人は自分の心を守るために、自分の身体すら傷つけるときがありますよね。
つまりあれは、自分の身体よりも心の方が大事ということなのでしょうか。

心というのはとても大事なものなのだと、他人の行動や自分の行動を見ていても思いますが、一体どうして【心】というものはそこまで【大事】なものなのでしょうか?
心の発達というのは、よくわからないですが、立派な生物の【進化】ですよね。だとしたら進化の過程に於いて【心】というものを身体より大事にし、育むことで、人間は結局なにがしたいのでしょう?

ただ生き延びるため、種族を繁栄させるために(カラスのように)賢さを選んだのはわかりますが、どうもそれだけじゃないように思えるんですよね。心のために身体を傷つけたりするし。

現代人の思考や心はある日突然現れたものじゃなく、複雑な進化(あるいは退化?)をくり返して生まれたものですよね。ならつまり、これからももっともっと人間の心や思考が【なんらかの進化】をする可能性があると言うことですよね。では、その到達点は一体どういうものなのでしょう?
厨二的なアレですが、【人は何処へ行くのか】みたいなことを聞いています。何処へ行きたいんでしょう?何がしたいんでしょう?



この質問に対しての回答は自由です。ていうか質問が意味不明なので(汗)、回答様もフリーダムで大丈夫です
●作家等の意見の引用
●学術的な事実、推測
●この質問の何らかのヒントが得られそうなお勧めの本や小説

ホントになんでもOKでございます。でも、できればみなさんの【生の意見】を聞きたいです!



追記
【心理学】というジャンルにしようか迷ったのですが、なんか違うような気もしたので、哲学の方で質問させていただきました。

A 回答 (21件中1~10件)

あまり模範的に見える回答は、面白くないかもしれません。

でも3年間近くも締め切られていないので一風変わった回答をします。おそらく10年後には常識化されているような「解答」です。

まず人間の心を考える場合、「なぜ」心について考えるのか、つまり、心について考えること自体の意味を考える必要があります。
なぜ、人間は人間(の心)について考えるのでしょう?
なぜ、人間は自分の存在について問いかけるのでしょう?

人間以外の動物は、いかに生きるかを考えますが、自分を客体化して自分の存在や、自分の心(や姿)がどんなものであるかについては考えません。
動物は、ただひたすら生きることだけを考えます。
しかし、多くの人間は、生きることの意味、「なぜ生きているのか」「どのように生きればいいのか」についてまで考えます。

なぜでしょう?
解答は一つ、それは言葉を持つ動物だからです。

人間が他の動物と区別できるのは、ただもっぱら人間の本質である「言葉」によります。「言葉」が人間の本質であるのは、言葉が単に「意図の伝達」だけではなく、心の中で「思考の道具」としてはたらき、さらに世界を言語化(合理化)することによって秩序づけ、世界の中に自分を位置づけ、新たな世界を創造(想像)することができるからです。
そして人間の「心」は、動物的な欲求と感情を、言葉によって拡大したり、無理矢理抑え込もうとするために、心の病気になったり、自分の身体に傷をつけたり、自分の命まで奪おうとするのです。

今まで、「心」の学問である心理学は、心の中に言葉を正しく位置づけることができませんでした。「心の発達」というのは、人間が自分自身の存在について知り、人間存在を意味づける役割を果たすはずなのですが、現代人の心が退化しているように見えるのは、「心の発達とその行方」が見えないからです。

【心の発達とは何か】【人は何処へ行くのか】という疑問に答えるには、まず、人間とは何か、人間の心とは何かを解明することが必要です。この解答は、「生命言語理論」が示しています。この投稿欄ですべてを答えるには量が多いので、以下のサイトをご覧下さい。

https://sites.google.com/site/sawatani1/home/xin …
https://sites.google.com/site/sawatani1/home/kok …

参考URL:https://sites.google.com/site/sawatani1/sheng-mi …
「心についてです。」の回答画像21
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「無心」で物事に耽っている間にも、冷静な思考が働いていますよね。



実はこの表現の中に大きなヒントが隠れていますから、冷静に考えてみて下さいませ。

勿体無いので、此処では安易に回答に言及しません。
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創価学会 壮年部の者です。



仏法においては『生命論』なるものがあります。

私共人間の生命状態は、基本的に十の段階があり、

それらが瞬間、瞬間に変化していき、その生命の

作用と体、また環境がそのまま連動しているとい

うものです。

細かく言うと、中国の天台宗の祖である天台大師
の説いた「摩訶止観(まかしかん)」という書物の
中に『一念三千法門』というものがあり、一念の
中にある三千の様相が瞬間の生命の中にそなわっ
ているというものです。

十界×十界×十如是×3世間=三千

【十界】
1.地獄界
2.餓鬼界
3.畜生界
4.修羅界
5.人界
6.天界
7.声聞界
8.縁楽界
9.菩薩界
10.仏界

※この十界それぞれの中に十界がそなわり
百界となります。

【十如是】
1.如是相
2.如是性
3.如是体
4.如是力
5.如是作
6.如是因
7.如是縁
8.如是果
9.如是報
10.如是本末究竟等

【三世間】
1.五陰世間
2.衆生世間
3.国土世間

これらが緻密に絡み合い、私たちの心、体、
環境を形成しているという事です。

>人は自分の心を守るために、自分の身体すら傷つけるときがありますよね。
つまりあれは、自分の身体よりも心の方が大事ということなのでしょうか。

この生命状態は、地獄界もしくは餓鬼界の
生命状態そのものでしょう。心を守るために
なんていうものではない様な気がします。
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心とは何なのでしょうか?私たちは「自分には心がある」と思って生活していますが本当に「心」というものは存在するのでしょうか?私たちは色々なことを感じながら、自分で選択をして生きていると思っています。

しかし、そう思っているだけでどの選択をするのかはもうすでに決まっているのかもしれません。つまり、私たちが選択しているつもりでも、実は始めからどれを選択するかは決まっており、自分で考えたはずだが、それは実は自分で考えたのではなく、考えたつもりになっているだけなのではないでしょうか。物理法則は数式で記述されていますが、そこには人間の意志で変わるものはなく、空中にあるボールはあるきまった速さで落下し、地面にぶつかればあるきまっただけ跳ね返ります。この世が数式で書かれた物理法則にしたがっているなら、私たちもその法則に従って動いている「ただの物体」なのかもしれません。わかりにくい説明になってしまって申し訳ありません。最後に「人間の意志」に関するコラムを参考URLに置いておきます。

参考URL:http://buturiya.web.fc2.com/colum/colum1.html
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こんにちは。



個人的な理由があって思いつく回答をあちこちに書かせて
もらっていますが、麻薬のように中々書くのを止められない。
困った奴だとお笑いください。 おまけに、小難しいことを
書くつもりなんです。 今、少し躁気味なのかも。

心と体、という言い方がよくありますが、多分、心のかなりの部分は、
肉体です。脳のメカニズムの働き、という意味で。

でも、心なんて只の神経の情報がどうのこうのと野暮な話を
するつもりじゃないんです。

まず、感情も思考も脳の中のここでこんな物質が、とメカニズムと
してはかなり解明されていますし、何より薬物で操作できてしまう。

悲しい薬を悲しむ部分に投与すれば泣くし、笑いの部位に
効く物質を投与すれば腹がよじれるほど笑う。 頭の回転がべらぼうに
早くなる薬と言うのもありますよね。勿論違法の毒性薬物ですが。

人間はどうしても心は神聖なものだと思いたがるものですが、研究者の言に
よれば、まるでカクテルのように調合された物質でかなり複雑な感情さえも
再現できてしまうらしい。

人間が思っている心の大部分が肉体に依存している脳内の反応だというのは
間違いないですが、記憶も考え方などの仕組みも、脳内の反応だとして除外して
考えると。 自分の核にあるものは一体何なのか?

死んだらここまでは消滅する。

でも、どうしてそんな人格が形成されたのか?つまり、人はどこから来て
どこへ行くのか?という根源的なワケ、について「無から生まれて生きて死ぬ」
理由とか、生きる意味だとか、つい言葉で表現されてしまう疑問。

・・・「私は無から生まれた無数のものの一人。無数を分母とする[1/∞]だから
    限りなく無に等しい」

ということと

・・・「同一のものが存在しない唯一無二の存在。「自分」について考える物差しで
    測ってみれば、尺度の大小に関わらず常に[全部]であり、ゆえに[∞]となる。」

この悩ましい、「私」とは[0]なのか[∞]なのかというメビウスの輪のような矛盾は、
そのまま「自分が属する系、例えば社会」と「孤独」の裏返し合っている関係です。

メビウスの輪は、交差することの無い筈の二つの矛盾が、実は裏表の関係にある、つまり
同じものの裏表であることの判り易いミニチュアモデルだと言えます。

メビウスの輪は、切れたことによって只のリボンに戻りますが、その瞬間、不思議な
表裏が無い性質も失われます。 これが恐らくイメージ的には肉体の「死」なのだと
思うのです。

何の意味もないように見える只のリボンが裏表に繋がれたその瞬間に、その意味を
知る人の目には不思議な性質を秘めた「カタチ」になる。

人の意識や自我などと言われている「自分が存在する、という絶対的なこの感覚」が
メビウスの輪のような特定のカタチそのものに含まれている「理」のようなものであるなら
個人の感情や思考や記憶やらを全て取り除いた果てにあるもの、は最早、どうも個人では
なさそうだ、という結論に行き着きそうなのです。

よく引き合いに出される、「三角形の内角和が180°である」という定理は三角形が存在する、
なら(誰かがそれが三角形だと認識しようがしまいが)ニワトリと卵のように同時に存在する。

あれは古典的ですが、そんなふうに考えると、カタチとして生まれ、カタチを失って無に帰す。
我々は全員、同じカタチが少しづつ違って繰り返されている海の波のようなもの、或いは
無数に振る雨の一粒のような、一瞬の「カタチ」であろうという結論に行き着くのです。

最初から自分なんていう絶対など存在しなかったし、誰も彼もが同じカタチの位相として
繰り返し現れては消えていくなら、誰もが自分である、とも言えてしまう。
他人として振舞っているが、皆生まれる前、同じ「カタチ」であり、死んでも「カタチ」は
繰り返し繰り返し他人として生まれる。

そんな酔っ払った宇宙観がオボロゲに見えてきたりするんです。

最後に、カタチの意味、ですが、海の波はたった一つでは存在し得ない。
無数の波間に合って、初めてそれは波です。 ある瞬間の一つの波をいくら見つめても
多分、本質は見えない。

波はボーっと物思いに耽りながら見つめていると色んなものを生み出します。

恐らく、その果ての果てには、「繰り返し」というキーワードが無限に顔を出すのかも
知れません。 命の波が、命を形作る「カタチ」自体と同じ・・・例えば、進化した
意識が、その究極の姿として宇宙の部分的なカタチ自体を形成する・・・

耳から煙が出てきましたので、この辺で・・・
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No.13です


>>>
しかし、身体の不自由から抜け出す方法が【肉体を傷つける】というのは、脳にしてはなかなか非効率的で単純すぎる行動の気もしますね…。実際、ジャングル生活が不自由だったからと言っていきなり最初にジャングルを中から荒らすような真似はしなかったと思いますし…いや、やっぱりそこは私の主観なので、気にしないことにします。
<<<

「気にする」方がいいと思います。

おっしゃるような思考過程をたどると、論理的にそうならざるをえない。しかしながら、そこには一元論的な思索が見え隠れしています。

すでに「西の魔女が死んだ」をお読みになっておられるようですので、話がしやすくなります。
あの物語の出版に至る背景については、ネット上でも散見されますが、ユング派の心理学者として有名であった、故・河合隼雄氏と関係しています。
http://thurayya65.exblog.jp/tags/%E6%A2%A8%E6%9C …
http://kousyoublog.jp/?eid=704
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%90%88% …

あの物語には、おそらく河合氏の元でアルバイトをしていた時に得たと思われるユング心理学の影響が色濃く読み取れます。特に非常に強い意志でもって「元型概念、共時性概念」が織り込まれているといっていい。それは物語であるからこそ「高い頻度で生じても不思議さを自覚させることなく成立させる」ことが可能であったと思います。であるからこそ「魔女」という概念は必然的に生み出されるでしょう。
そうして、最も大切なことは、少女の心理描写を非常に注意深く、かつ、微妙な言葉遣いで一元論的にも解釈可能な二元論的な記述をしておられるということであり、「脳」という概念を一切織り込んでいないことです。
※父親の2度目の発言も、そういった意味で慎重かつ意識的に操作されたのでしょうが、私的な感覚では、あの部分は「浮いて」います。

ところで、心はどこにあると思っておられるでしょうか?

歴史的に脳の研究が進んでいなかった時代を含め、人は学習し知ることがなければ「心臓に心がある」と思い込んでいることでしょう。
一方で、中途半端に学習することで「脳に心がある」と思い込んでしまう。

何故でしょう?

>>> 私の日記(2005-09-17)からの引用
なぜに、人々は「脳」のことを「学習」しなければ、「心が心臓にある」と、思ってしまうのであろうか?

全身を投影した脳内マップ上にて、情動と関連する心臓の動きを感じ取る領域こそが「心の中心」という考え方もできる。したがって、「心は脳内にある」ということも言える。

しかしながら、脳を全身から切り離した状態を保ち続けることが可能だったとして、「これこそが真の私」といえるだろうか?
さらにいえば、脳にこころがあるとして、そのこころが心臓に心があると思いたがっているということとのズレ(中心のズレ)こそが、「こころ」というものを表しているのではないだろうか?

すなわち、「こころ」は、「あると思うところ、あると思う範囲」にある。

ということになろうか。。。

論理的・理論的・無矛盾な知的思考は、本来自由で開放されている心を、狭い不自由な空間に押し込めようとしているように思えてならない。。。
<<<


あと、養老氏の「唯脳論」ですが、「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)の方がお勧めです。
>>> 私の日記(2005-09-08)からの引用
養老氏の唯脳論、とくに「カミとヒトの解剖学」には、「隠す」という行為と「脳」との関係が記述されている。すなわち、「脳は統制しようとするがゆえ、脳化した社会は脳の統制力から外れる自然現象を排除ないし隠そうとする」と。。。

同書で養老氏は、視覚の聴覚に対する優位性と脳との関係にも触れている。

視覚と新皮質との連携の強さと、辺縁系との連携の弱さ(進化の過程で弱くなる方向へ向かった)から説明可能だとしている。すなわち、身体側(人間の脳に対する自然側)を隠そうとする方向性は、視覚優位の人間にとっては、脳の構造から説明可能だということである。

一方、聴覚系は新皮質・辺縁系に広く分布するがゆえ、脳側と身体側とを結びつける作用を持っているということである。
<<<

もう一冊お勧めの本がありました。

>>> 「宇宙に法則はあるのか」 ジョン・D・バロウ、青土社
科学者が一般的に考えていること:
1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。
中略
9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。
<<<
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心は恐らく今の状態で哺乳類の発生時からあったのではないでしょうか、あるいはそれ以前。


そして心はDNAに刻まれて今日まで伝承されたと信じています。

したがって、生き延びるため、統率するための心も伝承され、今では不要な存在です。
>その到達点は一体どういうものなのでしょう
全宇宙の桃源郷を望んでいます。

この心ほど重宝なものはありません。大いに利用しましょう。
心を自在に操る方法があります、殆どの人が信じませんが、信じる人には本当に有効な手段です。
なんせ、神様が心の中にいるようなものですから。
祈っても何のご利益もありませんよ、蹴っ飛ばしてこき使わなければ。
本当に知って試したければ回答者に一言記載してください。
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この回答へのお礼

心を自在に操る方法について、HPで色々と見させていただきました!参考にします!

【桃源郷】については、私は(大体楽園みたいな感じ)というイメージしか持っていなかったので、ちょっと調べてみました。なるほどなぁ!と思いました。
曰く【再び訪れることが出来ない】
【桃は生命の象徴】

確かに、生命は増殖しようとしますね。まるで全宇宙を埋め尽くそうとせんばかりに、あちこちへ手を伸ばします。人間なんかは本当に宇宙にまで飛び出しています!
No.13様が仰っていた唯脳論によると、人間は【自然】に対抗するために脳の中にあるような世界をつくろうとした、とありました。
桃源郷と結びつく不老不死への願望も、脳化社会の形成と何か繋がりがあるようにも思えます。そういうことでしょうか?



心の中に神様がいるというイメージはとても面白いです!
私の心の中の神様は気まぐれで、たまに現れたり、消えたりしますね。心がそうさせているのでしょうが、ずっと現れたままでもつまらなく、ありがたみもないので放っておいてますw
No.9様が言うように、心の神様の意見や行動と真逆のことを考え、実行してみるのもなかなか刺激的で面白かったりします。

ご回答、ありがとうございました!

お礼日時:2010/09/01 01:26

 こんにちは。


 
 人生の主題は
 ★ この質問に対しての回答は自由です。
 ☆ という表現に現われたように 《自由》です。

 《わたしがわたしである》ことです。さらには《わたしがわたしする》ことです。

 色をつけていえば むかしから不老不死(あるいは永遠の生命)が主題です。

 ただこの自由は ひとりの人の相対的なものという条件つきでの独立主観においてそうであると同時に――同時にです―― やはり〔その条件つきだというその意味としても〕経験的で社会的な人びととの関係性においてもそうであるという或る意味で厄介なものです。
 そうなれば 存在論であるとか あるいは人間的交通(コミュニケーション)論また社会形態論(社会をいとなんでいくに当たってその共同自治のための仕組みをどうするか)などなど 人間と社会との理論的にも実践としてもの問い求めが重要となります。
 ひとはこれを日々の生活を繰り返すことをとおして行ないますから 経済は基礎です。自然科学はもろもろの社会生活のためにも有益な認識と施策を用意してくれます。
 でもまぁ人生といえば 生きがいがあるのではないでしょうか。

 自由は 一人ひとりそれぞれが心において納得しないと成り立たない最後の自由であるようです。
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この回答へのお礼

一人の短い人生の中で【自由】という言葉を主題と結果に置くなら、きっと人はいつまでも自由であり続けるのだろう、という感じでしょうか?
私としては、その【自由】によって個性が徹底されるのか、それとも全てのものを全ての人間が同じように手に入れるというような形で均一化されるのか、あるいは他か…というところを想像してしまいますね(笑

人はいつかその【厄介さ】が完全に取り除かれた自由を得るのか、そしてその自由とはどういったものであるのか、と疑問が広がります…

人生に生き甲斐、私もあると思います!
というのも、とりあえず今誰かに「今すぐ死にたいか」と聞かれても、決して首を縦に振れそうにないからですw
人の理性としての生き甲斐は見つからなくても、直感で死にたくないと思っているのなら、目には見えず、想像すら出来ずとも生き甲斐のようなものがどこかに存在しているはず…

ご回答ありがとうございました!!

お礼日時:2010/09/01 00:58

お薦めの本・・・


梨木香歩:「西の魔女が死んだ」、新潮文庫
「こころの科学」第100号、特別企画:脳とこころ、日本評論社
アントニオ・R・ダマシオ:「感じる脳」 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ
などなど・・・

。。。

ところで、本当に
>>>
心のために身体を傷つけたりする
<<<
のでしょうか?

そう感じ取っておられる時点で、すでに「心」というものを御自身で定義しておられるようです。
果たして傷つけている「主体」は心でしょうか?

少なくとも私には、その「主体」が「心の一部」、それも「身体側から離れようとする心の一部」であって、特に「論理的思考を好み、情動を嫌い、不自由な身体からの離脱を目論んで、永遠を手に入れようとしている一部」と思われます。
その一部は、自身の論理性を論理回路へと引き写し、アルゴリズム、プログラム、データ構造へと形を変えてコンピュータ内部へとコピーを続け、論理的・無矛盾の塊として脈動しようとしているのかもしれません。それは、養老氏の「唯脳論」での「視覚優位な脳の側」として捉えられるものに相当することでしょう。


私の思うところの「心」とは、そういった「一部」として切り離すことのできるような概念ではなく、「身体側」にあまねく広がり、さらには、多くの人々へと枝を伸ばしているような概念です。
水滴と水面が出会うときを誕生の瞬間とすれば、水面に広がる波紋が「こころ」の広がりなのかもしれません。

広がり、反射し、複数の波紋と折り重なりあって、複雑な波紋を織りなしていく。
。。。

私的には、心には「進化」とか「退化」とかいった概念はなく、切り離されようと(他を切り離そうと)する「部分」に収束しようとするのか、相互に関連しあって(全ての中で響きあって)「全体」へと広がっていこうとするのか、そういった方向性(ないし動的な揺らぎ)があるのだと思っています。
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この回答へのお礼

お薦めの本、ありがとうございます!「西の魔女が死んだ」は読みましたが、後ろ二点は読んでいないので、機会があったら読んでみます。


>すでに「心」というものを御自身で定義しておられるようです。
まっことその通りでございます。そのせいで、今までの回答者様方にも(ご覧の通り)迷惑をかけている結果となります。申し訳ないと思います…



唯脳論という言葉は知らなかったので、ちょっと調べてみました!ほんの一部は理解できたと思います。
ただ、「視覚優位な脳の側」という単語はわからなかったので、ちょっと無視をさせていただきます。申し訳ないです…

なるほど、人が自身の肉体すら傷つけようとするのは、情動のなかで情動によって生まれる行動ではなく、唯脳論としての【脳】が(いままでそうしてきたように)情動という不自由を脱ぎ捨てようとした結果の行動だということでしょうか?確かに情動によって人間の行動が何かしら制約されているのも事実かもしれません…
そしてそれが心の一部だというのは、唯脳論では情動というものもまた脳の作用によるものであり、その一部とそれを嫌う一部とが存在するということで、場合によっては情動が完全に必要なくなる事態というのもあり得る、ということでしょうか。
(例の通り私はとても勘違い野郎なので大きく違っていたらご指摘お願い致します)
しかし、身体の不自由から抜け出す方法が【肉体を傷つける】というのは、脳にしてはなかなか非効率的で単純すぎる行動の気もしますね…。実際、ジャングル生活が不自由だったからと言っていきなり最初にジャングルを中から荒らすような真似はしなかったと思いますし…いや、やっぱりそこは私の主観なので、気にしないことにします。



後半、「身体側」というカギ括弧がつけられているということは、前述のような【情動等、唯脳論における視覚的優位な脳の側にとって不自由な枷となるもの】を肯定する、という立場の心を想定しているということでしょうか。

水面の波紋は【水】というものでもあるが波という状態でもある、というのは前回答者様が仰っていた【量子論的】というものに近いものを感じますね…あのような感じでしょうか?
水自体は上下するのみで、波と一緒に移動しているわけではないですしね。

そのイメージで言うと、心の動きというものは普段は波のような【状態】であり、そこに分け隔てられる個性、主義は微々たるもので存在せずと同義であり、人類全体が一つの水面を複雑に揺らし(具体的には、より複雑な社会、感情、思想、知識などを築き上げている)、常に変化(進化・退化ではない)している。
だが時と場合によっては分化されうるという考え方もOKで、論理至上主義な一部の心が他の主張を押し切って肉体を傷つけることもあるというように、心の一部が他と矛盾する行動をする【主義】が生まれることもある。
といった感じでしょうか?大きく違っていたらご指摘お願いします(汗



ご回答、ありがとうございました!

お礼日時:2010/09/01 00:27

no.3です。


なんか、じわじわと盛り上がってきた感・・・ですね。
前回は割と軽い気持ちで回答させていただいたのが、今となっては少し自己嫌悪です。(ここら辺に、もしかしたら真の回答があったりしして。)

no.4さんの回答と、それに対する質問者さんの補足・お礼も読ませていただきました。

もしかしたら、no.4さんは「般若心経」の事を念頭においた回答をしているのではないでしょうか?
有名な「色即是空、空即是色」のくだりを髣髴とさせるような言い回しがあるようにお見受けしました。

質問者さんは、「量子論」的な方面の語句について詳しく調べられているようですが、
ソレはソレとして間違いでない様には思いますが、
仏教にもある種の宇宙観があります。

で、そのような宇宙観と、量子論を含む(もちろん相対性理論も)物理学や天文学上の宇宙観とに、多くのシンクロする部分が
「わたしは」あると思います。
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この回答へのお礼

は、般若心経ですか…小学生のときに文だけおもしろ半分で覚えて内容を全く理解していない私ですが、そろそろ色んな知識や意見や考え方、【考え方】そのものに対する意見などでパンクしそうです…汗

そうですね、自然現象にもたくさんの目に見える法則というものがある(っぽい)ので、そこから生まれた人間の思考、観察、勘による宇宙観が多くの繋がりのようなものを持っていても不思議じゃないですよね(人間には先入観というものがあるので、人間の勘と実際の物理法則が食い違うこともあるようですが)…

二回も回答してくださって、ありがとうございます!

お礼日時:2010/08/30 22:07

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