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哲学することでは、悟りの世界には到達できないか?

言語活動で、目に見えない世界の真実に迫ろうとする哲学。
非言語活動の、瞑想や等で心の真実に迫ろうとする座禅。

西洋で生まれた哲学。
東洋で生まれた瞑想、禅

アプローチの違う二つ。
哲学は、瞑想、禅が到達する悟りの世界には、決して到達できないのか?

主張とその理由を述べてください。
 

A 回答 (23件中1~10件)

※回答の続きです



さて標題に戻って、「哲学によって悟りを得られるのか」という問題ですが。
悟りの定義はいろいろあって難しいのですが、とりあえずそれを、瞑想によって感得される境涯のこと、とすれば、それは本当に体験されなければわからないことで、思考の及ぶ範囲の事柄ではないと思います。
原理的に、「語られた悟り」というものはありえません。哲学とは、考える自分の根拠や自明性そのものをも考えようとする姿勢のことだと思いますが、それであってもなお、語られる以前の「生の悟り」というようなものに触れることはできないのです。

しかし、ご理解頂けると思いますが、私は、瞑想やいわゆる「悟り」が哲学の及ばないほど優れたものである、と言いたいわけではありません。ほとんどのひとは四六時中瞑想だけして死んでいくわけにはいかないのですから、それだけが絶対であるはずもありません。
重要なことは、作られたシステム上でのみ作動する「自己」を絶対視するのでなく、また逆にこの世と没交渉のまま、「あちら側」のめくるめく世界に耽溺するのでもなく、瞑想の智恵を現実に生かそうとすることです。それこそがお釈迦さん始め多くの仏教者が心を砕いたポイントなのです。ものを知らずにその営為をも軽んじる者は、そうすることで単に自身の無知と浅薄さをあらわにしているだけに過ぎません。
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哲学と禅をそんなに区別する必要はないと思います。



西洋の哲学者ハイデッガーは道元禅師の「正法眼蔵」に触発されて「存在と時間」を書いたそうです。
さらに晩年には、英訳で親鸞聖人の「歎異抄」を読み、大変な感銘を受けたと日記に記しています。

哲学は言語活動だけで行うものではないし、禅も瞑想だけで行うものではないからです。
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主張



哲学でも、禅、瞑想でも、悟りの世界に達するのは無理。

理由

悟りを開いたと自己申告した釈迦は、正しく見、正しく聞き、正しく考え、正しく話し、正しく行動をすれば、悟りの境地に達すると言っているから。

釈迦の言う悟りは、自己の環境認知の枠組みを変更すると言うことみたいだから、釈迦の言う通りにやっていれば、環境認知の枠組みを変更することはできそう。

ただ釈迦は正しさの絶対的基準はないと言っているので何が正しいかを判断するのが難しそう。
だからいまだに悟りを開いたのは釈迦だけなんだろう。
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>哲学は、瞑想、禅が到達する悟りの世界には、決して到達できないのか?



出来ると思います
私自身が悟りに至っていないので強くは言えませんが^^;

理由はこんなことを言うと色んな人に色々言われちゃいそうですが
私が思うに悟りとは「納得」だと思います
自分が納得する物に至れるかということが重要です
そういう意味では哲学も瞑想もどちらのプロセスでも至る可能性はあるでしょう

しかし最も重要な部分は、哲学というプロセスを選ぶ者と瞑想というプロセスを選ぶ者
その両者には人間性の傾向の違いがあるような気がします
その違いが二つのプロセスで悟りに至る人間の単純な人数の違いになって現れているよう
な気がします
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「悟りとは全く疑問を持たない状態のこと」という回答が先にありました。

一般にはこういうイメージが流布しているのでしょう。しかし、このイメージは明らかに間違っています。
そもそも、瞑想というものがなぜ生まれたのか。そしてなぜ実践されているのか。一度そこを考えてみる必要があるでしょう。

普段の私たちは、まわりの色々な存在やできごとをいちいち分析的に処理したうえで理解しているわけではありません。大概のものごとは、自分の中に既にある、社会的・文化的な認識の大きな枠組みに沿って、半ば自動的に処理されています。いわば、認知システムとしての人間は、大体の時間を自動運転でやり過ごしているようなものです。

その認識の枠組みのうちで、骨格にあたる一番根本的なものが、「言語」や「時間」の観念です。これらは社会的に作られた象徴システムであって、いわば一種の約束ごとに過ぎません。ところが、これらがあまりにも深いところで私たちの認知システムを規定してしまっているために、私たちは自分の認識の根っこに根本的な制約があることをついつい失念してしまいがちです。いわば、毎日を社会の反復的な暗示の中で過ごす私たちは、一種の「文化的な催眠」状態にある、といってもいいのです。

「言語活動のみが真理に至る唯一の道である」といった(「へのかっぱ」ならぬ「カッパの屁」のような)意見は根強くありますが、これはそういった催眠状態の陥穽に気づかない、典型的な錯誤の例です。少なくとも、「主体としての自我が、均質な時空間において透明なツールである言語を操作して真理に到達する」といった体の、いわゆる近代的自我意識の怪しさは、現代思想の批判を待つまでもなく、瞑想の実践者のよく理解するところでした。彼らは言ってみれば、瞑想を通じて文化的な催眠から抜け出て、真に覚醒する時間を持とうとしたのです。

瞑想を始めた人々の感覚の底に共通してあったのは、自我というものへの疑問であり、それが生み出す世界像への疑問、といっていいと思います。
常に意識のうえで主体として表れるこの「私」、その自我意識というものは実は一種の虚構ではないのか。私たちには普段、身体でもって外界から区別された自己イメージがあって、そのまわりを時間が均質に流れてゆく、といった認識を持っているけれども、実はそれは客観的な事実というよりは、むしろ逆に、自我意識が作りだしている世界イメージで、それ自体が象徴の体系に過ぎないのではないか・・・・。おおよそこのような感覚から瞑想は実践されてきましたし、そこで体験された知見は、普段の我々の感覚を大いに相対化する力として機能してきたのです。

現実に瞑想によって体験されることがらのうちで、とりわけ顕著なのは、時間の感覚の消滅です。そしてこの時間感覚が消えることで、アイデンティティの感覚も失われます。時間軸上の過去や現在をつなぎながら「自分」を「自分」として統合している意識が消えるからです。
また、時間の感覚と欲望というのは実は互いにリンクしているために、快や不快をはじめ欲望も消滅し、生まれて死んでいく「自分」という限定された存在への執着から解かれる感覚を得ることになります。古今東西の瞑想家たちが、一瞬が永遠になり、自他の区別がなくなるような、ある理想的な究極の状態について語ってきましたが、この状態はそのような、ある意味での「現実」を述べたものです。

体験を人に伝えようとすれば、つまり体験にそのひと個人の境涯以上の意味を持たせようとすれば、必ず言葉なり何なり、既存の表現手段を用いざるをえません。ですから、瞑想の現実が語られる時にはどうしても、ちょうど夢や神話のように、荒唐無稽な風情がついてまわることになります。しかし、瞑想の知見そのものを否定することはできません。瞑想家にとってみれば、瞑想を知らないものが普段認識する世界のみを全てと信じて他を排斥しようとするのは、実は自我による保身に過ぎない、とすら言えるのです。

だからといって、(強調しておきますが)瞑想家は言語活動を全定するわけでは全くありません。確かに瞑想家の中には、恐らく瞑想による境涯を得たまま至福のなかで、しかし人知れず孤独に亡くなる者も多数あったことでしょう。しかし、お釈迦さんを始めとして、多くの思想家は、瞑想によって得られた知見をもって、日常の生活をより有意義にすることを選び、現実に積極的に説法を行ったのですし、歴代の仏教者もそのようにしてきたのです。

※以前、禅と言語活動の関係について回答しています。ご参考までに
http://okwave.jp/qa/q6013027.html
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哲学は、意識する脳の働きです。

言葉を頼りに考える事に当たります。分別脳の働きの考えです。論理的に人生を突き詰めてゆく学問です。自我意識です、或いは顕在意識としての考えです。

それに対しては『禅問答』で分ると思いますが、この問答は言葉を使っていますが、分別脳に拠らない言葉です。分り難い書き方をしていますが、人間には二つの意識が存在しています。参考までに、ウイキペデアから引用しておいて、説明をして見たいと思います。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究


ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。”

右脳の意識が『仏性です、或いはキリスト教における神です』悟りを開いて、生死の問題を解決する、と云う意味と、神に会って和解する、と云う意味は、教義上の関係から厳密に言うと多少違い部分があるかもしれませんが、『心的な内容』有限のこの身が、永遠に抱きすくめられて、救われたと云う意味においては、同じと考える事は出来ます。

右脳の機能とは『生命活動を営む営みそのものです』母親の胎内にいるうちから働いている働きです。その証拠は、学校に行かないうちから(生まれた瞬間から、或いはその前から)心臓やホルモンや腸や呼吸までその時々に応じて、最適に整えています。

そうして左右の脳の機能の分化が完成に近ずいたあたりから、人間は苦悩するようになります。つまり右脳と左脳が別々に考え始めると云う意味になります。

アダムとイブが知恵の実を食べたと云う意味は、左右の脳の機能が完成して、”二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持ったと云う意味になります。それが失楽園と云う科学的な意味になります。

つまり、知恵が付いて(左右の脳が二つの違う人格を形成して)『心の矛盾に苦しみ始める』と云う意味になります。

右脳の意識は、顕在意識には分り難くなっています。何故ならば、無意識の意識として君臨しているからです。メンタル面が強い人とは『自我意識が出ないようにして、無意識の自分に任せる事が出来る人』と云う意味になります。

逆にメンタル面が弱い人とは、『自我意識が引っ込めなくなって、無意識の意識と喧嘩をしている状態、或いは、無意識に入り難くなった人』と云う事になります。

哲学的に考える事は、論理で世界を、或いは人間を考える事に当たります。悟りの世界は、分別を捨てた考え方です。思考方法が全く違います。論理的な考え方が『人間の心の闇と、有限の壁を作っています』言葉に依る考え方が、人間を有限の世界に閉じ込めているからです。

その訳は脳の機能によっています。言葉で論理的に分析する機能は『割切れる事をその機能としている』と云う意味が有るからです。従って左脳の分別する機能は、割切れる問題しか解けない機能と云う意味があります。

自我意識だけでは有限の壁を越えることは出来ないと云う意味になります。では如何するのかと云う事が『禅問答』生まれた背景にあります。

禅問答とは、左脳にある人格自我意識が、右脳に在る『命その者を働かせている、無意識の主人公』=『神、仏』と出会うためのテキストという事になります。

人間の計らい(例えば悟りを開きたいと云う気持ちや、神経症になって治りたい気持ち、或いは自律神経失調症になって治りたい気持ち、或いは心を病んで、生き難い想いから離れたい気持ち)等の計らいで生きた時、自我意識には出来なかったと分かる時、右脳の意識が顔を出します。それが見性です。

その訳は脳の機能から説明出来ます。神経症や心を病むと言った場合の『自我意識への圧迫感』は右脳からの情報です、高い所に上がった事を脳梁を通して情報として送っていると同じものです。

自我意識が感じる『漠然とした不安や罪悪感等』は右脳からの生きてゆくために必要な情報です。ただ好きと嫌いでその情報を『受け取ろうとしなくなっています』ますますその信号を増幅して送ろうとします。その弱い不安を拡大して増幅した信号が『恐怖感』という事になります。

生まれたばかりの何も知らない赤ん坊でさえ『不安や安心や恐怖』を知っています。不安や恐怖感とは右脳の働きの事です。今の医学は心に対して、ある意味では間違った対応をしている事になります。

自我意識の計らいが尽きた時、右脳の意識が左脳の意識と、心の奥底で、交替する時、出合う事になります。自分を不安にしていた者の正体と、その訳を知ると言う事です。『神と和解する』涅槃。
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「悟り」が何だか“悟って”いないので、「より深い認識に至る」という意味であれば、困難があります。



1に“分野”。
哲学とは哲学に留まるものではなく、諸分野に渡る見識が求められ、「哲学だけやって」は至らないものがある。

2に“モチベーション”。
「哲学だけやって」いたのでは、広い社会・世界の実態から遊離し、論理だけの作業、言葉だけの成果に目が奪われ、方向性が「哲学のための哲学(あるいは社会的評価)」へと偏向しがちである。
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できないと思います。


(前置きとして私は禅や仏教に関してはほとんど無知なので誤ったことを言っているかもしれません)
まず「悟り」もしくはそれにイコールのものは哲学の範疇にはないと思います。
(No.14さんの回答が分かりやすいかもしれません)
(私論ですが)哲学すなわちフィロソフィとは世界に疑問を抱き考え続け、考えつづけることだと思います。
しかし人間である限り出ない答えがあると思います。
つまり哲学と禅に共通することは認識力を高める(が高まる)ことだと思いますが、禅でいう悟り(認識力が高まった「境地」)は哲学にはないだろうということです。
哲学にゴールはない
と私は考えます。
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アプローチの違う二つ。


哲学は、瞑想、禅が到達する悟りの世界には、決して到達できないのか?

○「覚者=目覚めたる者」とは「悟りの道」を知り、それを説く者ですが、同時に哲学者でもあるのですね。
では、「悟りの道」とは何かといえば、一人静かに「哲学」することなのですね。哲学の先に見えてくるもの、感じ体験するものですが、それは認識力(知識力)で表されるものなのですね。
「認識力」を高めることがつまり「悟りの道」なのですよ。
このように言えば、哲学、瞑想、禅は同じものであることがわかりますね。
何も考えずにただ座っていても足が痛くなるだけですね。荒行しても体が強靭になるだけ。目標のない哲学してもゴミ知識が増えるだけ。これらは当然「悟りの道」とはいえませんね。
「覚者=目覚めたる者」の最高・最強の存在は「仏陀」ですから仏陀が指し示す「悟りの道」を正しく理解し、実践した者のみが「悟りの道」を歩むことができるということですね。それはまさしく「哲学の道」なのですね。
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出来ないと思います。



哲学は正しい疑問を持てる状態を目指す。
禅はなんら疑問を持たない状態を目指す。
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