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桶狭間の戦い、その後について教えてください。

桶狭間の戦いで信長は今川義元の首を取ったと思いますが、その後今川領がすぐ信長のものになったのではないとおもいます、尾張の隣に三河があり、家康がいるはずです。
家康は義元の首が討ち取られた直後に独立して三河領を平定したと記憶していますが、
信長はあの戦いで何を得たのでしょうか?
またその後あのあたりはどうなっていったのか軽くでもいいので教えていただければと思います。

それではよろしくお願いします。

A 回答 (3件)

桶狭間の合戦の時、


信長の領土は尾張半分程度しかなく、
ご存知のように兵力も少なかったので、
今川軍が撤退した三河を確保する余裕はありませんでした。
義元を討ち取ったことで信長が得た最大のものは
尾張全土を平定する時間だったと思います。

あの当時、尾張は経済の先進地域であり人口も多く、
草深い三河よりも遥に価値がありましたし、
実際尾張全土を掌握した信長軍は
軍事的経済的に飛躍的に強化されました。
美濃侵攻において敗戦を重ねながらも
その度にすぐに立ち直りえるだけの底力を持てたのは
尾張という豊穣の地あってこそでしょうね。
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<<その後今川領がすぐ信長のものになったのではないとおもいます>>



その後、今川が信長のものになったことは1度もありませんよ

その前に本能寺で信長は死にましたのでね、
武田と徳川が分割し、以降家康のものにはなりましたけどね。

この桶狭間の戦いは尾張と西三河の国境での紛争で、
巷のように義元が
尾張を併合し、京に覇権を打ち立てるもではなく、
国境紛争にかこつけての三河、熱田、津島、伊勢の港を繋ぐ、
海運(水運)権益の奪取にほかなりません。

これを脅かし、奪う(信長の財政基盤をつぶす)
ことが当面の今川の戦略でしたが
もともとの兵力の差のないうえに
大部隊の結集のしにくい地理的なこともあっての
敵の大将が戦死するという結果になりましたね。


そのとき家康は大高城に守備交代のために入っておりましたし、
丸根鷲津の砦も落ち、
鳴海城には重臣の岡部が固めておりましたので、
副将がしっかりしておれば、信長の退路を遮断して
討ち取れたでしょうがね。

そこは素早く戦線を離脱して清洲に逃げる
ヒットandアウエー戦法の成功。

家康が義元戦死をすぐに信じるはずはないでしょう。
岡部も同じ 確かな筋の確かな情報でさえも簡単に
信じないのが、この時代の常識。

今川先鋒の朝比奈は岡崎城で義元の戦死を聞いています。
今川軍の先鋒が本隊の義元より、うしろになるはずはなく
予定どうり目標を完遂して(信長は来なかったの認識)の先頭撤収とオイラは
考えているけど、

<<信長はあの戦いで何を得たのでしょうか?>>

結果的に当面、東の脅威の除去と国内の実質的な統一
三河伊勢湾海運ラインの防衛と権益保持
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信長は戦のあと、残っている今川軍と戦ったり、三河に攻め


込んだりせず、さっさと引き返しました。
大将が討ち取られれば、残りの兵は駿河へ撤退すると考えた
からです。   その通りになり、今川方に侵略されていた
尾張の南部と東部を取り返しました。
尾張を守り切り、東の脅威がなくなればよいとの考えです。
美濃を狙う事になります。

松平元康(のちの家康)は岡崎城に戻りましたが、城にいた
今川氏の城代と軍兵は駿河へ引き上げたあとで、難なく城を
手に入れました。   元康の自立です。
義元の子の氏真に一緒に弔い合戦を、申し入れましたが、氏真
にその気なく、逆に信長と組むことにして、とりあえず、三河
平定に乗り出して、年内に西三河を占領しました。
3年ほどかけて三河を平定し、遠江を狙うことになります。

今川氏真は父のあとを受け、領内を治める努力をしましたが、
永禄11年になると、家康が遠江に、武田信玄が駿河に侵入を
開始し、氏真の力では防げず、今川氏滅亡の道をたどりました。
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