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「人生に逃げ場無し」と考えるようになりました。 
こちらの動画にも悩みを書きました → http://www.nicovideo.jp/watch/sm12507361

人は、死について悩みます。「ただ生まれて生きて死ぬだけが人生なのか?」と。
そこから逃げる為に、
人は、「幸不幸」、「善悪」、「生まれ変わり」、「あの世」、「未来」
といったモノを信じたがるのでは?

しかし、そのどれも信じられない僕は、「ただ生まれて生きて死ぬだけが人生だ」と考えてます。

加えて、「どんな人生を生きても大差ない」とも考えます。
なぜなら、この世界には否応無く、苦楽のバランス、禍福の相殺といったモノが
働いていると考えているからです

例えば、
「生まれてすぐに死んでしまった赤ん坊は、生きていたら得られたであろう喜びを逃したが、
生きていたら与えられたであろう苦しみから逃れた」

といった具合に。

また、光が強いほど、影が強くなるように、不幸が濃いほど、幸福も濃くなる。といったように。

「生まれ変わり」や「あの世」といったものも、全否定するつもりではありません。
しかしあくまで「存在するかもしれない」程度の認識です。懐疑を捨てきれない。

上のURLの動画にも書きましたが、禅僧や、幼児のように、「今」にだけ集中し、
言葉も概念も介在しない「空」に生きられたら良いのですが、自分がそうなれるとは到底思えません。
死体にでもならない限り。

また、「自分」より長く存在できる「他人」や「国」や「人類」の未来に頼る事も出来ません。
なぜなら、この世の全ては、人一人の命と同じように、永遠では無いはずだからです。
人類も、宇宙でさえも、いつかは滅びます。ちょっと、長いか短いかの違いでしかない。
それらの「死」が、何かの「生」に繋がってる事も想像できますが、逆に想像出来てしまうからこそ、
「他人」やら「国」や「人類」の未来に頼れないのです。すべては壮大なスケールであるがまま。

これらの事を認識して、すごく空しい気分になるのですが、同時にすごく安心も出来る自分がいます。

「じゃあ何を相談したいんだ」という話ですが、

死に悩んでる人間も、この世の無常に悩む人間も、たくさん見てきましたが、

「生きて死ぬだけが人生で、どんな人生を生きても大差ない」という事に悩む人間は、
僕は見た事がありません。 悩むといっても、もはや受け入れる他には無いのですが。空しい。
大体の人は、その前の段階で、何かを「信じる」事により悩まないでいられるように見えます。
そういう人達は、それで別に良いのですが。

ブッダでさえ、「どんな人生も大差ない」という事についての悩みを表面に出してはいないと思います。

要するに、同じ「悩み」を持つ人間が欲しいのです。寂しいから。それが僕の「悩み」です。

本でも何でもいいから、あったら紹介してほしいのです。

A 回答 (8件)

仰る通りです。


生まれて来て、生きて、最後には死にます。

でも、どんな人生も大差無い、というご意見には乗れないです。
死ぬ際に良い人生だったと思えるか、これでは死んでも死に切れないと思うか・・・
はたまた、死の瞬間、あの世と言う概念に確信を持つかもしれません。
その際に 安心して死ねるか、それともなんて事をしてしまったんだ、と後悔するか・・・

私はその時その時を大切に生きていればその内良い死を迎える事が出来るだろうと思っていますよ。いつもいつも精一杯生きる事は難しいので、せめて、何かを選択する際には人間として美しくありたいと思っています。
それでも人間、生きているとしがらみとか本能的欲求などに振り回されて、色々と細かな事で悩んでしまいます。どう生きるかは人それぞれです。出来るだけ後悔の少ない人生を歩めれば大成功、という軽い気持ちで行きましょう。

あ、最後に残念ながらニコ動のアカウントを持っていないので映像を確認出来ませんでした。
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この回答へのお礼

確かに、人生色々、骨格も色々、おっぱいの形も柔らかさも色々、死にかたも色々。

なるほど!「幸不幸」「善し悪し」は無視しても、
「多様性」は無限といってもいい程あります。
が、どんな人生も生まれて生きて死ぬという一種類しかないという事と、
やはり苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、という性質もあるので、
正確に言えば、「どんな人生も大差あるが、大差無い」と言った方が良かったかもしれません。

「大差ある」というのも真実ですが、「大差無い」というのも真実。

まとめると、
「生まれて生きて死ぬだけが人生で、どんな人生も大差無い。しかし、人生の多様性は無限で面白い」
と言える。

うーむ、何故ここに気付かなかったのだろうか。僕は。多分気付いていたんだけども。

「美しくありたい」「後悔して死にたくない」ってのは本当にそう思いますよ。

でも、「醜い人生」「後悔する人生」も意思に関係無く送らざるを得ない可能性が存在しているのが
この世の嫌なところですね。

そこは、天に任せるしかない。でも、、
結局、実は人生に美しいも醜いも無い。
良い死にかたも悪い死にかたも無いんじゃないのかと思うんです、いや思いたいだけかも。

その代わり存在するのは「多様性」つまり「面白い」という事。と、今考えました。

まーよく分からんですね。
結局それぞれ信じたい人生観持って生きればいい。
という事は最初から分かってるんですがねぇ。

どーも、僕は悩むのが癖になりすぎてるだけかもしれませんね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/23 19:26

 『浜までは海女も蓑着る時雨かな』



 江戸時代の俳人滝 瓢水という人の句ですが、海に入って濡れるのは当たり前の海女さんも海に入るまでは蓑を着て雨に濡れないようにしているという句です。要は、生きている間は最善を尽くそうということです。
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この回答へのお礼

最善尽くしたいですねー。 
でも、土台何が「善」なのか、という悩みがあるんですよ。

何か信じられる「善」があればいいんですが、疑い深すぎて迷いまくりです。

言葉も知らないでお絵かきに熱中してる幼児がうらやましいんですよ、最近。

いい句を教えていただき、ありがとうございました

お礼日時:2010/10/23 20:51

質問者ご自身が,単なる一個人の思い込みを無根拠にしゃべっているだけなのか,具体的な事例を踏まえた上でそのような普遍的な結論に達したものなのかを知っておきたいです。



>この世界には否応無く、苦楽のバランス、禍福の相殺といったモノが働いている

この箇所,確かにそう言えるという事例をいくつか挙げていただけますか。普遍的な結論だと言い切るためにはたくさんの事例を調査検討する必要があるでしょうが,Q&Aの場なのでまあ3つくらいでいいと思います。

>光が強いほど、影が強くなるように、不幸が濃いほど、幸福も濃くなる。

この箇所の具体例も3つお願いします。マンガやアニメでこういう大げさな台詞を見かけたことは何度もありますけれど,私の知るかぎりこの現実世界は,セカイの真実を簡単に言い当ててしまえるようなマンガの世界とは,ずいぶんと違うものだったので。

>死に悩んでる人間も、この世の無常に悩む人間も、たくさん見てきましたが、

たくさん見てきたということなのでたくさん挙げてほしいですけれど,たいへんなのでやはり3例でいいです。私は個人的に,同様の発言をしていた若者に関わったことがあり,その者が言う「たくさん」というのが学校内・自分の身内や近所・フィクションで仕入れた表面上の思い込み,であった経験があるので,質問者の「たくさん」発言をマユツバに思っている点を告白しておきます。

それから逆に,限りある生を精一杯 全うしたと言える人間,他人や国や人類のために貢献した人間の例を(※)こちらも3例,挙げていただけますか。あなたの考えが自分と同様の意見だけしか吸収せずその中に閉じこもることでようやく自我を保っている脆くてナイーブなものなら話は別ですが,普遍的な真実として確信を持っていらっしゃるのなら自分と立場の違う意見の数々は自分の思想を強く補強するための反証材料として使えるはずですから。さまざまに異なる人生の数々を知ったその上で質問者がご自身の結論に達したのか,それが知りたいです。
(※「どんな人生を生きても大差ない」ならば,「精一杯 生きた」「他に貢献した」という価値観は理解できないことは承知しています。どうぞ,精一杯 生きたと「他人が評価している事例」,他人に貢献した人間だと「世間が評価している事例」と読み替えてください)

--------
しかし。
どんな人生も大差ない,と認めて素直に受け入れるのではなく,それに「悩んで」いるのですよね。納得してそれを受け入れはしないのですね。
「自分は自分,他人は他人,だから自分の悩みは自分のものでしかない,そういう人生」もそうでない人生も大差ないのに,前者は受け入れず,後者であってほしい/同じ悩みを持つ人間が欲しい/寂しい,のですよね。
大差ないと言いつつ,明らかに差をつけている,その矛盾って質問者自身はどう折り合いをつけていらっしゃるのですか?

質問文の冒頭を流用させていただくなら。

幸せな人生,善い人生,精一杯やった人生,同じ悩みを持つ他人がいてくれる人生。
質問者はその価値を内心認めているだろうことが質問文から垣間見えるのに,それに関わろうとはしない。
そこから逃げる為に(そんな自分を正当化するために)
「ただ生まれて生きて死ぬだけが人生だ」「どんな人生を生きても大差ない」
といったモノを信じたがるのでは? と私には思えました。

であるならば,モラトリアムという言葉で数十年前から説明されてきた若年層の心理状態のようにも思えます。
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この回答へのお礼

苦楽のバランス、幸福不幸の相殺の事例はいくらでもあります。そこらじゅうにあります。

「風呂に入れば、自分の体積の分だけ水かさが増える」
「コップの中にある水が、放置していたら減った。それは水が水蒸気としてどこかへ行ったからだ」
「人は何かを手に入れると、その何かを失うのが怖くなる」
「うんこ漏れそうで急いでいる時、トイレに近づく程、より漏れそうになる」
「めちゃくちゃ我慢した末、出したうんこは気持ちいい」

あげたらキリがありません。

死に悩む、無常に悩む人も、いくらでもいます。
この「教えて!GOO」にもそういう人はたくさんいますし、
友達にも「死って怖いよね」という人はいますし、
それに誰でも生きていれば一度は悩むんじゃないですか?

突然、病気で余命を宣告された人やら、知り合いが死んだ人やら、これも挙げたらキリがない。

有名な人物でいえば、ブッダでも鴨長明でもトルストイでも手塚治虫でも宮崎駿でもその他色々でも、
あーこの人悩んでるなー、もしくは悩んできたんだなーというのが分かります。

例えば、車が発明されました。車は便利です。しかし、車のおかげで排気ガスが大量発生し、
交通事故で死んだ人間もわんさか居ます。
車が行きかう外に出るのも、不安と危険がつきまとうものです。

食べ物が大量に作られるようになっても、人口が増えに増えて食べ物が足りなくなり、
さらに食べ物を大量生産し、人口が増えるのを繰り返し、とうとう70億近くにまで人類は増えました。
このままでは、かつてない程、人命を大切にしない時代が来るでしょう。
ついでに、食べすぎで病気になる人間もいっぱい。

文明とは麻薬のようなものです。何か便利なものが発明され、慣れてくると、
「その便利なものが無くては生きていけない社会」が出来上がります。

発明や他人の為の行動が悪いというのではなく、
「貢献」、「善し悪し」の概念自体が僕の中で相当ぐらついているという訳です。

他人が「精一杯生きた」と評価するどんな人間を持ってこられたって、
僕にはどんな雑草も、花も、赤ん坊も、人間も「精一杯」生きているようにしか見えません。

仮に、特別に「精一杯生きた」人間がいたとしても、不老不死になる訳じゃない。



僕は、「どんな人生に大差はない」と考えてますが、
だからといって、個人個人に欲求が存在する事は否めません。

僕と同じ悩みを持つ人間を見つけようが見つけまいが、大差無いのですが、
それを認識している事と、僕がそれを欲しがっているという事とは別です。


「大差が無い」と認識しているからといって、
「何もしない」「すぐ自殺」をしなきゃいけないという事は無いでしょう。

つまり、「死にたくない」と思っていても、確実に自分が死ぬと認識した人間は、
「死ぬしかないけど、死にたくない」と「認識」と「欲求」に違いが生じる。という訳です。
そしてその僕と同じ「認識」を持つ人間を見た事が無い。だから見つけたいという「欲求」がある。

こういう事を考えていると、僕は、
いっそ言葉も概念も介在しない「空」の境地であるがままに生きたいとすら思うのです。
しかしそれが出来るとも思えず、出来たとしても大差ないという認識もある。

つまり、僕が矛盾しているとすれば、矛盾を抱えたまま生きているという事です。
とにかく、
一つ言えるのは「生まれて生きて死ぬだけが人生で、どんな人生も大差ない」という事です。
言い換えれば、「どんな生き死にも全て美しい」と言えますが。

あ、回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/10/23 18:04

お坊ちゃま的な発想。

苦労知らずな感じ。
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この回答へのお礼

生きている人は誰でも、等しく苦労し、等しく楽をしているんじゃないですかね?

誰かが特別に苦労か楽をしているとは、考えれなくなってきました。

大体、「楽」「苦労」というものは、外面だけで判断できるモノではありません。

同じ作業をしている人でも、
ある人は「楽勝だな!」でも、ある人は「まじきつい・・・」かもしれません。

それとやはり、「苦ある分だけ楽あり、楽ある分だけ苦あり」という性質が存在しているのではないか?
とも思うのです。

実際のところ、「苦」も「楽」もただの言葉でしかない以上、どうとでもできますがね。

回答ありがとうございました!

お礼日時:2010/10/23 19:39

私が大好きな言葉なんですが、



「生きていると言うことは、死ぬまでの間の準備期間」

と、沢田研二さんが以前に言われていた言葉です。

せっかく産まれてきたのですから、考え方を変えて、
もっと前向きに生きて見ませんか?

生きたくても生きられない方も大勢います。
生きているのが辛い方も大勢いますが、それは自分の学びのために
この世に生かされているのだと思いますよ。

私も何度か死にかけたことが有るので、今は後悔のない人生だったと
思えるように、精一杯いつ死んでもいいように毎日を生きています。

人のためにいろいろ出来ることをしたり、相談に乗ってあげたり…
見返りなんて全く求めませんが、そうしているうちに
いつの間にか、人が寄ってくれいいご縁にも恵まれるようになりましたよ。

何事にも、感謝の気持ちが大切だと思います。

寂しいなら、まずは自分をさらけ出さなければ誰も共感はしてくれませんよ。
ご自分が変わらなくては、何も変わりません・・・
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この回答へのお礼

そうですよねー、いつ死んでもいいように生きる。

世の中には、そもそも「死」を認識しようとせず、忘れ、目を逸らしっぱなし。
という人も作品も多い気がします。それが色々歪みを生むのではと。

この世に生かされているというのはつくづく感じます、

自分達が食べている物は、他の生命の「死」なのだと。
「死」によって生かされているのだと。
そして自分の「死」も何かの「生」になる。

生かし生かされ、というのがこの世なのは納得がいきます。

結局、僕はもう悩まなくてもいい境地に立っているのに、それでも悩み続けているだけかもしれません。

その原因は、覚悟の無さか、なんなのかは分かりませんがw

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/23 21:10

本を読むより高野山で荒行を積んだり、お寺で座禅でも組んで瞑想してみてはいかがですか。



人は生まれたときから死ぬために生きています。
これは否定の仕様がありません。

アフリカへ行ったことがありますか?
アフリカの黒人たちは暮らしが貧しくてもとても明るいのです。
彼らの思想は「今日が楽しければ良い」と言うものです。
明日の事は考えない、今が楽しければ良い。

この考えも一理あります。
貧しさを毎日考えていては気が触れますよね。
今日が楽しければ・・良い考えだと思います。

蛇足ですが、私は三途の川に3回行って来ました。
最近では5月22日です。
三途の川は水が灰色で対岸は見渡す限りのお花畑でした。
小さな船着場がありこれまた小さい船が留っています。
いつもここで現世に戻ってきてしまうんですよね。
本当は灰色の川の向こう岸に行きたいのですが、行かせてもらえません。

生まれ変わりの「輪廻転生」や「七生回天」は本当にあるのかもしれませんよ。
ベトナム戦争のとき北ベトナム軍が強かったのも、仏教の教え「七生回天」(人間は七たび生まれ変わる)を信じていたからだと聞きました。

人は弱いから何かにすがる、それが「宗教」なのかも知れません。

宗教論を読むのも良いかもしれないですね。
今の自分には一回しかない人生です。
大事に生きて行きましょうよ。
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この回答へのお礼

「今日が楽しければ良い」
問題は、明日死ぬ事になっていても、目の前に死が、苦痛が迫っていても、
それでも「今」を楽しめるか?という事になると思います。

結局、「覚悟」の問題なんですよね。
「いつだって『今』を楽しんでやるぞ!例え何が起ころうとも!」
という「覚悟」さえ決められりゃあ、悩みはしないのですよね。

むしろ、僕の場合は、
「どうせ悩むなら、死ぬまで悩み切ってやるぞ!」
という覚悟が決まりつつありますが。

「あの世」や「生まれ変わり」ってのはあるかもしれませんねぇ。ほんとに。無いかもしれないけど。

あの世があったら、あの世の「今」を楽しめばいいし、
無くても常に「今」を楽しんどけばいいのかもしれません。

とにかく、「いっさいは過ぎてゆきます」という奴ですかね。

お礼日時:2010/10/23 20:32

確かに私も輪廻転生や天国、地獄といった概念はなかなか信用(言い方が下手ですいません・・・)できません。

そもそも神や極楽といったものは人間が心のやすらぎを求めて脳が生み出した産物ではないのか、とも考えています。何が一番怖いかっていうと死ぬ時、恐らく脳が死んだ時、自分の意識が完全に消えてしまうことなんですよね。意識がある状態で意識がない状態を想像することはできません。そこには虚無しかない気がして・・・

すいません、難しいテーマなので考え方は人それぞれかと思います。ただ、本当の意味で輪廻転生や極楽といったものを信じている宗教において、その葬式が最近だんだん形式化してきているのは肌で感じます。


ちなみに、立花隆の「臨死体験」を気になられるようでしたら一読してみてはどうでしょう。
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この回答へのお礼

確か、トルストイは、「人生論」という本にて、

「死ぬのも、眠るのも、気絶するのも、『意識の断絶』という点で変わりない!
違いは永遠に目覚めないか、そうでないかだ。何を恐れる?」

みたいな事を言ってました。まー想像すると怖いですけどねw
「眠る」という事でさえ考えだすと怖くなります。

あと、人が本当に何かに集中して没頭している時も
、実は「無我」という点で「死」の状態と変わらないのでは?とも思います。

100M走の金メダリストが、勝利後のインタビューで、「走った記憶が無い」
と答えたエピソードはよく聞きます。彼は走っている間、あの世に行ってたのかもしれませんw

それよりも、人は、「自分がいつか忘れられるのではないか」とか
「一度得たモノを失いたくない」
という恐怖が、そのまま死の恐怖に繋がっているように思えます。

「死」というものは、自分の得た「身体」から「意識」から「財産」からなにからなんまで
強制的に捨てなければならないという事ですからね。

そう考えると、ブッダが「何も持たない、何も望まない」生き方が一番気楽で清らかなのだと考えたのは納得がいきます。実践するのは難しいかもですが。

宗教が形式化しているというのは、僕も感じます。

葬式で念仏を唱えるより、
里中満智子さんの漫画、「ブッダをめぐる人びと」を葬式に来た人に読ませる方がずっと良いのでは?と考えてます。→ http://www.amazon.co.jp/gp/product/4333022428

オススメの本、読んでみます。一度死にかけた人間に聞くのも、確かに手っとり早いかもしれませんね

ありがとうございました

お礼日時:2010/10/23 20:13

貴方には本よりも人と接することが必要なようですね

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この回答へのお礼

確かにそうだったのかもしれません。

実際、ここで皆さんの反応を見て、それらに対しての回答を考えている内に、

考えがまとまってきた気がします。


インターネット万歳!
教えてGOO 万歳!

皆さんありがとうございます。

お礼日時:2010/10/23 19:33

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