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 山本一力さんの小説に、江戸の水売りの心意気を描いた長編があります。しかし、これは間違いでしょうか。感動的なお話でしたが。
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/mizu_23/no23_a01. …

A 回答 (3件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸の住民は飲料水を水売りから買ったのでは

はい、「水売り」という商売はありました。

市街地の大半は埋立地でしたので、井戸を掘っても塩分が混じっていました。
家康は、いち早くこの問題を解決するために天正18年(1590)に大久保藤五郎に命じて「神田上水」を引くことに成功しました。
しかし、これはほんの一部にしか供給できず、4代将軍家綱の時代に、庄右衛門、清右衛門兄弟(通称、玉川兄弟)が工事を請負い、幕府も資金として公儀6000両[2]が拠出し完成したのが「玉川上水」でした。

当時の水道は、土中の樋(とい)を伝ってきた水をためて汲み上げるものでしたが、外見上はまったくの井戸に見えました。
ただし、水道の井戸は水が地表に近いところにありましたので、竹竿の先につけた桶で汲み上げていました。
一方、江戸中期以後に普及した飲み水に使える掘抜井戸は、釣瓶(つるべ)でなければ水まで届かなかった。

現代のように各家庭に水が送られてくるのとは違い、洗濯は井戸端まで行かなければならず、飲み水もたえず新しくしていないと腐ってしまいました。

「湯水のごとく」とは言うが、江戸では湯も水もふんだんに使える状態ではなかった。手間がかかるだけに、むしろ、大事に使われ、「湯水のごとく」ではありませんでした。

さて、「水売り」ですが、呉服橋のそばの「龍ノ口」(たつのくち)では、千代田城から流れてくる神田、玉川両水道の余り水を外濠に落としていました。この水を船で運んで、飲み水が得られない本所や深川あたりの住民に、一荷四文で売り歩く行商人がいました。余り水なので元手は「タダ」。四文は運搬代でした。

水売りの絵を添付してみます。
「江戸の住民は飲料水を水売りから買ったので」の回答画像3
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山本一力氏の著作で、「水売りが江戸全域で活動した」との記述はなかったか と。


引用された記事にも
>深川あたりは低地帯だから井戸を掘っても塩水だろうし、という話を編集者としながら見ていたのだが、この編集者がフットワークの軽い人で資料をあたってくれ、「どうも、大変な水ビジネスがあったらしい」と意気込んでやってきた。そこで、がぜん興味が涌いてきた。
と、地域を限定した記述がありますが・・・

幕府が上水道の整備を進めても江戸全域に水道網を張り巡らせることは出来なかった上、本所・深川などの下町は、埋め立て地であったため、浅い井戸では塩気が多く飲用に適さなかったため、飲料・調理用の水売りが活動していたとのことです。

参考
「クリナップ」ホームページ 江戸散策 
http://www.cleanup.co.jp/life/edo/05.shtml
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江戸時代の町民は大方が「長屋暮らし」で、水も井戸を共同で使用していました。

農村部にも勿論、井戸はあり、それから井戸とはまた違う「湧き水」もあったでしょう。しかし、このURLを読めば、水を自前で供給する事の出来なかった地域があるというのも頷けます。そんな訳で、私は江戸の町に「水売り」が実際に居たかどうかと言われれば「居た可能性は十二分にある」と思います。保存方法も、よく時代劇では町民が長屋に帰ってきたら、玄関脇に置いてある大瓶の蓋を取り、ひしゃくで水をガブ飲みするシーンが見られます。水が保存できる環境があった以上は、水売りが居たって不思議ではないと思うんです。
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