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故あって、裁判に関わる商売をしています。

うちの業界では、東京地裁~判決は無期懲役~、横浜地裁~判決は死刑だけど裁判長と裁判員が控訴を薦めたことが話題になりました~、鹿児島地裁と、裁判員裁判で死刑求刑事件が3件続きました。4件目も仙台地裁で出るかもしれないというのが今時点の状況です。

裁判員が、死刑を科すか真剣に悩んだ様子を見て、《日本でも、まだまだ多くの人が、殺人犯の命であっても奪うことにためらいを覚えてくれる、それだけ命に敬意を払ってくれている》事実に、僕は多少なりともほっとしましたが、そう言う感想は少数派かもしれません。

やはり命に軽重はあるのでしょうか。とても軽い命はあるのでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

戦場で銃を構えれば・・・


自分や仲間の命は重く、相手の命は軽くなる
共に死んで同じだと分かる

善人の命は重く、悪人の命は軽い
悪人をいくら殺しても、善人は救われきれない
軽い命をいくら消しても、重い命の重さそのものが増えるわけでもない

飼っているペットの命は重く、エサになる動物の命は軽い
自分にとって大切なものは重く、そうでないものは軽い

愛するものの命は重く、憎むべき相手の命は軽い
愛は命を重くして、憎しみは命を軽くする
愛は命の肯定、憎しみは命の否定
いくら否定しても決着のつかない命の重さ・・・


だらだらと・・・思いつくままに書いてしまいました。
命の重さを計る秤ってあるのでしょうか?
また、罪を憎んで人を憎まず、といっても難しいでしょうね。
裁判の事はよく判らないのですが・・・
個人や大多数の共通した主観の判断に委ねられている、というのが現状のような気もしますが・・・
客観となると、或いは全く同じかもしれない・・・などとも思ってしまうのですが・・・
ご参考まで。
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その人が存在することの不要度に差があるか、という問いに変換できるとしたら、軽重はあります。


でもその人を殺すことにほかの人と同じくらいためらいがあるか、という問いなら軽重はないと答えます。

両者は一見矛盾しているように見えますが、矛盾していません。

そして質問者さんの問いは後者であるので、答えは「軽重はない」です。
しかしこれは僕の答え、つまり僕の認識から生まれた答えですが、僕の認識は正しいので、これが正解となります(笑)
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社会規範と無関係に「命の軽重」を論議することは困難です。

神を持ち出さなければならないでしょう。社会規範で論議するならばかなり容易な問題でしょうか。この方針で考えて見ましょう。
 社会規範の上に立って論議するからには、重要度の第一が「健全な社会の再生産がゆらいではいけない」でしょう。「命の軽重」は二番目以下の重要度となります。第一の重要度から論議を始めるとするならば、社会の健全性を損なう恐れのある命と健全性を高める命との間には軽重が判別できることになるでしょう。
 重要度の低い主題を突然提出して論議する場合には混乱が生じるという例でした。
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命は基本的に重いというのは否定しませんが軽重はあると思います。


これは誰しもそうだと思いますが、私は自分を含め、自分に関わりのある人の命は、赤の他人の命よりも重く受け止めています。
自分の親や配偶者が亡くなれば、大きなショックを受け食欲がなくなったり、眠れなくなったり、涙が止まらなくなったりするでしょう。
でも、赤の他人が亡くなったニュース、それがどんなに残酷な殺され方をしたものでも、私はそれを見ながら平気で食事をしていますし、泣くこともありませんし、日々忘れています。

結局命の軽重は個人の主観で決まるものだということです。

裁判員になると加害者と会いますよね。
被害者が亡くなっていたら被害者とは会えませんよね。
会った事のない人の命と会った事のある人の命はどちらが重く感じるでしょう?
どんなに凶悪犯でも、その人に会ったとたんに命をリアルに感じてしまいます。
殺された被害者の命をこれと全く同等にリアルに感じることはできるでしょうか?
…これはすごく不公平です。

裁判員制度は一般の感覚を取り入れるため導入されましたが、
「この人が私の意志によっては死ぬかもしれない。」
これは一般の感覚ですが、判決には全く関係のないことです。
でも会ってしまったらそうゆう意識がどうしたって働いてしまう。
それは自分が間接的にでも人殺しにはなりたくないからでしょう。
人殺しになりたくない理由のひとつとして<命に敬意を払っている>からというのも入っているかもしれませんが、それがメインになるかどうかは疑問です。

私はむしろそうゆう感覚で判決が揺らぐのだとしたら、危機感と恐怖心を覚えます。
生きている加害者は死んだ被害者よりも常に優位に立ってしまうからです。

控訴をすすめた裁判長と裁判員はなんなんですかね。
他の方も言っていますがあまりに無責任すぎます。
「今回は多数決で君は死んだ方がいいってことになったんだけど、まぁ自信ないし、ぶっちゃけ自分達のせいにされてもあれなんで、もう1回裁判やってみたら?」
ってことですよね。。最低です。

長文乱文失礼しました。
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 命自体に、軽重の差はありません。

ただ、罪人の人格によっては、人は恐れと怒りによって切り落とすしかないと、感じるのでしょう。現在、犯罪者の心情的な教育機関は、どのくらいありますか?そして、その教育効果がどれほど効果をあげているでしょうか?

 用が無いから、役に立たないから、あるいは悪いことをするから、憎いから切り落としてしまえ、というのは乱暴な話です。(それは極端に言えば、ヒットラーの思想となんら変わりはありません。)
 そのような人々は、本来ならば、そうであるがゆえに手厚く面倒を見られるべきなのではないでしょうか。特に精神面での教育は、重要なポイントになると思います。
 現在の教育機関は、物質的な能力(知識)によって人をレベルわけします。そこからこぼれおちたら、あとは見放されるばかりです。ましてやそのような立場の人たちには、人が本来受け取るべきである、基本的な愛や躾や人間関係構築の機会さえ欠けています。性格的に何らか(理性)の欠如が認めら得る場合もあるでしょう。誰からも嫌われ、適切な面倒を見てもらえないがために、保身ゆえに自己中心的にならざるを得ない弱い人々が排出され続けます。虚しさと憎しみに囚われ、自分の将来さえ絶望してどうしようもないとき、人は犯罪に手を染めるのではないでしょうか。
 罪を犯した人であっても、その罪を悔い、人格が変わるほどに自らに向き合えたなら、その人はやはり罪人でしょうか?その人はその後も、罪を犯しつづけるでしょうか?人が人たるものになるには、一体何が必要でしょうか?多くの人は、考えません。

 多くの人は、自分のまともさを疑いもせず、罪を犯すまでに辿った犯人の心情を推察することさえ、できません。罪人と同じ環境に置かれたとき、絶対自分は罪を犯さないと言えるか、それすら想像したことは無いでしょう。それは、ある意味、幸せであるがゆえに、能力があるがゆえに不幸な人間の苦しみや心情を何も理解できないということにもつながっています。
 精神的な苦しみに無縁の、ある意味幸せな人、そのような人たちにとって、不条理に奪われた被害者の命は、おそらく自分勝手な罪人の命よりも明らかに重いでしょう。それが悪いことか、悪くないことか、私にはわかりません。そのとき、被害者でない第三者が判決を下すことは、相当な負担になるとともに、人間の存在価値の何たるかに向き合うことになるのでしょう。加害者に道徳性の回復を認めない、と言うのなら、いま現時点での社会の成熟度において、被害者の心情を優先させ、死刑を望む人たちが多いのも理解できます。被害者の苦痛を省みず、自分の心情だけで事件を起こすような、理性が欠けているような罪人に対して、その人格を矯正することを望むにしても、一体誰がしてくれると言うのでしょうか。
社会そのものが、そのような人を輩出するような道徳観念しか持ち合わせないのに。

 社会が、人間本来の価値がどこにあり、罪人を生む自分たちの責任を認識し、それに対応できるほど成熟しなければ、意見は分かれ続けるでしょう。それは、また人間に対する理解がどこまでできているか、にもよるでしょう。

  
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善悪の分別は、その組織によって相対的なものであり、また、


その組織での立場や帰属の程度によって相対的なものです。
1杯の水の値段が、その人の条件(ノドの渇き)や環境
(水の入手しやすさ)によって異なるように、ある人の罪の
重さや命の価値は、個人の価値観によって異なります。

「人の命」も、「1杯の水の価値」と同様に、自分にとっての
利用価値に過ぎず、ただ、人間の場合は、その「自分」が
社会生命的な存在であり、「社会にとって(=規則やモラル
といった硬直したもの)」という、若干の普遍性をおびる点で、
単純に“自分(自己中心的名)の損得”とは異なり、現象的
に複雑に感じられるだけです。
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 結論に到れない、永遠の議論の主題ですね。

死刑やその他の刑罰の目的論、機能論、正当論とともに。
 裁判に関わるご商売だそうで、多分、お仕事っていう意味でしょうね。当然ながら売買などの商いではないですよね。

 そういうお仕事の方にもたくさんの職種や専門がありますし、申し訳ないがご質問の中心と動機、期待している目的が少し把握しにくいですね。

 【やはり命に軽重はあるのでしょうか。とても軽い命はあるのでしょうか?】ということ、そしてその意味を投稿者がそれぞれに受け取って、所感を述べるだけでいいのでしょうかね?

 ANo.10のmmkyのお話は私もその通りだと存じますが、それとは別の視点での所感を投稿します。
 【やはり命に軽重はあるのでしょうか。とても軽い命はあるのでしょうか?】に対してはいずれも否定ですね。
 どの命にも軽重の差はないと存じます。軽い命はないと存じます。
 国家による刑罰は野蛮であると存じます。死刑はその最たるものだと存じます。
 国家自体が人類としては非常に未開時代の継承だと存じます。
 無論歴史事実としては国家は人が一定の文化を展開してきたプロセスとして発祥してきている事は認めます。
 このご質問の関連する一方向として、人間論や本質論があるとすれば、一定の歴史展開としてではない人間の本当のあり方としては、国家という無機質で権力と武力、実力のある統治支配はその人間性とは悖理する存在であらざるをえないと存じます。
 そういう歴史存在としての、犯罪とそれにたいする刑罰の中の死刑の話になると存じます。

 死刑となる犯罪をするに到った人は、どうしてもそういう歩みをさせられ、また歩んできているのですね。
 そこに事情斟酌の問題も当然あるのでしょうが。
 そして(自己と)被害者の命を尊重できない、そしてしない行為に到るのですね。
 被害者の人生と命の非尊重という事態において、その犯罪の行為者は自己の人生と命の非尊重ということを、意識的か無意識的か、判断的か不判断的か決定してしまっているのですね。
 だから行為者の人生と命を国家なる組織が否定していいという事にはならないでしょうが。
 そういうことを勘案しながら、事態の性質から人類の過渡的な制度と生活としての国家の安定的存続性から、軽重の問題ではなく、死刑という選択もやむを得ないことではあると存じます。
 かの上級審への控訴の判決は、人の歩みを考えにいれると裁判長としては頷ける、同情できる説諭だと存じます。
 それだけつらく、深刻に扱いながら、上級審では一等減じる判決を期待したいところです。
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やはり命に軽重はあるのでしょうか。

とても軽い命はあるのでしょうか?

○ 裁判所は罪を裁くところで命を裁くところではありませんよね。つまり罪の軽重はあるが命の軽重はないといいたいのですね。
これ簡単なようで割と難しく、理解しがたいことかもしれませんね。
簡単な例を持ち出せば、ちゃんばら劇で主人公が悪代官や取り巻きをばっさばっさと切り殺しますね。でもこれは劇で誰も本当に死んでいるわけではないことは皆知っていますよね。別の劇では悪代官役が主人公になったりしますものね。
さて何を言っているかわかりますかね。人生も劇でしかないといっているのですよ。
殺されても死刑になっても人生劇ですから誰も死なないのですね。ここでいう死なない存在が命ですね。肉体は死ぬのですよ。この不思議が理解しがたいところでしょうね。
犯した罪の量刑は軽いものから死刑までありますがそれは反省の程度でしかないのですね。いちばん重い罪は肉体を失うというだけなのですね。まあ肉体を持って犯した罪の反省は出来るだけ肉体をもって反省すべきであるということは言えますが、被害者感情もあり死刑が存在するということですね。
この話は転生輪廻に基づいているということは明白でしょ。転生輪廻を持ち出せば数限りない転生の過去世のどこかで人殺しをしていない人はほとんどいないということも事実なんですよ。
そういう事実を知ると罪を裁くことと命を裁くことは全く違うものだとわかるようになるのですね。
・・・参考になるかな?
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>裁判長と裁判員が控訴を薦めたこと



 おかしな事態に陥っている。
 裁判員制度の下では死刑判決が出にくい恐れはあったが、裁判所までが同調している。
 けっして、罪人の命が重くなったのではない。裁判員はその傾向にあるのだ。

 この裁判の控訴審で無期になったら死刑判決はさらに出なくなる。

 つまりは、これまでの判例から極端にずれるのではないかと心配である。
 そして、死刑廃止論を議論する暇なく、死刑廃止に傾く可能性がある。

 裁判員制度が始まる前にこの事態を予想すべきだったのだ。

 このままでは、千葉前法務大臣のシナリオ通りに進むのではないか。
 私は死刑廃止に反対しないが、なし崩し的な事実上の死刑廃止は止めてもらいたい。 



 ご質問について個人的意見としては、殺人者の命は軽いと思う。
 なぜなら、殺人者は、本来その行為に至る直前に被害者から正当防衛で殺されていなければならない人間だからだ。
 死刑というのはその殺人行為の直前に戻すにすぎないのであって、裁判によって情状の余地があれば救済しているのである。
 殺人を犯したから死刑にするのではなくて、当然殺されるべき殺人者をどれだけ救えるかなのではないかと思う。
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人の命に軽重は無いと思います。

だからこそ、安易に死刑判決を出さないという意見には賛成です。
しかし、その判決を出す裁判員、裁判官らが、自らが出した結論に対し、更に上級の機関に審査をしてもらいたい意見を表明することは、裁判官として無責任だと思います。
それなら、無期懲役なりの判決があったはずです。

死刑を選択したということは、犯人の犯した犯罪が、犯行の状況、情状、反省の態度すべてを勘案した結果、極刑を持って望むほかないという結論を出したということで、もし、控訴を勧める様な迷いがあるまま、死刑判決を出したのなら、無責任この上無く、質問者様の「日本でも、まだまだ多くの人が、殺人犯の命であっても奪うことにためらいを覚えてくれる、それだけ命に敬意を払ってくれている」という意見には疑問を持ってしまいます。

 今回の判決は、選ばれた裁判員と、裁判官で協議して出した結論であり、裁判官は、その結論を責任を持って背負わなくてはいけないと思います。
それであるが故に裁判官であり、法に基づいて人を裁く職務を与えられた者なのだと思います。
そうでないと、日本の裁判制度自体がおかしくなるのではないかなと考えてしまいました。

まぁ、この意見にどれだけの人が賛同するかは不明ですが、結論的には、あらゆる裁判において、裁判官は、自分の出した判決を、例え、裁判員という一般人と協議の上決定した内容だとしても、その結論に責任を持ち、他の裁判官に判断してもらいたいといった中途半端な気持ちで判決を出さないでもらいたいと思いました。
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