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十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。

日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。
・恋愛の詩人
・メランコリックな詩人
・サディスティックな詩人
・宗教的な詩人
・魔術的な詩人
・政治的抵抗の詩人
・貧者の側に立つ詩人
・ダンディズムの詩人
・芸術至上主義の詩人
などなど、あるといえるでしょう。
上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。

ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。

ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。
個人的な感想、分析をお待ちします。

A 回答 (89件中41~50件)

やっぱり猪突さんは見透していらっしゃる。

まったく象徴派詩人というのは、つまりボードーレールの後継から脈を得た世代ですが、時間の経過や場の移動をすっかり表現の世界からぬぐいさることに腐心したところが理系だとわたしは思っているのです。動きのなかで生成を決定することがすなわち世界の仕組みであることを、すでに鬼才エドガー・ポーは推理小説ばかりでなく詩の構造でもあると考えて、とにかく虚構作品からは建設足場を外すべしと言ったものです。ボードレールの現実逃避的理想と主観的気分変調とポーのこの理屈とを学んだ後の詩人たちのやることは次のようなものです。手掛かりの語彙にポイントを定めたのち、そこからたちまち潜在的な層へ方程式の展開のように中へ没入して話を繋げていき、いわば逸脱のない自走式宇宙を組んでから足場を外しておくというものです。
陶枕や壺や茶碗に中国人がひょいと入り込む場合は主人公が覚醒して出てきますが、象徴派詩人はそのような乗り物だけを作り、万人に席を提供することに秘儀めいた喜びを覚えているのです。耽美主義作家と相性がよかったのも一種の構成美と秘匿趣味があるからです。
しかし実際こうした自走式宇宙に乗れるか乗れないかは読者を選ぶところで間違いないのです。これは黎明期のモダニズムと時期が重なっており、心理学者ウィリアム・ジェームズの提唱した「意識の流れ」がここに合流することで、難解で名高いような20世紀大作家のほとんどは、上記の象徴派の系譜とジェームズの意識の流れの系譜を汲み、ねちこく緻密な執筆姿勢のもと作品美をものしているといえるでしょう。

ボードレールが日常語彙群を使って表現する対象を主観的に選んだことは、文学青年の起爆剤になったというのが妥当に感じます。もはや時代が天才を求めていなかったのでモーツァルトを引き合いに出すようないわゆる天才の兆候は指摘できないでしょう。この頃の天才とは、金融か政治か理化学がマスコミか商売か芸能に微笑みかけられる才能です。すなわち欧州は金利がどんどんあがり、国際関係が緊迫し、技術改良と合理化か進み、軍部主導で都市整備が進み、情報移動が欧州広域で速くなり、物の量が爆発的に増大した時代であり、その精神は不安定で享楽的な父無し子にしばしば喩えられます。
欧州に視点を置くと、ボードレールの周囲から現代文学にまで及ぶ影響線の中に、われわれ日本人に親しみある作家たち、ゲオルゲもリルケもメーテルランクもワイルドもキャロルもエリオットもナボコフもジョイスも含まれていますが、ここに一筆で掬い取れないのは北欧文学であるといえましょう。イプセンが日本によく知られていますね。
それにしても猪突さんは立派な教育者だと感服します。長年父親をやるとこうなられるのかとも思い、まず相手に気まずく沈黙させない、理解の不足を齟齬と呼ぶ相手にますますの齟齬をもって返す、思うに世間の優れた母親もまたこの技術にたけており、話を散逸させてばかりであるにもかかわらず息子にウチのおふくろは偉大だったと言わせることでしょう。わたしも息子を理詰めにすることなくそのように育てたい。
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#47で述べたことについての補足



そこでは、鍵言葉として「決定論」とか「確率」と言う概念が出て来ますが、そこで言う「在る世界」から「成る世界」への物理学の認識の変化は、複雑系を扱う非平衡熱力学の「散逸構造の理論」が1970年頃に出て来てから明確にされ始めたことです。従って、量子力学で言う確率とか不確定性原理には全く関係がありません。実際、量子力学の基本方程式であるハイゼンルグ方程式やシュレーディンガー方程式は、数学で言うところの決定論的な方程式ですので、それは「在る世界」記述しているのです。だから、非平衡熱力学や非平衡統計力学で言うところの、「成る世界」を記述している非決定論的な運動論的方程式ではありません。事実、この非決定論的な運動論的方程式は、量子力学であるかニュートン力学であるかに無関係に導き出されるものですから。

この部分をはっきりさせて置かないと、物理学の知識のある方に私の#47での主張が誤解されてしまう可能性もあると思いましたので、念のため補足して置きました。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。今の私にとっては、量子力学も、プリゴジンも説明を補足するための比喩の域を抜けないものとなってしまいましたし、残念ながら、ちゃんとは理解できない程度の数学力しか今はありません。ただし確かに最初は量子力学の方かと思ったので、補足、助かりました。

お礼日時:2010/12/22 21:35

読み返して見て、賽子さんも結構濃厚なことを言っていることが見えて来ました。

ここまで来るには随分時間と量をこなしつつ血のにじむ努力をして来たのでしょうね。

>思いきっていえば、詩とは自然科学の考察対象である、宇宙そのものを「想像=創造」することなのです。詩人が物理学者なのでは無く、読者が物理学者となって考察することを要請している――これが近代詩における大きな転換です。雨合羽さんのNo6で書かれた言葉は上のような意味を踏まえてであったと私は考えます。

>>その後の芸術の動きと言うのは、テーマやイマージュを美しいと喜ばせるのが芸術家の仕事ではなく、マスを相手に、読者や鑑賞者にどういう普遍を見せてやれるかというところに勝負をかけることになるのですね。


>(4)まとめ
近代芸術とは詩人が物理学者なのでは無く、鑑賞者に物理学者であることを要請するものなのです。芸術の受け手こそ、自らのパースペクティヴを決めて観察することを求められているのです。

以上の言説を踏まえて論じてみます。

物理学の対象にする世界は、伝統的には「在る世界」、すなわち貴方が居るか居ないかに無関係に存在する世界であると思われて来ました。すなわち「存在」が論じられて来たのです。確かに、誰も見た事もない大海の中の孤島は貴方が気が付こうが気が付くまいが、そこに島が在るではないか、と言うのです。しかし、粒子の数あ多く成り、対象が桁違いに複雑になると、果たして「在る」と言う概念でその本質が理解できるのか、それよりも「成る世界」として認識すべきではないのかと、近年の物理学は言い出したのです。「成る世界」とは「変化する世界」のことです。

「在る世界」は永遠を対象とします。しかし、「成る世界」は一過性を対象とします。ところで我々自身は一過性が本質ですね。だから、成る世界では「我々自身」が研究対象になるのです。在る世界では、我々に無関係にそこに在る。だから、全てが決定論的であり、偶然の入る余地がない。だから「創造的営み」という言葉に何の意味がない。何故なら、創造だと思っている生成物は、それが出て来ることが前もって決定論的に決まっていたからです。一方、成る世界では、未だ未来が与えられていない世界であり、本質的に確率論的な世界です。そして、宇宙は偶然を契機として次々と新しい世界を創出してくる。別な言い方をすると、成る世界のみが、創造的な営みを通して我々が我々の未来の構築に参加出来る世界なのです。

だから、「成る世界」では我々は我々の埋め込まれている宇宙を創造できる。事実、私は、粒子の数が途轍もなく大きな系の問題を解いている時に何かの問題に打ち当たって右に行くか左に行くか決めかねている時に、計算を幾らしてもどちらに行くか決められない経験を何度もして来ました。そんな時には、右に進むか左に進むかは、私の決意で決まって来るのです。そんな時には、私の場合大抵夜中の3時ごろに夢枕に女神様が現れて、「お前や、右に進みなさい」なんていうお告げが出て来ます。そんなお告げが出た時にガバッと起き上がってその方向で計算してみると、それで良いんだと言うことが見えて来る。そして、その方向で新しい世界が出来上がって来る。ところが、その迷っている時にもし私の女神様がその反対に左に行けと行ったとしても、それで良いんだと言う方向が見えて来て、その方向で新しい世界が出来上がって来るのです。だから、どちらも良かったのです。ただし、一方に進むと蝶々が出て来て、もう一方に進むと蜻蛉が出てくる。そんな時に蝶々の方が蜻蛉より正しいなんて全く意味がありませんね。でも、自分の埋め込まれた世界を蝶々から見るか、蜻蛉から見るかを決めるには「決意」がいるのです。だから、私にとって、この物理的な世界は「発見」するものではなく「発明」するものなのです。私にとっては世界は在るのではなく、成るのです。だから、物理学者も貴方の言う近代の詩人の如く世界を創り出しているのだと私は考えています。

ただし、その行為を認識するためには、私の決まり文句、すなわち「石に齧りつき血の涙を流しながら」思索や経験を深めて行く必要があると思っています。そして、その頭の下がる経験や訓練を経た者だけに、芸術の善し悪しが判断できるのではないかと思って居ります。そう言う意味で上の(4)まとめには同意できるのでが、その判断を雨合羽さんが指摘したようなマスに委ねることができるとは思えません。

ただし、もしそのマスの意味を不特定多数ではなくて、その苦しい経験や訓練を受けたもの達に限り、その作品の善し悪しの選挙に対する投票権をその人達に限ると言うのなら、芸術の善し悪しはマスによる多数決で決まると言うことに私は賛成です。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。そしてお礼が大変遅れてすみません。
当初の私が述べたかったのは、要するに詩を読むということが、どれだけ面倒かということでした。詩を読むことは「要するに何がいいたい?へぇ、まとめてみると単純だね」ということとは別問題だということを言いたかったのです。つまり一語一語、語の機能を検討し、まさに自分で解釈を考えねばならないのです。
読者にこうした手間暇をかけることを要請するというのは、見方によっては「手抜き」以外の何ものでもないということになるでしょう。実際、日常的な会話に慣れている人にとってみれば、「簡潔で単純明快に」表現してもらった方がありがたいことは確かなのです。詩の言語はかくして非合理的です。

しかしそれでは詩を読んでも、あまり生産的ではないだろうということになります。また文化として敬意を払うべき要点も外してしまっていることになります。それでむしろ詩の言語には、あたかも神託を読み解くように、特殊な言語の領域をまず認めてしまった方がいいということでもあるのです。それで個々の語を観察対象とみなすのは、あたかも科学者が自然現象に向き合うように慎重なのです。
「自然現象」は比喩に過ぎないものではありますが、伝統的な比喩ではあるのです。発想の源には天文学があるでしょう。ピタゴラスやケプラーを援用しつつ、星の位置を語が象徴的に示すという発想の遊びが古来より、詩人にはありました。たとえばプレイヤード派という詩人の流派の名がありますが、それはスバルのことを意味します。詩を読むということは、星の位置をあれこれ吟味して、占いをしているようなイメージがあったのかもしれません。

ただそこから猪突先生は、大変面白い方向に話を発展させてくださったことになります。まず詩的物理学が成立する世界の要件とは何か、というわけです。普遍的な「ある世界」と可変的な「なる世界」という二つの様態を考えてみないことには、詩的物理学はないだろうというわけです。これはまったくそうかもしれません。
つまり詩におきかえれば、ある言葉に並行的に二つか三つの解釈が成立し、読者の意志によって詩の世界が「成る」とみなさなければ、誰も詩を慎重に読みはしません。一つの意味に抽象化できるのなら、誰かが読んだのを聞いて、「あ、そうなの。自分は読まないでも、それでいいか」ということになってしまいます。

しかし複数の解釈が並行するとなると「この詩はAという意味かもしれない」という判断を下すのは、むしろ詩人ではなく、読者に委ねられることにはなるのです。これは作者の地位が後退する代わりに、読者の地位ががぜん上がることを意味します。この傾向は権威を否定する近年のポスト・モダンの文脈で、ますます拍車がかかります。これは芸術をマスの手に委ねるということにもなりはするでしょう。

この問題はポスト・モダンでなくても、十九世紀の頃から起きていたのでした。ボードレールの『悪の華』が風俗紊乱の容疑で起訴された時、「大衆を惑わせる」というのが、主要な批判です。しかし大衆が読むはずないじゃないか?という反論を弁護士はすべきであった――などという意見もあるのです。大衆の無理解に否認される危険を察知して、ロマン派の詩人らは「貴族的な文芸の共和国」を夢見ます。選りすぐられた読者と作家だけがいるコミュニティーということです。

詩の解釈を読者の自由に委ねた一方で、他方では読者層の選りすぐりを求めるというのは、矛盾しています。しかし現代でも、この問題は乗り越えられていないでしょう。芸術の美は感じるものではなく、しかるべき方法にのとって分析するものになりつつあるのは、全体の流れであるかもしれません。
ある程度のより分けと教育は必要なのかもしれません。ただ過剰さが行きつくところは、猪突先生がよく例に出すゴミ箱アートでしょう。その某という作者は、おそらく自分の作品は作者が定めた何かの方法によって分析されてはじめて真価を理解される――などというでしょうね。ゴミ箱アートとボードレールの理解のされにくさは、別物ではありますが、理解にいくらかの様式を要求するという点では同じ側面もあります。バランスが大切だと思うところです。また後で、前の回答のお礼はしますので、少しお待ちください。すみません。

お礼日時:2010/12/22 21:28

恁麼 (いんも) に来たるも棒を吃(きつ)し、不恁麼にして来たるも棒を吃す。

云々。小生、一体人とよれば棒を与えたくなるなり。ショウペンハウエルの譬喩に、豪猪(やまあらし)四、五、圏中にありて寒を感じ温を欲して相密著するときは、双方の刺(はり)たちまち相痛しむ。これをもって賢人は温を貪りて相刺さず、温を少なくして刺撃を受けざるを事とす、といえり。さればこそ小生は独孤にて人に求むることなし。仁者、小生に向かいて温を求められる。それその刺を畏れざるなり。願わくは小生の刺に痛むことなく、単に多少の温を得られんことを望む。

私の崇め奉る南方熊楠神が真言宗の学僧土宜法竜に宗教の講義をしている書簡の中の文章です。独孤と言うには陽気すぎる私ですが、私も刺だけは体中に付けているようです。

 わたしゃは野に咲くあざみの花よ 見ればやさしや寄れば刺す

ゆるい文学談義と言うことですので、刺のある叢に分け入ってチクチクしてばかりいないで、たまにはホットする無駄話もしてみましょう。私の特技は、会話に連想ゲームを取り込んで、話しをどんどん見当違いなところに横っ飛びしてしまうことです。だから、相手が何を聞いて来たかに頓着せずに、こちらで面白いと思った言葉や論旨を勝手に膨らませて相手を煙に巻いて悦にいって居ります。これは私の先生から教わった技です。講演の後の質疑応答の際、その先生は質問の本歌取りをして、その質問に関係なく自分で言いたいことを喋りまくっていました。今回の横っ飛びは子供です。

先ずは文学的に、

 よかろかのガキのガキたる好奇心 猫のタマでもイタチ野郎でも

とまあ棒を振り回したついでに、子供がいつも走っている理由を考えたことがあります。彼等は頭の中の空間と現実の空間の距離が未だ区別付いていないんでしょうね。だから、公園のブランコを見付けると、もうその子供は自分がそのブランコに乗っているつもりになっている。ところが現実はそうではない。その落差を縮めようと必死になってそのブランコに向かって走って行くのだと思います。だから、子供と大人では住んでいる世界の空間の大きさも全然違うんですね。

私は戦争直後のバラックで生まれ、そこに十歳頃まで住んでいましたが、その生まれ屋を成人してから見に行った時に、軒の高さも屋根の高さが余りに低いので驚いたことがありました。こんなのは、自分の体との相対的な大きさの認識ですから驚く事はないんですが、公園のブランコなどは、子供が頭の中の距離と戦っている。だらら、大人には中々見えない世界なんじゃないでしょうか。

 子供心と蛍の光 ここと見る間におやもうあちら

 惚れた惚けたで子供になって 見たことないよな夢を見る

もう一寸色っぽく、

 惚れて通えば千里も一里 逢わで帰ればまた千里

 庭の松虫音(ね)をとめてさえ もしや来たかと胸さわぎ

では、〆に、

 物おもへば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂(たま)かとぞみる





 
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「談話構築と領域」


http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/paper.html
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 こんにちは。


 例によって 作品がすべてという見方に立ちます。

 ▲ 聖ペテロの否認 Le reniement de Saint-Pierre ~~~~

 神には天使たちの受けた抗議の電話が届いていないのか。
 セラフィームたちは 今や来る日も来る日も汗だくで応対しているではないか。
 まさかこのわれわれの咎めの電話が鳴っても 子守唄にちょうどよい
 などということはあるまいに。
 ひょっとして いやまさか 神はたらふく食って飲んでご満悦だ
 というわけはあるまいに。

 あのイエスにしたがい人びとは
 次から次へと死地に追いやられるわ刑罰を受けるわ。
 この人たちのすすり泣く声も 父なる神には持って来いの調べなのか。
 それでも一向に動く気配は見当たらぬ。天使たちもよく見ると澄ましたものだ。
 たしかに人びとは神を愛していた。そりゃあ勝手に愛したのさ。

 それにしてもイエスよ。あんたはあのオリヴの園で
 神なる父に懇願していたぢゃないか。
 そのあとあんたにははりつけの釘が待っていた。
 こんこんと打たれる釘の音もむろん父なる神には心地よい音色であったとは。

 あぁ きみはローマ兵らにつばきを吐きかけられていた。
 吐きかけられるにまかせていたきみは ばかか。
 あたまにかぶせられたいばらのかんむりも
 ちっとはとげが刺さったかい? 痛かったかい?
 神の子ったって 人の子だろうよ。

 やがて腕が血を流してだらりと垂れ下がって来た。
 くしゃんとからだが縮こまった。
 見ろよ まだ生きていらぁ。汗を吹き出させて生きていらぁ。
 だったらみながさげすみの心を向けておまえを見ているのが分かるだろ?

 おまえはあの棕櫚の主の日にろばに跨って入城して来た。
 その歓迎を受けた日のことがかえってうらやましいか。
 国中の棗椰子の枝が道端に並び振られていた。
 あの華々しきついこのあいだの日がうらめしいか。

 あるいはその前には喜び勇んで おまえは神殿で
 物売りたちを咎めていた。鞭まで振り上げて。
 ようやく独裁者になったと思ったか。そのことも
 悔やみの種か。それがいま磔で槍が突いた脇腹の痛みよ。


 そうだろう? 夢のやぶれたキリストなんておいらはおさらばさ。
 あんたが逝ってしまうのならおいらはつるぎを振りかざして人をころし
 あんたから地獄行きの宣告をいただくほうがましさ。
 あのペテロもあんたをあのときは裏切ったではないか。三回も。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ こう見えてボードレールは キリストに就いて(したがおうとして)いますよ。キリストへの愛に満ちていますよ。どうですか?
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この回答へのお礼

ボードレールの詩といっていますが、原文を離れて、まったく無関係なものになっています。残念ながら、これでは議論の仕様がありません。悪意を感じるのは「電話」などという語を付け加えていることです。それに末尾の「夢の妹」という重要であり、また最も美しい語の一つは、どこに消えたのですか。
自暴自棄になっているのかなとさえ思います。でもそれは残念なことです。この「聖ペトロの否認」、たとえば井上究一郎はその一箇所を数十年かけて考えたのでした。松本勤もそうでしょう。好き勝手に改訳するようなものではないのです。そして詩の言葉に対する敬意が微塵にも感じられません。「どうせこんなもんだろう」「俺の方がもっといいことを言えるぜ」という気持ちが見え隠れしています。しかしそれでは自分のわかる範囲の考えをボードレールのリズムに合わせて言葉に置き換えただけです。これでは替え歌です。

「作品がすべてという見方」などともっともらしいことを書いていますが、この訳ではボードレールの作品では無いのだから、要するに、ご自分の訳を人に見せたいだけと思えます。おそらくフランス語は独学で勉強なさったのでしょう。それはよいことです。それを誰かに認めてもらいたいという欲求があるのかもしれません。というのも、私が困るといっているのに執拗に見せてくるのだから、何か思惑があるとしか思えないのです。――しかしBragelonneさんの心の隙間は、私には埋めて差し上げられません。出身だ、無視されているとおっしゃったので、せめて詩でうっぷんを晴らしたいのかもしれません。しかしここはそういう場所では無いのですし、私も受け止めて差し上げるような立場ではありません。私にできることといえば、他の回答者の方へのお礼に優先して、先にコメントするくらいです。

お礼日時:2010/12/15 12:56

#42のつづき。



>天才とは、自らの意志によって子供の無垢な好奇心を取り戻せる者である

この言葉は、「自らの創造的な営みを十分に分析し切っていない思索から出て来る言葉に違いない」と私は常々思っております。誤解しないで下さい。私は芸術家のその作品に対して批判しているのではなく、その言述の内容について批判しているのですから。岡本太郎が似たようなことを言っていたことを知った時に、彼は芸術作品に関しては私には良く解らんがきっと凄いものを造り出しているのかもしれないが、自分の行為を的確に分析して表現し切っていないと感じました。似たような言葉に石川啄木の「雲は天才である」があると思っております。

天才と呼ばれる芸術家と子供の違いは、その裏に自らの経験と思索で作り上げて来た論理があると思っております。その論理は、必ずしも言葉の時系列で表現されている必要はありません。行動の論理だったり、収まるべきところに収まると言う調和の論理だったり等、論理にはあらゆる形態があり得る。だから、芸術家は仮令その作品が偶然に壊されてしまっても、その裏にある論理を使って幾らでも再生が出来る。ところが、子供も雲のその裏に論理が存在せず、たまに驚かされる作品を作り出したり、子供が時々やる驚くべき視点を提供したとしても、それは偶然の結果です。だから、子供も雲も同じ物を二度と再生できません。私にとって、芸術や学問での創造的行為は、子供のそれとは反対の極に居る行為だと思っております。だから、何故多くの方々が芸術や天才を語るときに子供を引き合いに出すのか、いつも不満です。ここでは芸術家と子供は「反対の極にいる」という認識が第一義的であり、「似たような好奇心を持っている」と言う認識は第二義的であると思えるのです。



>彼にとっての「現代性」とは、伝統的な美術の様式では表象できなかったものに形を与えるということです。『悪の華』でいえば、たとえば乞食や、都市の描写ということになるでしょう。これらは伝統的な美に範疇に入りませんでした。乞食などは当然、十九世紀以前にも存在したわけですが、それが主題として描かれることは稀でした。

私は物理学をやって来て、学問と言うものは進歩すれば進歩するほど今までに見えなかった多様で新しい世界が広がって来るので、前の価値観では捉えられない新しい価値観や問題点を常に生み出して来るものであるとの見解を持つようになりました。ですから、単なる今までの思考形態の延長上の改良でなく、全く新しい世界を生み出したものに取っては、今まで誰も相手にしなかったものや気が付かなかったものの中に、全く新しい価値観を見出すことは当たり前なことだと思っております。乞食しかり、西洋人に取っての東洋芸術しかりです。物理学の世界でも、伝統的に「破壊の法則」と考えられていた「熱力学第二法則」、あるいは「エントロピー増大の法則」と呼ばれる法則の中に、それとは全く違って、この世界に自発的に構造が出現するために本質的な役割があることを新たに見出して、この法則を「創造の法則」と捉え直された等も、その例に入ると思います。それが、今までの考え方を根底から覆せれば覆せる程、驚きの創世としての第一義的な価値があると思っております。

しかし、ここでもまた、第一義的と言う言葉が出て来まし。私は第二義的、第三義的、、、な驚きは、「何でも有り」の驚きで、単な「奇」に堕する危険を伴っているのではないかと思っております。だから、単に今まで皆が相手にしていなかったものを引っ張り出して来るだけでは、私は説得されないのです。また、子供のような好奇心だけでは駄目なのです。しかし、今までの私のお目に掛かって来たモダンアートの殆どのものからは、それ以上のものを私は感じることが出来ませんでした。乞食に美を見出したんだから、今度はケツの穴にも美が在るんだと言っているようにしか思えないのです。

前にも書きましたが、ボードレールの真似をして、乞食からケツの穴に移行する連中を一杯作り出したと言う意味で、ボードレールも、人間どもを嘲弄するために悪魔が送り寄越した、モーツアルトに匹敵する天才と考えることは出来ませんか。

もしそうだったら、ボードレールのどの作品を読むと、その後継者とは違った好ましい芸術家であったのか解るような、何かボードレールの確立した座標軸が解るような作品を紹介してくれませんか。きっと、その座標軸から現在のモダンアートを駄作を見ることによって、ボードレールの良さが解るようになるかも知れませんから。
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冬の寒さは身にこたえますね。

お体をお大事にして下さい。人間も猿も本来熱帯の動物として進化して来たのに、本来いる場所でない筈のところまで進出するようになって、いろいろな不都合を蒙っているようですね。確かに、冬の方が夏よりも風邪を引き易いですからね。物理屋が文学談義とは、風邪を引かないように注意しておきましょう。

貴方からのモダンアートの話しをする前の宿題を忘れていました。

>しかしあまり重要な問題ではないことがわかってはいるが、その事象に愛着を感じていたとしたらどうしましょうか。全体像の把握としては、最初には見捨てるべきであり、第一義どころか、第三義にも引っかからない――しかし、その事象が大変自分には魅力的であった場合、どうしましょうか。少なくても詩的言語における問題は、それが見捨てきれないということなのです。一流の物理学者の先生の意見を伺いたいところです。その見解を伺ってからモダンアートのお話はしましょう。

一流の先生の足の爪の垢程もない私個人としては、その人が何に魅力を感じているかでその人の物理学者としての能力が試されている、と考えて居ります。たとえ当面の問題に関して第一義的なことには思えなくても、それがこの世界の在り方から見て、もっと重要なことと感じた場合には、たとえそれをいきなり論じ始めなくても、そのことを頭の片隅に常に意識しています。その頭に引っ掛かっていることは、世間で皆が相手にもしていないことの場合だってあります。それどころか、そんな皆が相手していなかったところに物の本質を見出すことが出来たとしたら、その驚きは何にも代え難く、私は天にも昇る気持ちになれると思います。

ですから、私にとっては、「その事象が大変自分には魅力的であった場合、どうしましょうか。」という個人の好みだけでは、それに拘っていることに興味が持てない。その個人的な好み、それを直感と呼んでも良いと思いますが、その直感がこの世を理解するためのキーワードとして的を射ていなくては満足できません。その直感は、常々何が第一義的なのかを問い掛ける経験と思索と、更に重要なことに、幸運によって得られるものだと思っております。私は好き嫌いの判断がその人が培って来た善し悪しの判断と重なる時、私はその判断に学問としての価値を認めます。だから、本来第一義的なことでなかったことを好きになってしまった方は、例えば、体が小さいのに相撲取りに成りたいと言っている方と同じで、個人的な好みとしては如何様とも成されば良いが、もし、本気で相撲取りに成りたいと言うなら、不運な方だと思います。、私は出来るならそんな不幸な目には遭いたくないです。しかし、人事を尽くして天命を知る。仮令そうなってしまっても、その不運に甘んじることができるようになりたいとも思っております。

>そこでボードレールは「美とは常に奇矯なものである」と述べています。

私はこの言葉を、「美とは常に驚きである」に置き換えたいです。私は「奇」という言葉と「驚き」という言葉を峻別しております。

>モダン・アートですが、少なくてもボードレールの時には奇を衒うということ別の趣旨があったことは確かです。

と言っているのですから、ボードレールも芸術の本質が奇であると入っていないのではないでしょうか。

>また好奇心を芸術家にとって、もっとも重要な要素とするのです。

自らの中に世界を構築しようとするあらゆる活動では好奇心は重要な要素です。子供はその世界を創り上げている段階です。だから、芸術家も学者も子供も好奇心が丸出しなのです。ですから、それは芸術家だけの特徴ではないと思います。

つづく
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こんばんは、iacta-alea-estさん。




ぼくんちに SONYが やって来た!


(*^^*)えへっ、ウォ―クマンを購入―☆


Xアプリ開いて、CDを入れライブラリーにたぁーんとお気にの曲を保存。

保存した曲をウォ―クマンに移し持ち運びスタンバイOK!


音バリいい~♪


何聴いてるのって?


(*^^*)v 久保田くん。止まらない 雨が ~♪


"LOVE RAIN"



あっ、そだ、「くらき海」あのタイトル目にしたせいか1枚CDレンタルしちゃった。


倉木麻衣の"Beautiful"を
http://www.youtube.com/watch?v=fjEtPs7oIuI


くらきうみ…くらきまい 5文字 


倉木麻衣といえば…


やっぱ、"Secret of my Heart"
http://www.youtube.com/watch?v=Al9wsG2Kceg&featu …


謎を追え!コナン、君の出番だ!


てなわけで、ご明察。旅に出てました。


旅ゆけば~


水の華、華ははなでも華でない花


で、草の方とくりゃ


…ゲッ、草木も眠るですか?


起きてますってば、怪談じゃありませんよ


草木ときて水とくりゃ


草木ダム(水力発電)
http://www.suiryoku.com/gallery/gunma/azuma/azum …
http://www.water.go.jp/kanto/kusaki/


で、、夏がお好きと(-。-)y-゜゜゜


てことは…


【日本経済新聞2010/5/24】
http://www.nikkei.com/tech/ssbiz/article/g=96958 …


―――――「石のフルートで歌う声」に耳を傾け、「首都の騒めきを聞くのである…」「いま聞くこの鐘の音は、パリの歌声なのである。だからこの鐘楼たちの総奏tuttiに耳を貸していただきたい。そして50萬の市民の呟きや、セレーヌの流れの永遠の嘆きや、止むことのない風のいぶきや、地平の四つの丘の上に巨大なオルガン箱のように据えられた四つの森の荘重で、遥かな四重合奏などをこのオーケストラの上にちりばめてみていただきたい。」(『ノートル・ダム・ド・パリ』 辻昶・松下和則共訳、潮文庫第三編2「パリ鳥瞰」230-231項、昭和48年刊)
http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso …
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 《聖ペテロの否認 Le reniement de Saint-Pierre 》を読んでみました。

ボードレールのキリスト観をたしかめるためです。

 No.24&25&29&30&31&32です。

 検索で次の論文を見つけました。
 ◆ 松本勤:ボードレール「聖ペテロの否認」について(正)
 Le Reniement de saint Pierre de Charles Baudelaire

 http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?b …

 ◆ 松本勤:ボードレール「聖ペテロの否認」について・続
 Le reniement de saint Pierre de Charles Baudelaire (suite et fin)

 http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?b …

 ☆ 松本(正)に 次のような引用があり これをわたしは――いまのところ――支持する見方を持ちます。その結果 ボードレールは 必ずしも神と悪魔の二元論に立つグノーシス主義でもないと考えられます。そういう余地が残ります。
 松本は 論文(正)の pp.42-43において 次の評論からそのボードレールの――特にはこの《聖ペテロの否認》および《サタンへの連禱》をめぐる――キリスト観を引用しています。

  ● T.J.Clark, 《 The Absolute Bourgeois.Artists and Politics in France 1848-1851 》, Thames and Hudson, 1993.p.168

 ☆ コピー・ペーストが出来ないのですが 次のようです。
  ● 《聖ペテロの否認》と《サタンへの連禱》は 単なる怨恨から限りなく把えがたい服従形態まで 神に対する無数の態度を示唆している。
  ● これらの詩はいかなる一つの神学も選び取らぬ。
  ● いつに変わらず これらの詩はあいまいである( equivocate )。しかし これらは怒りをこめて( in anger )あいまいなのだ。
  ● これらは現実のもの(ザ・リアル)と聖なるもの(ザ・セイクリッド)との分離を呪い 行動と夢との分離を呪う(一方が他方の姉妹でないがゆえに その両方が《深淵( Le Goffre )》においては 同じ奈落の 同じ絶望の様相を呈する)。
  ● 多くの人びとは彼ら(=プルードンとボードレール)の神が残酷であると非難してきた。彼らがやったことはといえば 非難をその論理的終結にまで押しすすめたことだ。
  
 ☆ 松本もむろん評言をあたえています。また 今回はこの引用文をのみ掲げて 進展を俟ちます。

 言おうとしたことは ボードレールがたとえば単純にサタン派に立ってものを言っているのではないというところです。この点じたいは 単純であってすでに周知のことであるかとも思いましたが まづはその出発点に立ちましたという報告までです。《グノーシス主義》であるとは言い切れないという物言いを まづここで差し挟みましたというところです。


 * 蛇足ですが グノーシス主義ではないということは 《悪魔(サタン)がおこなったことはすべて 神のゆるすところとして おこなわれた》と解釈することを意味します。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。一般的にいって、「~~とは言い切れない」という慎重さは、大切なことです。ただし問題はそこから何を導くことができるか、でしょう。

T.J.Clarkの引用箇所は読みましたが、それほど松本勤の議論で核になるものとも思えませんでした。それにT.J.Clarkの議論は宗教性という議論を離れた論点から、この詩を論じられないかという提案であって、グノーシス的か否かという論点とは別だと私は思います。
しかし仮にもとの議論と離れたにせよ、Bragelonneさんが何かを見出したというのなら、それはそれで有益なことです。問題はそこからどうやって議論を展開するかにかかっているでしょう。この点をもう少し明らかにしてくれませんか。また

>グノーシス主義ではないということは 《悪魔(サタン)がおこなったことはすべて 神のゆるすところとして おこなわれた》と解釈することを意味します。

このように解釈できる根拠は、ボードレールのテクストのどこにありますか?

お礼日時:2010/12/14 16:32
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