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天領は年貢の取り立てなどが厳しくなかったので百姓は助かったという話を聞いたことがあります。
他に百姓が生活しやすかった藩はどうこでしょうか?
逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩がありましたか。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

>逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩


 南部藩は、江戸時代に138回の一揆が発生したそうです。(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)

 原因は
  * 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
  * 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
  * 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
  * 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
  * 海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に、水稲の基準で重課税。
  * 三閉伊地方の産業(海産、材木、製鉄)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。
  * 「軒別税」(人頭税)を実施したこと。
  * 藩札の大量発行によるインフレーション。
  * 幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税。
  * 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。
  * 戦国時代以来のライバルである弘前藩、仙台藩に対抗するために恒常的に高直しや官位の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。

 島原藩は島原の乱を起してしまった過酷な藩政の責任を問われて、藩主の松倉勝家は、改易処分となり、後に斬首となった。
 (藩の藩主が切腹すら許されず斬首された事例は、この1件のみ)

 水戸藩は、御三家の中でも唯一江戸常勤を定められた為、膨大な支出がある上に徳川光圀(水戸黄門)の時より行われた水戸学(大日本史の編纂)の費用で、税は8公2民(4公6民~5公5民ぐらいが一般的)でした。

 御三家である為、一揆が多発してもお取り潰し等の責任をとらされる事も無いうえに、徴税の手違いで村民皆殺しを行った「生瀬一揆」も有ります…。
 後の天狗党の乱の時も、関係者の家族まで処刑し、大勢が変ると報復に相手の家族を皆殺しにするなど、血生臭い行為に走りやすい傾向が有るのかも知れません…。

 ちなみに徳川光圀は、若い頃に辻斬りを行ったり、舶来物の贅沢品を好み、自身の趣味でもある大日本史の編纂に関係する資料の献上を推奨(賄賂)し、水戸学は幕末の倒幕のイデオロギーにも成ります…。
 (水戸黄門漫遊記の悪役を1人で包括出来そうな方だったり…。)
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>百姓が生活しやすかった藩はどうこでしょうか?



伊予小松藩ですね。
伊予西条藩の隣である伊予小松1万石です。
旧藩主やその家臣の末裔は、今でも小松町で生活しています。

この藩は「東は、紀伊和歌山藩分家の伊予西条藩。西は、家康と同じ生母・伝通院(於大の方)から誕生した久松松平家の伊予今治藩」の双方とも親藩に囲まれています。
藩内で事件を起こしたくなかったのでしようね。領内では、政治に気を使ったようです。
何か事が起きると、一発で「不行き届き」です。

農民に対しては、次男坊・三男坊を「(今で言う)契約社員」として藩で雇用しています。
(1年契約で微々たる給金ですが、食事(米)には困らなかったようです)
「百姓の食い扶持を減らす事と、藩士などの人件費抑制」一石二鳥の政策ですね。
実際は、幕府が決めた藩士(人員)を確保する程の財源が無かったのですが・・・。

民主党政権と異なり「財源はないが、選挙の為に税金をばら撒く」という無策は行っていません。(笑)
こんな無策を行えば、確実に一揆が起きます。
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