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カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。
カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか?

・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール
・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン
・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン
・物質は粒子と波の性質を持つ  量子論 ハイゼンベルク
・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク 
など

の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか?
入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを
取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。

A 回答 (6件)

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。



ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹が変れば) その数だけ 論理ができるというものです。哲学を論理で思考するなら定義の数だけ 出来上がり 従来の絶対真理があるはずである というモダンとは 真っ向から対峙するものです。

このポストモダンのなか 科学とは何か であります。科学は 論理であることは 間違いないところです。絶対真理を求めるモダン科学は ポストモダンの出現により 根底から見直されるべきものとなったのです。アインシュタインの一般相対性理論も定義から出発する一つの系であります。定義の違った宇宙理論は当然 開発されていいのです。ニュートンの力学もそれらの中の一つであります。科学の証明手段は 観測でありますが この観測にしても その系から出発したものである限り その定義の証明は 科学以外の論理と同様に証明できないのです。そのようなポストモダン上で科学者を論評するなら 絶対真理探求のモダン型を信奉している科学者が 今 尚 多いと思います。発想豊かな ポストモダン科学者 世界中から数多出でよ、と言いたいのです。科学は絶対真理を求めるものではなく 論理の一種であります。定義から始まる論理系の構築であります。

そこでカントの二律背反をどう評価するか ですが、定義が異なれば背反することになることは認識していましたが それは 絶対真理ではない と断定し封印した と思うのです。ポストモダンに繋がるパンドラの箱を開けるのではなく逆に封印し モダンを確立する方向を目指したと思うのです。その方向は ニュートン力学などの科学との整合性はとれていると思います。ポストモダンの時代にカントと科学の検討は 時代にそぐわないのではないか と思います。ポストモダンで科学を料理するには その出発点の定義(公理)を明確にすることです。そこを理解していく ことが重要と思います。一般相対性理論も同様であって 定義の理解が重要であります。物理学が絶対真理に近づいている と理解するのは論理的には問題なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
いろいろ調べたら、カント死後も弟子達が科学と整合性を持たせようとして
様々な努力を行い、19世紀後半に新カント派と呼ばれるようになり、
著名な数学者なども加わったが、第二次大戦でドイツが壊滅的な打撃を受けて、
この哲学的な潮流が終焉したことが分かりました。
なので質問にあげた20世紀の科学的知見を消化吸収して
現代に合わせようとするカント派はいないようです。

ポストモダンのほうですが、これは1980年代に流行ったニューサイエンスになり、
その後はソーカル事件や日本ではオウム真理教の事件もあり、
余り良い状況とは言えないようです。

お礼日時:2011/11/05 17:36

超達観科学はとりあえずよこにおいときますが、


やはり、大きな意味できほん自然からつじつまがあった法則や論理を
みつけることが科学だとかていすると、その「つじつま」の認識の
越権行為のいきすぎることや、まだまだ「つじつま」のあわない世界
への今後の解明の期待感を、カントの時点でダイナミックに示そうと
したというだけで、科学に対しては、なんの悪気もないんじゃないかと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
質問はカントの時点ではなく、その後の展開・解釈についてです。

お礼日時:2011/11/05 17:37

bougainvilleaさんのスケールの大きなご質問に、どのような回答が寄せられるか、楽しみにさせて頂いています。

と云いながら回答欄を汚すことになりますが、お許しを。
大昔のことですが、カントのアンチノミーを提示し、だからこうでなければならない、という議論に大いに反撥したことがあります。大体、その基になる概念自体厳密に定義しきれない、そういうことに過ぎないので、そこから何等かの結論が出るわけではないだろう、とね。カントを少しも勉強していない時でした。
「現在では議論は成立しないのでは」というご疑問をもたれたことには、石川輝吉氏も力量不足を遺憾に感じて居られることでしょう。兎も角、少なくとも現代の哲学者のお一人は、カントから始める必要を示しては居られると云うことですよね。
全くの素人として思うことですが、ニュートンの前提とするユークリッド空間が否定され、非ユークリッド幾何学が据えられる様になる変化は、単に数学に於ける知見がそうさせたのだろうか、ということです。
われわれが日常生活に於いて持っている素朴実在論、少し省察を加えた実体論的な、そういう世界像の延長の先にカントのアンチノミーがあるのではないか(勿論そんなストレートであるわけはないことを承知の上で言っているのです)。その上に、われわれは科学の最新知見として、挙げられたような知識を持って居ます。その知見は理論的に検証するには高度の数学が必要で、学部学生程度では数学部分は公式の丸暗記の上でなければ、検算も出来ないものです。われわれは二つの世界を意味も分らず持たされなければならないのか。
要するに思うのは、カント的問題圏をくぐった嚮に最新成果を見ておかないと、オカルトが流行ることになる。あるいは、わけの分らんことは、量子的トンネル効果の成せる技なのですよ、で済ましかねない。そのようなターニングポイントにカントが居るのではないでしょうか。カントが前提とする知見は覆されたりし、古くなったかも知れないですが、それも実はカントが一役買っていたりする、そのような位置に居る。カントが特別に豪いと云うことではなく、ポイントに位置していると云うことではないかと思います。その意味で今でも学ぶべきものになるのでは、と思って居ます。
一例としては、時空間ですね。ニュートンは絶対時間、絶対空間を前提としています。カントは、その絶対性を、外的・客観的絶対性とするのではなく、人間の側の制約=認識のフレームとしての絶対性である、と転換していますね。相対性理論を受容れる素地そのものではないですか、時空間の無限性に関する数学的アンチノミーのカントの証明には疑問があるとしても。
---ご承知のことがらを中途半端な文で綴りましたが、悪しからず。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/05 17:39

科学との関連から哲学とは何か と問われているようですが、その答えは10人10色であってまとまらない とおもいます。

そこで 私は こう思う というしか 言えません。以下、参考になれば。

哲学は 人間を対象に 世界の全体について 主張するものである と思います。要は 人間を中心にそえた物語であって 人間未満の動物、植物、あるいは 他の自然などの考えとか 思いには至らない 一種の人間エゴイズムの主張と思います。

私には 主張の理解は 非論理的手段よりも論理的手段の方に分があると思われます。が 相当数の人間は 非論理的なものも 理解とか信じることができるのです。論理的手段を用いた哲学は 当然 他の論理的手段を持つ他の分野(科学、
工学、数学など)と整合がとれていないといけません。その 発展が ポストモダン の流れを創ったと思います。(しかし、ポストモダンが 世界的に相当に広がっているか 疑問です。モダン的な発想をしている学者先生は結構多い。)

哲学の非論理的手段として有名なのは弁証法だと思います。論理的には解が無い場面で解を創るという爽快感は ありますが それを信じるかどうか は宗教的である と思われます。マルクスの共産主義は その一つであり 歴史的にはソ連の崩壊により その弁証法哲学は猛省が促されていると思います。

そこで ご指摘の カントであってもヘーゲルであっても 新旧だれであっても非論理的か どうかで 哲学の第一の評価はできるとおもいます。ここが読者として重要とおもいます。科学とか 数学とか と整合がとれていなければ 非論理的であります。新しいからどうとか旧だから意味がないとかではなく 論理的にみてどうか が私の評価です。そこにフィルターがあるということです。

私の結論は 論理的哲学の方が より人間を説得できると思っています。非論理の哲学は 私にとっては あまり意味がないと思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/05 17:39

 完全な理系人間です。

でも物理思想史などは、ちょぼちょぼ読んでます。

 まずちょぼちょぼ読んだ感想から言います。17~19世紀までの哲学は、現在では考えられないほど物理学の影響を受けていたと思います。17世紀とは、ニュートンがプリンピキアを出した世紀です。プリンピキアで提出されたニュートンの力学は、余りにも性能が良すぎました。世界のあらゆる事を原理的に説明しうる万物理論だと考えられていても、当時としては仕方なかったと思います。

 当然、哲学もその影響を受け、ラプラスの悪魔など、自由意志に関わる問題を物理学に帰着させようとしますが、現在はそうでありません。物理と哲学は別物だ、という立場が現在の主流だと思えます。それは長い長い、物理学の哲学からの自立の過程でもありました。

 古代ギリシャ哲学に、自然哲学があるのはご存知ですよね?。何故ギリシャ哲学者達が自然哲学を好んだかというと、当時は人間も自然も渾然一体のものだったからだと思います。自然を知る事は、人間を知る事だというわけです。アリストテレスの生物学的自然観などは、まさにそれです。

 アリストテレスの自然観/人間観は、その後キリスト教神学と結びつく形で、中世を約1000年の間支配します。
自分の知っている最初の離反者はケプラーです。ケプラーは敬虔なキリスト教信者で、占星術者ですらあります。しかしその彼は、火星の楕円軌道を発見した時、はっきり言います。

 「私はここで、哲学から天界の物理学へと移り行く」

と。今風に言えばケプラーは、人間学である哲学と、即物的な物理学を区別したんだと思えます。ケプラーの数学的神秘主義を徹底的に拒否し、機械論的自然観を唱えたさらに即物的なガリレイは、火炙りにされかけながらも、もっと過激な事を言います。ガリレイも敬虔なキリスト教信者でしたが、

 「聖書は一般的理解に資するために、物理的事実については、比喩的でいい加減な事を書いてある」

みたいな事を言い出します。ガリレイにいたっては、聖書は人生の(哲学の)指南書で、物理の専門書ではなくなったわけです。ガリレイの直後に現れ、同じ機械論的自然観を唱えたデカルトは、もっと過激です。

 「宇宙を作れる材料をくれ!。さすれば宇宙を(世界を)作ってしんぜよう!」

とまで言います。この後にニュートンが出ます。哲学と物理の乖離がこれだけ進んだ後に、プリンピキアの止めを刺しました。もう誰も、哲学に物理学を持ち込もうなどとは思わなくなってもおかしくなかったのですが、ニュートン力学の性能が余りにも良かったために、今度は哲学が物理学の影響を受けてしまいます。

 当然の事ですが、その不均衡は長続きせず、現在にいたっています。以下は個人的意見です。

  「哲学が物理を考慮する必要はあるのでしょうか?。それが人間学だとすれば・・・」

 という訳で、やっぱり妥当な回答は、#1さんでしょうか?
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この回答へのお礼

ここらへんのカントまでの流れ、同時代の科学の展開はよいと思うのですが、
それから時が流れて19世紀~20世紀初頭に科学のほうで質問文に書いたような
革命的な知見が得られたのに、哲学にはまったく反映されずに
ハイデガー、アレントを論じているのはどうなのよ?という疑問が残ります。

お礼日時:2011/01/19 16:30

物理の深まりに応じて、たとえば天体物理や量子化学、分子生物学から


量子生物学への流れなど、物理的=原理的な要因から現象を捉えようと
する動きが進行する。
その意味で、量子生物学はまだヒヨコであり、その後にくる「量子哲学」を
やっている人は、日本ではアマチュアの僕を含めて数えるほどしかいません。

「無」を感じられるとしたら、その「感じる」主体があるので、真の無ではありません。
「無を感じられない」ことの中に、ある形で「真の無」はあるのです。
「ある形」とは、その「存在するのではないか」という意識を、本質的に無に還元するような物理法則をともなう世界です。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。

しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもので、根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します。
実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。

我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(時間=過去=超光速)による予測(空間=未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。
無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補としての「時空仮説性」。

「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定性が、超光速(経験=時間)と光速下(予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出し、その相殺=無の相対化として量子性(=存在性)は得られるのです。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございます。
「量子哲学」はペンローズとかあの辺のことでしょうか?
いきなり最先端の科学はムリにしても、19世紀~20世紀初頭の科学の知的成果すら
日本の哲学界にあまり還元されてない感じがしました。

お礼日時:2011/01/19 16:26

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