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浪人生です。日本史の勉強をして疑問に思ったことがあります。
幕府と聞いて連想するのは鎌倉・室町・江戸の三つですがこれ以外にも幕府ってあると思います。幕府というのは日本史の教科書によると蝦夷征討のため陣を敷く際にまわりを幕で囲ったことからこのように呼ばれるようになった、というような内容が書いてありました。しかし頼朝以降その存在が変わったものになった気がします。そこで
(1)頼朝はなぜ権右近衛大将の地位を捨ててまで征夷大将軍になりたかったのか。(それまでに征夷大将軍という存在は歴史の流れの中であまり知れ渡ったものではないのになぜなりたかったのか)
どこかの参考書に蝦夷征討のために武士を率いる権利を持つ→武士の棟梁として名実ともに認められるとありましたが、では
(2)もし(1)が上で述べたようなことであるあらば、天皇ありきの世の中でなぜ政治の実権を握ることが出来たのか。
征夷大将軍に任命されるのも天皇が全てであった世の中であったのになぜ将軍は政治の実権を握ることが出来、またなぜ天皇はそれを許したのか。それに関連して
(3)鎌倉の六波羅探題、江戸の京都所司代に代表する、いわゆる朝廷の監視を名目とした役職がなぜ存在できたのか。
そして
(4)幕府とは何か。頼朝以降幕府のあり方が変わったのは一目瞭然ではあるが、ではどのように、そしてなぜかわったのか
以上の四つを教えてほしいです。こういうことではないかというようなことでもかまいません。よろしくお願いします。
(上に述べた質問は全て高校範囲で疑問に思ったことなのでもし事実と違っていたらすいません。高校の範囲を超えていいので納得できるような回答をしてほしいです。図々しくて申し訳ありません。)

A 回答 (3件)

『逆説の日本史』(井沢元彦/小学館文庫)を読んでください。



(1)~(4)のすべての回答があります。

逆説の日本史は、古代史編ではけっこうアヤシイ記述も多い
のですが、中世編に入るとグッと説得力に満ちた記述が多く
なってきます。

文庫本で足利幕府の時代まで出版されていますから、4巻
から7巻くらいまで読めば間に合うでしょう。


いちおう『逆説の日本史』やその他の書籍を通じて私なりに
理解した内容をまとめます。

1.なぜ頼朝は征夷大将軍になりたかったか。
 朝廷から独立した政治勢力を作ろうとしたためです。
 鎌倉幕府の本質は武士による武士のための政府なのですが、
 既存の政治勢力である朝廷を倒す革命理論をもっていない
 ため、朝廷を打倒することができませんでした。
 かといって朝廷の組織に取り込まれてしまえば、朝廷の
 政治に不満をもつ武士の支持を失い、平氏の二の舞となります。

 そこで朝廷とは独立した行政組織を立ち上げるために、
「幕府」という概念を導入しました。
 幕府そのものは中国からきているのですが、戦争にでかけた
 軍隊が、本国政府とは別個に占領地に軍政を敷くための
 組織です。
 この「幕府」という概念を導入することで、朝廷とは別個で
 全国の武士を統治することが可能となったわけです。

 なお遠征軍が独自に占領地に軍政を敷いた例については、
 まだ勉強不測なのですが二番目の征夷大将軍である坂上
 田村麻呂の前例があるためと思われます。
 坂上田村麻呂が幕府を開いたという記録は読んだことが
 ないのですが、占領地である蝦夷地を統治するにあたって
 京都朝廷に直接干渉されない軍政を敷いていた痕跡は見受け
 られます。


2.征夷大将軍が政治の実験を握ることがなぜできたのか
「幕府」については1で述べたように、軍政組織です。
 もともとは中国からきているのですが、遠征軍の将軍は
 本国政府から直接干渉されない権限をもっていました。
(本国政府が干渉できるのは将軍の人事権のみ)
 よって全国の武士の親分である頼朝が征夷大将軍となり
 幕府を開くことで、政治を行う理論的根拠が成立するように
 なりました。

 また頼朝は平氏追討・義経追討・藤原氏追討がなった時点
 で軍事力で彼を倒すことは不可能となり、また農場経営者
 である武士の親分ですから経済力も握っていました。
 この軍事力と経済力を背景に朝廷工作を熱心にしたため、
 頼朝に逆らうことは誰もできなかったわけです。

 それでも頼朝から「日本一の大天狗」という異名をもらった
 大政治家である後白河法皇は、頼朝を征夷大将軍に任命
 することの危険性を熟知していましたから、その任命を
 拒み続け、後白河法王の死後にようやく征夷大将軍になる
 ことができました。


3.六波羅探題について
 公式には神の子孫である天皇を倒す理論的根拠をもたない
 日本人は、朝廷と幕府の両立状態で政治を行う道しかあり
 ませんでした。
 しかし朝廷には実力はなくとも権威は残っているため、
 朝廷がアヤシイ動きをしないよう常に監視する必要があり
 ます。
 そのための組織が鎌倉時代では六波羅探題であったわけです。


4.幕府とは何か
 上記の回答で述べたとおりです。


詳しい内容については最初で紹介した『逆説の日本史』と、
『この国のかたち』(司馬遼太郎/文春文庫)を読んで、
内容をよく理解してください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
すごくわかりやすかったです。幕府というのは朝廷から直接干渉されない組織であるというのは初めて知りました。だから将軍が何をしても将軍は何も言えなかったのですね。お勧めしてくださった本、とても興味深いです。ぜひ読んでみたいのですが、今はそれどころではないので、自分の志望校に合格して来年の今頃その本を読んでいることを期待して・・・。
ありがとうございました

お礼日時:2003/09/01 22:46

天皇の力が強かった奈良時代にすでに蘇我氏や藤原氏が政治の実験を天皇から獲得してますよね。


武士だからことないんじゃないの?
武家社会にとらわれずにそのへんのお勉強もしてみるといいんじゃないでしょうかね。
幕府はその時の方法の一つとしてとっただけでしょうし。
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大前提として・・・歴史は歴史家が作るというポイントが重要です。


あるいは、後世のものが作る。

頼朝がいろいろと任官した中で、後継者が「頼朝なる者」の象徴として征夷大将軍を選び取ったわけです。
ちなみに頼朝が没したのが1199年、頼家が任官したのが1202年です。その間、政権の空白があったわけではありません。
吾妻鏡での北条政子の有名な台詞でも「故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降 云々」と、吾妻鏡が作られた鎌倉時代においては、頼朝は故右大将軍として認識されているのが分かります。

2)政治の実権
政治の実権は、任命されるのではなく、獲得する物です。森政権下で、党の総裁でもある森氏に任命されている野中幹事長が最大の権力者と言われたのと一緒です。
当時の実感として、天皇よりも、関白なり摂政あるいは、上皇(治天の君)として、最大の権力者とされていたわけですので、天皇が許す許さないの問題ではないでしょう。
ちなみに、承久の変までは、鎌倉政権は東国の一地方政権というのが、歴史学の基本のようです。

3)存在できた理由は、武家政権が公家政権を上回ったからです。
六波羅探題は、承久の変で武力によって公家政権を打倒した結果設置できたわけです。

4)これは深い問題ですね。幕府の問題というよりも、日本独自の天皇制の問題です。
なぜ、権力の無くなったものが数百年生き延びたのか・・・権力者が打倒し消滅させなかったのか・・・世界史的に見ると、イスラムのカリフ制度や、ローマ法王に近い物かもしれません。

天皇制が残ったから、幕府制という統治体系ができたのでしょう。
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